北朝は南北朝の合一を反故にしたい
南北朝の合一を実現した明徳の和約では以下のことが定められた。
第一に譲国の儀で南朝の後亀山天皇より北朝の後小松天皇に三種の神器を引き渡す。
第二に皇位は持明院統と大覚寺統で交互に継承する両統迭立とする。
第三に国衙領を大覚寺統、長講堂領を持明院統の領地とする。
しかし、北朝は約定を反故にした。譲国の儀は行われず、三種の神器は北朝が一方的に接収した。北朝の後小松天皇は譲渡の儀式を省略して三種の神器を後亀山天皇がいる大覚寺から土御門の内裏へ移させた。譲国の儀を行うと南朝が正統であったことを認めることになるためである。
両統迭立も反故にされた。後小松天皇は息子の実仁親王に譲位しての称光天皇が践祚した。以後の皇位は持明院統が独占した。
国衙領を大覚寺統、長講堂領を持明院統の領地とする約定も変な話である。元々、大覚寺統は八条院領、持明院統は長講堂領を経済的基盤とした。南朝の劣勢の中で八条院領は押領されていき、回復されることは無かった。足利氏の本拠地の下野国足利荘も八条院領であった。
北朝が明徳の和約を反故にした説明には以下の説がある。
第一に足利義満は最初から南朝をだますつもりで、守るつもりをない約束をした。「義満には、最初からこれを履行する意志はなく、京都に神器をとりあげ、後光厳天皇いらい後ろ暗さを感じていた北朝を正当化することで足りたのである」(林屋辰三郎『内乱のなかの貴族 南北朝と「園太暦」の世界』吉川弘文館、2015年、216頁)
第二に南北朝の合体を進めたい義満が勝手に約束したもので、北朝は両統迭立などを了解していなかった。義満は南北朝の上に君臨する立場を目指したいため、南朝も一定の力を残した方が好都合である。これに対して北朝は自身の権威を守ることを優先し、義満の意図には乗らなかった。
これらの説は、明徳の和約が実際にどのような背景で締結され、なぜ北朝がその内容を無視したのかを解釈する上で重要な視点を提供する。義満の動機や北朝の反応についての議論は、南北朝時代の政治的な複雑さと論争の一端を示すものである。
北朝にとっては南北朝の合体自体が迷惑な面がある。北朝からすれば勝手に吉野で天皇を僭称する反乱勢力が存在するだけの話である。吉野の反乱勢力であって、南朝と呼ぶことも認められない。吉野の反乱勢力は孤立させ、立ち枯れさせれば済む話である。南朝など顧みる価値のない、反乱者の群れとしてしか映っていなかった。南北朝の合体をするから南朝が正統という議論が生じ、その後の天皇の先祖になる北朝の天皇が貶められる。
北朝からすれば後亀山は天皇でなく、後亀山が行幸の体裁で入京したことにも反発があった。このような状況下で南朝との合同が進むことは、北朝の地位をさらに不安定にし、その存在を脅かすものとなった。
一方で北朝は合体後に南朝から三種の神器を獲得している。これによって北朝はその正統性を主張する基盤を手に入れることができた。三種の神器は天皇の即位において重要な象徴であり、それを手にすることで北朝の天皇も自身の正当性を訴えることが可能となった。三種の神器を皇位の正統性とする限り、南朝の認めざるを得ず、南北朝の合一が必要になる。合一の決定は両朝の歴史的な権威や地位に影響を及ぼすものであり、その結果は当時の政治的な複雑性を浮き彫りにした。




