表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います  作者: 林田力
南北朝時代の林田隠岐守に転生して南朝で戦います
1/187

林田氏

長崎県雲仙市に住む会社員が、ある日、白い光に包まれた。目覚めたら見知らぬ天井が見えていた。日本家屋であり、工業製品は見当たらない。しかも自分の体も変である。子どもになっていた。これが転生なのだろうか。文化レベルは中世の日本のようであるが、物語世界なのか現実の過去の日本なのか。人の顔などは漫画的な外形ではなく、リアルなものなので過去の日本なのだろう。


周囲の話から、自分が林田隠岐守、西海道(九州)の肥前国高来郡たかきぐん千々ちぢわの幼い領主であると分かった。父親は早世したため、幼い身で領主になった。林田隠岐守は領主が代々襲名している。千々石は島原半島の北西の付け根に位置し、橘湾に面している。幼い領主という立場のため、周囲の人に質問でき、情報収集ができた。林田隠岐守の情報収集意欲に家臣達は聡明な領主と好意的に評価し、忠誠心も上昇した。


林田氏は清和源氏満季流である。清和源氏は清和天皇の経基王が源姓を賜ったことに始まる。父は清和天皇の子の貞純親王である。皇族の子どもも皇族になると世代を重ねるごとに皇族が増えていく。そうなると全ての皇族の生活を国家財政で賄いきれなくなる。このため、一部の皇族に源という姓を与えて臣籍に降下させた。


当時は平安時代中期で、律令制度が崩壊し、武士が台頭しつつあった。武士の台頭を示す出来事が承平天慶の乱になるが、経基は鎮圧側として参加した。経基は承平九年(九三九年)に武蔵国に武蔵介として赴任した。朝廷の官位は藤原北家が独占していたことと、経基の代までしか皇族でいられないため、現地で勢力を伸ばそうと考えた。しかし、現地の有力者の平将門の介入を招いた。将門は父親が早世したために所領を伯父の平国香に押さえられていたが、承平五年(九三五年)に平将門は国香を討ち取った。


経基は武蔵国に着任早々、郡司の武蔵武芝に接待や賄賂を要求するが、拒否される。これに腹を立てた経基は武芝を潰すために朝廷に讒言して逮捕状を用意させた。これに平将門が介入し、仲裁の酒宴を開いた。しかし、経基は朝廷に平将門が謀反を起こしたと告発した。この時は将門の主張が認められ、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁された。


天慶二年(九三九年)に常陸の国で国司・藤原維幾と現地領主・藤原玄明の争いが起こる。玄明を匿い、維幾と対立した将門は常陸国府を襲撃し、印綬を強奪した。腐敗した都の貴族社会に失望し、民衆のため坂東に独立国を築こうとした。当時の民衆は国司からの重税や労役に苦しめられていた。平将門は公を否定する。自分達が当たり前のものと思っていた支配体制として朝廷を否定した。


それまでも将門は一族や他の豪族と私闘を繰り返していたが、朝廷への明確な反乱は国府襲撃からである。瀬戸内海の藤原純友も、それに呼応した。朝廷への反乱は天慶年間からであるが、それ以前の争いも含めて承平天慶の乱と呼ぶ。


経基は将門が反乱を起こすと釈放され、過去の報告が功績と評価されて従五位下に叙せられた。経基は平将門の乱と藤原純友の乱の鎮圧のために出兵したが、どちらも現地に着くまでに激戦は終わり、それほど大きな活躍をしていない。


清和源氏と言えば源頼朝が有名であるが、こちらは頼信流(河内源氏)である。頼信は経基の孫である。父は経基の嫡男の満仲である。頼信の子が前九年の役を戦った頼義であり、その息子が八幡太郎義家になる。頼朝にとって武家の棟梁の地位は義家の子孫という点が重要であった。逆に頼義の上の系図への関心は乏しかった。逆に源実朝は「将門合戦絵」を描かせており、平将門を武家政権の祖として肯定的に位置付けている。


経基が清和源氏初代として政治的に重視されるようになったのは室町時代からである。源氏の嫡流は義家の子の義親の子孫である。これに対して足利氏は義親の弟の義国の子孫である。足利氏も義家の子孫であるが、鎌倉幕府のように義家を強調すると源氏の傍流であることも強調されてしまう。源氏の嫡流の鎌倉幕府と差別化するために経基、満仲・頼信を崇敬の対象とした。


林田氏は経基の三男の源満季の子孫である。その子孫が各地に土着して武士団となった。源満季は検非違使となり、安和二年(九六九年)の安和の変で藤原千晴・久頼の親子を捕らえた。藤原千晴は藤原秀郷の子であり、清和源氏と武家の勢力を競っていた。この安和の変で左大臣源高明が失脚した。藤原氏による他氏排斥事件の最後になる。安和の変以降、摂政・関白が常置され、摂関政治の時代になる。藤原氏の他氏排斥は終了したが、今度は藤原氏内部での権力争いが始まる。


源満季の家督は猶子の致公むねきみが継いだ。致公は源高明の長男・忠賢の子である。安和の変で失脚させられた人物の子孫が失脚させた側の家督を継ぐことは皮肉である。源高明は醍醐天皇の第十皇子で、醍醐源氏の祖である。林田氏は清和源氏であるが、血統的には醍醐源氏になる。


源致公は兵部丞や蔵人、下総守を歴任した。正暦元年(九九一年)に源頼光と共に鬼賊を討った。致公の子の源致任は寛徳二年(一〇四五年)に越前守になる。致任の子の源定俊は大膳大夫や越前守、修理少進、兵庫丞を歴任した。


定俊の子の高屋為経は近江国神崎郡高屋庄に進出して拠点とした。ここから高屋と名乗る。為経は播磨国にも進出し、赤穂郡大領になる。大領は郡司の長官である。郡司の四等官は大領・少領・主政・主帳である。為経は赤穂郡で常楽庵を結んだ。常楽庵は後に常楽寺になる。赤穂郡の東は林田郷のある揖保郡である。林田郷に近づいてきた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ