将軍家と朝廷の宴会は下らない
室町時代は将軍家と朝廷の宴会が多かった。応仁の乱の最中も宴会三昧であった。室町幕府は将軍の権威を高めるために朝廷の権威を利用した。朝廷も幕府が必要であった。このために将軍と朝廷は近しい関係であると演出する必要があった。実際に仲が良くなくても、本音は嫌でも付き合わなければならかなった。現代日本の飲みニケーションと重なる。
ある夜、銀色の月が静かに空を照らしていた。将軍御所で、一際豪華な宴が催されていた。その中心に座る室町幕府第九代将軍の足利義尚の表情は微妙なものであった。彼は宴会の場での表面的な振る舞いに疲れ果てていた。公家達は煌びやかな衣装に身を包み、笑顔を浮かべている。しかし、その笑顔には時折、将軍家への不信感や怒りが隠されていた。
義尚は朝廷関係者との酒宴や公的な儀礼を嫌った。遅刻、早退、欠席が多い(石原比伊呂『北朝の天皇 「室町幕府に翻弄された皇統」の実像』中公新書、2020年、216頁)。蚊に刺されてかぶれたという欠席理由がある。仮病によるサボりも多かっただろう。酒が飲めない訳ではない。むしろ義尚は大酒飲みであり、それが死因になった。
義尚は決して社交不適合者ではなかった。彼は趣味の和歌を通じて公家とやり取りしており、自身が興味を抱く分野では積極的にコミュニケーションを取っていた。義尚が嫌ったものは儀礼的な付き合いである。儀礼的な付き合いを無駄と考える現代人的な合理主義精神を持っていた。
義尚が儀礼的な付き合いを避けた背景には、彼自身の人間性や生の営みへの憧れも影響していた。儀式に縛られることなく、人としての真実の姿を追求し、個々の瞬間を大切にすることに重要性を見出していた。儀式が形骸化し、意味を失っていると感じることで、義尚の内面には深い孤独感と反抗心が渦巻いていた。
これには歴史的な必然性がある。応仁の乱後は守護在京制が崩壊し、将軍と朝廷の儀礼的昵懇関係を守護大名達に見せつける必要性が低下した(『北朝の天皇』225頁)。義尚が儀礼的な宴会を嫌ったことは歴史の流れに沿っている。義尚の内なる葛藤と価値観の衝突が、酒宴と儀礼からの逃避を一層深めた。義尚の内面には、儀礼と個人の真実、合理主義と感性の対立が交錯していた。その複雑な心情が、彼の生涯に一石を投じることとなった。
これは現代の忘年会スルーにも重なる。昭和には飲み会は仕事という感覚があった。
「今も昔も日本社会における酒宴は、ただの遊興ではない。社交の場であり、“政治”の場でもある(ゆえに特に若手にとって忘年会などはストレスを感じる場となるのだが、それでも参加しておいた方が何かと合理的なのである)」(『北朝の天皇』210頁)。
しかし、人間関係だけで仕事するような無能公務員は別として、アウトプットで評価するならば宴会参加の意味はなくなっていく。宴会参加強要はアルハラでしかなくなる。
形式的な儀礼の嫌悪は細川政元に継承された。後柏原天皇の即位の礼が長い間行われなかった。これを政元は問題なしとした。即位の礼を行ったから天皇ではなく、天皇の役割を果たすから天皇である。ここにはジョブ型の感覚がある。
即位の礼を実施するならば、幕府は財政支援をしなければならないという負担がある。そのような無駄な支出をしたくないという経済観念は健全である。金をばらまいて流通させることが経済発展という昭和の感覚とは異なる。
これは第一三代将軍・足利義輝にも重なる。義輝は自身の官位昇進に消極的であった。ここにも形式的な儀礼を嫌う発想があ。官位昇進は朝廷に報酬を払わなければならないという負担がある。無意味なだけでなく、無駄である。反対に革命児とされる織田信長の方が朝廷を大事にする保守性があった。信長は足利義昭に出した異見十七ヶ条の中で義輝の朝廷軽視を批判した。実質を重視する戦国の気風には信長以上の合理主義があった。




