表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
100/187

林田力泰は林田家を継承したい

林田隠岐守は幕府軍を撃退したものの、征西府は後退に後退を続け、、ついには筑後国を失うという苦い現実に直面した。了俊は肥後国に進出し、肥後国が南北朝の最前線となった。

「今は耐え忍ぶ時だ」

林田隠岐守は自分に言い聞かせるように呟いた。この言葉は、困難な状況に直面しても、忍耐強く立ち向かおうとする決意を示している。林田隠岐守は肥前国で独立の意志を保ち続けた。そこには水島の役に助けられた面がある。


了俊は永和元年/天授元年(一三七五年)に肥後国の水島に陣を張り、九州の三大守護の少弐冬資、大友親世、島津氏久に援軍を求めた。彼はこの援軍を受けて肥後国の支配を強化しようと計画した。しかし、状況は思わぬ方向に進んだ。


了俊は援軍歓迎の酒宴の場で冬資を暗殺してしまう。その背後には、九州探題と少弐氏との対立関係が影響していた。九州探題と少弐氏は常に対抗関係にあり、了俊は少弐冬資の存在を排除することで、彼らの連携を妨害しようとした。


しかし、この行動は思わぬ結果をもたらした。これは冬資を誘って参陣した島津氏久の面子を潰すものであった。氏久は怒って帰ってしまい、了俊に反旗を翻した。了俊は征西府に加えて島津という敵を作ってしまった。この二正面作成により、肥後国の戦いは難しくなった。


暗殺事件によって了俊は九州の守護たちとの信頼関係を崩し、特に氏久との対立を激化させる結果となった。了俊は九州内で敵対する存在を増やすことになり、肥後国の支配を強化するどころか逆風となってしまった。了俊が肥後国で苦戦していると有明海を挟んだ対岸の島原半島の林田隠岐守は了俊の混乱した状況を利用して相対的に楽な状況を築くことができた。


南北朝の争乱が長引いた原因は幕府側が優勢になると幕府側に内乱が起きるためである。幕府側の統制力の不安定さが、南北朝の争いを複雑にし、長期化させる要因となった。内乱の連鎖が、南北朝の対立をさらに長引かせる結果となった。


林田隠岐守は嫡男の力泰を呼んだ。

「俺が死んでも、お前が生きてさえいてくれれば、林田は滅びぬ」

「父上……」

「俺はもう長くない。だから、これからはお前が林田を率いていくのだ」

「はい!父上のご期待に沿えるよう精進いたします」

「うむ。励めよ」

力泰は父の言葉に従い、林田家を継いだ。そして天草郡を制圧して、肥後に進出した。


今川了俊は巻き返しを計画した。永和三年(一三七七年)に九州の国人六一人と一揆契約を結び、島津氏久に対抗した。この一揆に林田力泰も加わった。一揆では守護に対抗して領地を守る国人の要求を取り入れたものであった。了俊が主導したもので、後の国人一揆のような国人の主体性は弱いが、その先駆と言えるものであった。


林田氏にとって南朝から北朝(幕府)への転換であった。了俊は征西府で朝貢の実務に携わった林田氏を優遇した。幕府にとって明との外交や貿易は重要課題であった。林田力泰は征西府で得た知識を活かすことができた。

「あの頃は征西府のために働いていれば良かったのだが……。今は違う。幕府のためではなく、領民のために働いている。だが、今さら、どうにもならぬか……」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ