第1話 淡島ケイタは戻れない(3)
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どのくらい歩いたか。
随分時間が経っているように感じるが、未だ先は見えてこない。
足元を照らす携帯の灯り以外に光はなく、踏み鳴らす板張りの床以外に音はなかった。
更にしばらく歩いたところで、俺は違和感を感じ、足を止めた。
続く闇の中、目の前に突如として『壁』が現れた。目の前とはいったが、それが物理的なものとして見えているわけではない。けれどそこに『壁』があるのを認識できている。巨大な壁を前にした圧迫感が確かにそこにあるのだ。
恐る恐る、『壁』の向こうに俺は手を伸ばす。
それは冷たい水の感触だった。
固いと思っていた『壁』の感触は液体で、俺の手が触れたところから、見えない波紋が静かに広がっていくのが分かる。
見えていないのに波紋がひろがるのがわかる? そんな馬鹿な話があるか。
俺は心に悪態をつきながら、伸ばした手に力を加え、『壁』を押す。それは分厚いものではなく、ごく薄いものだった。突き抜けた手が空をきる。
そのまま俺は身体を『壁』にくぐらせ、その向こうへと抜けた。身体は濡れておらず、そればかりか振り返っても先ほどまであった『壁』の圧迫感はそこに存在しなかった。
俺はこの不思議な感覚に思考が追い付かず、しかし留まるわけにもいかなかったので、逃げるように先を急いだ。
ほどなく、一直線の闇は終焉を迎えた。
天井付近に注連縄が張られている先――突き当りを左に折れる角から、青白い光が仄かに漏れている。俺は闇の終わりに安堵し、ため息をついた。
この先に何があるのかという不安が消えたわけじゃあない。
角を曲がりかけたところで俺は足を止め、青白い光を避けるように壁を背中にして隠れる。
曲がった先は視界が開けている。右手には庭園が広がり、月明かりに木々や池が青白く照らし出されていた。左手には障子戸が廊下に沿って連なり、その途中にヒルコさんが座しているのが見えた。さすがに見つかると、怒られる……いや、怒られるだけでは済まないだろう。そんな気がした。
ヒルコさんは神妙な面持ちで障子戸を背にし、庭園に視線を向けている。
彼女の背にある障子戸の向こうから、小さくはあるが、声が2人分聞こえた。おそらく佐多と鈴木首相だ。
「──ごもっとも。では早速準備に……ところで……にはひとつ重要な……が……。それは、……るものです」
「……かね」
「ええ、何でも……金属でも……でも……せん。……そうそう、確か金……でだ。それ等どうでしょう」
小さくくぐもった声は、何を話しているか分からない。もう少し近くに行けば分かるのだろうが、ここから先へ身を乗り出す勇気などなかった。
暫く硬直した状態だったが、障子戸の開く音で緊張が解けた俺は、おずおずと角の先を覗き込む。
奥の部屋から出てくる佐多と首相。佐多はヒルコさんに「案内しろ」と伝え、ひとり廊下の先へ消えていった。ヒルコさんは首相を連れ、少し先の角を曲がった。
気づかれていないようだ。
俺は胸をなでおろし、これからの動きを考える。
ここまでくれば、居間へ戻るという選択はない。
──佐多、それにヒルコさんはあの老人を一体どうしようというのか。
俺は自身に問いかける。
このまま追えば、今までの特殊な客たちが言う『クロウミヘビの頭』の意味がわかる。
一方、それを知ることで、俺は明らかにヤバい状況に足を突っ込もうとしているのも、何となく想像はできる。
結局、恐怖より好奇心が勝っていた俺は、脚を踏み出した。
落日の早い晩秋であるはずなのに、庭園から吹く風はこの辺りを吹き荒らす強風とは違い、柔らかかった。
踏み出せない意気地なしの脚を奮い立たせるように、俺はわざとらしく大股で角を曲がった。床の軋みが先ほどより大きくなったようだ。その感触や音が背中に悪寒を走らせる。しかし、一歩踏み出した以上、戻るわけにはいかない。
俺は更に一歩、また一歩と歩を進める。
障子の前を通過し、最初の角――ヒルコさんと首相が曲がった方を進むことにし、角から様子を伺う。ヒルコさんがつけたのか、その先の壁には等間隔に蝋燭の灯が周囲を照らしている。どうやら2人は先へ進んでいるようで、遠くで小さく音が響く。となれば、俺の足音も聞こえてしまうという事。
俺は先ほどよりも慎重に踏みしめる足音を消そうと、そっと足を置いた。
廊下は長くなく、すぐに曲がり角にぶつかった。
俺は恐る恐る、角の先を覗く。
廊下はその先わずかで途切れ、その先は下り階段になっていた。
階段は廊下と同じく、手すりや踏面が朱色であしらわれていて、蝋燭の灯りがそれを静かに映し出している。ある程度下りたところで踊り場に当たり、直角に曲がってまた更に下へと伸びている。
階段の右端はこの建物の白い壁が階段を支え、もう一方は暗闇が広がっていた。
先に曲がっていた筈の2つの足音は、聞こえてこない。
しかし以外に近くにいるのかもしれないと思った俺は、感づかれないよう壁に寄りかかり、廊下の終点まで忍び寄り、先を覗き込んだ。開けた空間でもあるのか、先ほどよりも足音があたりに響く。小さな音であるはずなのに、耳に届くそれでおののいた俺は、自分の呼吸も小さくしていった。
2つ目の踊り場から先は、今立っている入口からは見えない。
蝋燭の灯りが階段こそ照らしているが、天井は酷く高い位置にあるらしく、その正体を暗闇で隠していた。
左程急角度ではないが、手すりにしがみつきながら、できる限り低速で下りていく。
階段は同じ様相を見せながら、下へ下へと続いていた。いつあの2人に会うか知れないと、俺は体中の神経を強張らせた。
時折、下から吹き上げてきた微かな風が俺の頬を掠め、俺の後方へと吸い込まれていく。先の見えないこの階段はどこへ続いているのだろうか。何度も、何度も、壁の白さと闇の黒さを反転させつつ下りていく度に俺の心の片隅に燻っている不安の火種が育っているようだった。
今はどのくらい下りていたのか。見上げてもあるのは階段の底面であり、上階の天井である。時間はどのくらい経ったのだろう。
ポケットから携帯を取り出してみたが、電波は立っていない……いや違う、おかしい!
──なんだこれは!
画面の表示に日付や時間の表示はなく、壁紙も設定したものではなく、禍々しく見知らぬマーブル模様を映していたのだ。
俺は手から携帯を落としそうになり、慌てて両手で握り締める。
画面別の表示にしようとあらゆるボタンを押してみるが、その画面は動きも消えもしない。
鼓動が早くなるのと同時に、俺は自分の背中に生暖かい汗が一筋落ちていくのを感じていた。下の階から吹く風がその汗を拭う。
今日、あの居間から先に足を踏み入れたのは間違いだったのだと、心の中で誰かがささやく。
俺はかぶりを振ると、次の踏面へ足を下ろした。
その時、遥か下方から、小さく音が昇って来た。