足利義満は今川了俊を解任したい
今川了俊は九州での経営を精力的に進め、その努力が実を結ぶ日々が続いた。この永徳二年(一三八二年)に了俊は氏久の甥の島津伊久を薩摩守護に擁立して、氏久に対抗した。氏久は至徳四年(一三八七年)に亡くなり、九州で了俊に対抗する者はいなくなった。林田力泰は了俊の支持者の一人として、彼の九州経営を支えるために積極的に行動した。
「我が事は将軍の御身の分身と考えて下さい」
了俊は自らを室町幕府将軍の分身と称し、幕府に伺いを立てずに九州の武士達に所領を安堵し、恩賞を与えた。この際も、力泰は了俊の決断を支持した。
「その決断を支持いたします。九州の武士達も、了俊公のご恩に感謝し、心から従うことでしょう。」
「そうだろう。更なる繁栄のために努力して欲しい」
「心よりお約束申し上げます」
力泰は九州の武士たちに向けて了俊の指示を伝え、彼らに安心感と信頼を与える役割を果たした。了俊の将軍の分身としての地位は、彼の支援者たちにとっても重要な意味を持った。力泰は了俊の活動に積極的に参画し、彼の統治の成功に寄与したことで、九州の武士社会における地位と影響力を高めることに成功した。
明徳三年(一三九二年)に南北朝の合一がなされる。了俊は九州統一戦争を続けていたが、足利義満から帰京命令を受けた。
「力泰よ、幕府からの帰京命令を受けた。九州統一の任務は果たしたが、今度は幕府の呼びかけに応えねばならぬ。どうも悪い予感がする」
「これから繁栄の果実を享受できると言うのに」
「幕府の命令だ」
「これまでの探題殿のご活躍に感謝申し上げます。九州は探題殿の尽力によって平和を取り戻しました」
「力泰よ、今後も九州の平和と繁栄を願う。幕府の命に背くことはできぬが、力泰の支えが私の心にはずっとある」
「これまで本当にありがとうございました。探題殿の活躍は、後世に語り継がれるべきものです」
帰京した了俊は九州探題を解任され、渋川満頼が後任になった。九州には入れなった九州探題・渋川義行の息子であった。九州が南朝に席巻された幕府の危機に九州探題に任命され、危機が去ったら解任された。『史記・越世家』の「狡兎死して走狗烹らる」の通りになった。
了俊の解任は、了俊が九州で独立王国のようになることへの警戒があった。今川氏は足利一門の中でも名門である。室町時代には「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われた。江戸幕府の御三家のような家柄であった。逆に将軍家の親戚筋として、幕政への関与は抑制された。
同じように足利一門の中でも家格が高い家に斯波氏がある。斯波氏は室町幕府の執事(管領)になり、実権は持ったものの、家臣扱いになった。斯波氏に執事就任が打診された際に逆に屈辱と感じて一度は拒否したほどである。一方で斯波氏が就任することで足利家の執事から天下の管領になった。高師直と足利直義の対立を生んだ家政と国政が一元化された。
戦国時代に守護大名の地位が低下していく中で、今川家は家格の維持に努めた。その甲斐あって、今川家の家格は高いまま維持できた。吉良氏は承久の乱以降に三河国に多く与えられた足利氏の所領を指揮・監督する役割を持っていた。今川氏は三河国に進出したが、本家の吉良家を超える存在になるという、単なる勢力拡大以上に意味があった。




