足利義満は朝廷を支配したい
足利義満は時代の中心に君臨した。義満は室町殿という地位を創出した。将軍御所が京の室町に置かれたのは義満の代である。室町幕府は足利尊氏に始まるが、実際に室町に幕府が置かれたのは義満からである。
義満は征夷大将軍の地位を持ちながらも、朝廷への野心も持っていた。室町に御所があるから室町殿であるが、この室町殿は鎌倉殿と異なり、朝廷と幕府双方の頂点に立つ地位である。義満は天皇をしのぐ権勢を手に入れて法皇の様に振舞った。義満の行動は時には権謀術数に彩られ、時には情熱と野心に満ちていた。
義満が何を目指そうとしていたかは諸説ある。
第一に天皇を廃して日本国王となろうとした。朝廷に対して圧力をかけ、自身を国王として擁立しようとした。彼の野望は大きく、国王としての権限を持ち、日本全土を統治しようというものであった。
第二に自分が天皇となろうとした。義満はその魅力と権力を駆使し、自身を朝廷の皇位に就けようと画策した。彼は天皇になることで、国内の権力を完全に掌握しようとした。
第三に太政天皇尊号宣下を受けて上皇になろうとした。彼はこの地位を獲得することで、朝廷内での影響力を強化しようと考えた。しかし、朝廷は彼の要求を却下した。代わりに義満の正室の日野康子が後小松天皇の准母になった。義満の野望と野心、そして彼と朝廷との複雑な駆け引きが、室町時代の政治舞台で繰り広げられた。
義満が後継者をどう考えていたかも議論がある。義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さなかった。別の子の義嗣を応永一五年(一四〇八年)に親王と同等の儀式で元服させ、参議に昇進させた。この選択は大胆であり、彼の義嗣に対する期待と信頼がにじみ出ていた。世間は義嗣を後継者にするのではないかと噂した。
義満の考えについては以下の説がある。第一に義持を征夷大将軍、義嗣を天皇にしようとした。義満は子の義嗣を自分が天皇に取って代わることは憚られたため、子の代で実現しようとした。
第二に義持を隠居させて、親王である義嗣を将軍にしようとした。親王が将軍になることは鎌倉幕府からの伝統である(桃崎有一郎『室町の覇者 足利義満 朝廷と幕府はいかに統一されたか』ちくま新書、2020年、240頁)。
朝廷と幕府、天皇と将軍の関係が複雑に絡み合う中、義満の計画は多くの関心を引き寄せた。権謀術数と情熱が交錯し、義満の後継者を巡る駆け引きは、国家の未来に大きな影響を与える出来事へと発展していく。その決定は一国の運命を左右し、国内外の政治的な力関係に影響を与えることになるだろう。ところが、義満は急死してしまう。義満の野望は義満一代で終わり、純粋な継承者はいなかった。義満の説明不足である。
朝廷支配は義満一人の野望であった。義持は父の行動に疑念を抱き、反発した。
「父上は義嗣を偏愛し、自分を廃して将軍にしようとしているのではないか」
義持は義満の死後、父のしようとしたことを否定し、義満の朝廷支配の道を切り捨てた。義持は「倹約御好み」と評され、派手な儀式や無駄な贅沢、飽食を嫌った。これで救われた公家も多かった。義満は公家を強制的に儀式に駆り出す。参加しなければ追放される。しかし、儀式に参加するためには出費がかかり、大きな負担であった。
一方で義持も朝廷を支えるという室町殿の役割を全否定しなかった。義持の政治を義満の否定と単純化できない。義持は自身のスタイルで室町殿の役割を再評価し、時には父親の義満を手本にし、時には独自の道を歩んでいった。
さらに六代将軍足利義教は義満の子であり、兄の義持よりも父親の義満を手本とした。義教は自身の使命と信念を追求し、父親と兄の足跡をたどった。
朝廷との関係は幕府の制度的なものというよりも将軍個人に担われた。幕府を支える守護大名は朝廷には関心がなかった。「彼らが神経質なのは、各々の守護職とその統治する領国に関してで、朝廷から授かる官位はおよそ実を伴わないもの、名誉職でしかなかった」(平岩弓枝『獅子の座 足利義満伝』中央公論新社、2000年、183頁)。
後亀山院は応永一七年(一四一〇年)に京を出奔して再び大和国の吉野に潜伏する。
「持明院統と室町幕府は、三種の神器と皇位を掠め取った。その罪は万死に値する」
後醍醐天皇に習い、幕府に反旗を翻す志を天下に示し、和平の条件の履行を幕府に迫った。後亀山院の呼びかけによって南朝の遺臣達が集まり、後南朝の活動が続いた。楠木正儀の子の楠木正秀も参加した。
後南朝が自身の存在を証明し、南朝の遺志を継ぎ、新たな未来を切り開いていく姿は人々の心を揺さぶる。南朝を正統する立場からは後南朝の活動した時代を後南朝時代と呼ぶ見解もある。




