第1話 淡島ケイタは戻れない(2)
立っていたのは、俺の通う高校の制服を着た、長身の女性。背中まである長い黒髪は光沢を帯び、白い肌に映える。やや下がった目元は、とても優しげだ。
彼女は佐多の姪で、ヒルコさん。
複雑な家庭の事情により、幼い頃からこの屋敷で、佐多と暮らしている。
あのどうしようもない位だらしのない佐多と比較して、ヒルコさんは、ちゃんといいところのお嬢さんに見える。本当に佐多の親族なのか……。
「今日、よかったら晩御飯食べていかない?」
「えっいいんですか?」
「今日、いいお魚がはいったから、お鍋にしようと思って。あ、遅くなっちゃうから、その――」
「大丈夫です。親にはメールしておくんで」
「よかったぁ。じゃあバイトが終わったら、居間に来てちょうだい」
「はい!」
ヒルコさんは料理上手。たまにバイト終わりに夕食を囲むこともあるが、何を作っても美味しくできる。美人で、料理上手ってだけで他の男が放っておかないだろう。けれど、ヒルコさんは毎回『そういったのは本当に一度もないから』と謙遜する。本当ならなんと勿体ないことだろう。世の男共の見る目がないのか?
俺はそう思う反面、誰かとくっつかれる事にでもなれば、俺は焼きもちでも焼くんじゃないかと思ってて恥ずかしくなっていた。
ともあれ、本人が何もないと言っているし、今夜も晩飯に誘ってくれるあたり、他と比べても俺に分がある事に違いはない。
時計は6時を指そうとしている。このまま何事も終わらなければ8時で店の戸に鍵をかけ、居間へと直行。晩飯にありつくのだ。
*
今日も1日が終わろうとしている。
ガキ共は1人が帰り出すと、ぞろぞろとそれに続く。
あれだけ騒がしかった店内には、今日も俺と静寂だけが残る。
外は暗闇に潰され、蛍光灯の光を、入口の引き戸についたガラスが反射していた。俺は何周目か分からない程めくっている雑誌から視線を外し、引き戸上の欄間にかかっている時計を見た。時刻は7時を過ぎている。
このまま行けば、今日は何事もなく終わる。
そう思っていた矢先だった。
音をたてて引き戸が開いた。俺は身を震わせ、開いた引き戸の先を見る。
戸の先には、老人が1人立っていた。
いや、違う。その奥に2人、スーツを纏ういかつい男たちが立っている。男の1人は辺りを警戒するように立ち、もう1人はサングラスの向こうからこちらを凝視していた。
老人はかぶっていた帽子をとり、こちらに顔を見せる。俺はあらわになった顔を見て、小さく声にならない声を上げた。
俺はこの老人を知っていた。こんな地方の小さな町でも、知らない者はいない。
高そうなスーツに薄手のコートとストールを身に着けたその老人は、この国の首相・鈴木キイチロウだ。
テレビで毎日の様に見ているその人物が、こんな田舎までご苦労なことである。
佐多宛の客か、若しくはトイレを借りに来たか、うまい棒を買いに来たか……さすがにそれはないか。
「『クロウミヘビの頭』は、まだあるかね」
鈴木は俺に言った。その声は低く、そして何かを押し殺したような、内緒話をするように小さい呟きだった。
『クロウミヘビの頭』
この単語は、佐多宛の客が必ず発する合言葉のようなものだ。
ここでバイトを始めてこれまで何度も聞いているが、皆何処で聞いたか、どの様に知っているか、未だに謎だ。そもそも『クロウミヘビ』なんて、俺もこの番台に座るようになってから、初めて知ったのだ。
この言葉を聞いたのは、実に10日ぶり。
それも今回は、とんだ有名人ときた。
「あ、あの入れるのは、おひとりだけで……お連れの方は」
緊張で声が上ずる。佐多の客なのは確かなんだが、あのいい加減な男に一国の首相が、なんの用だ。
佐多の正体が、いつにもましてわからなくなった。
「そうか……。おい」
鈴木は後ろに立っていた男2人を、外へ下がらせ、自身は店の中へ足を踏み入れた。
彼が店の中へ入るのを確認し、俺は店の引き戸を閉め、戸についた上下2つの鍵をかけ、カーテンでガラス戸を遮る。
これで今日の営業は終了。
俺は番台に座りなおすと、手元にある青銅色をした小さなハンドベルを2回、ゆっくりと振り鳴らした。
「在庫確認。クロウミヘビの頭ぁ!」
俺は、襖の向こうに届くように声を張る。
遠くの方から返事と共に足跡が近づき、襖が開く。襖の向こうにいるのはヒルコさんだ。
「ようこそおいでくださいました。こちらへ」
優しい眼差しも表情も崩さず、彼女は鈴木にあがるよう促す。
彼の脱いだ履物を手にすると、彼女はこちらを振り向いた。
「ごめんねケイタ君。私もおじさんも、すぐ戻るから、居間で待ってて」
そう言い残すと、ヒルコさんは鈴木を先導し、姿を消した。
2人分の足音が遠ざかる先は、この店が隣接しているあのでかい屋敷の方向だった。どうやら俺の後ろにあるこの廊下は、あの屋敷とつながっているらしい。
らしいというのは、俺はその事実を確かめたことがないからだ。
ここでバイトを始めた当初、佐多に何度も言われたし、ヒルコさんからも釘を刺された。佐多はともかく、ヒルコさんのいう事なら仕方がない。そう思っていた。
第一、面倒事は御免こうむりたかったし、知ったところでなにか得するようなものはないだろうと俺は思っていた。だから今まで、左程気にもしなかった。
しかし、今日に限って、俺は心の奥から滲み出す好奇心を、無視できないでいた。
この国の政治を担っている男が、こんな田舎の駄菓子屋に用があるなんて、どう考えてもありえない。一体なにがどうなれば、そんなことが起こりえるのか。
それにもう一つ気になることがある。
佐多の客たちは、いつもこの駄菓子屋へ訪ねてくる。が、その客たちが出て行く姿を一度として俺は見ていなかった。まぁ、閉店作業を終えると、特に晩飯を食って帰らない限り、俺はとっとと帰ってしまうから、というのもある。けれど、晩飯をここで囲む時、佐多とヒルコさんは戻ってきても、客がこちらへ戻ってくる様子がない。
屋敷側から出て行っているのだろうか。それならなぜ、駄菓子屋に訪ねてくるのか。
俺の後ろに一文字で伸びている廊下に何らかの秘密が……いや、ないか。
俺は襖から廊下へ首を出し、2人の消えた方を覗き込んだ。
板張りの廊下に灯りはなく、一直線に長い。駄菓子屋に続く襖を起点とし、その対面に位置する居間・トイレへ続く戸を除き、部屋らしい入口は一切見当たらない。ただ白い土壁が延々と続いている。
俺は番台の下に転がされている懐中電灯を点し、廊下の先へとあててみる。
廊下は長い。手持ちの懐中電灯では先が見えない程に長く伸び、先には暗闇がただこちらをじっと見張っている。面妖な事である。駄菓子屋であるこの家屋の幅は、せいぜい10メートルと少し。これが奥の屋敷に続く廊下であるにしても、距離がありすぎる。
手元の灯り以外は闇に包まれていて、時間と距離の感覚が多少狂っているにしてもおかしい。
トイレと居間に入った音がしなかったので、2人は間違いなくその奥へ行っている。
俺は懐中電灯の白い光を落とし、一気に触手をのばしてきた闇をにらむ。
奥から微かに吹いてきた風が、俺の顔をそっと撫でた。
「……はい、やめやめ。今日の業務は終了っ。俺は言いつけ通り、居間で店長とヒルコさんを待つ!」
自分に言い聞かせながら、閉店作業を粛々と行い、俺は廊下に出てすぐの居間へと入った。
*
とはいえ気になってしまった以上、俺は落ち着くことができなかった。いつもはテレビでも見ながら、気長にあの2人を待っているのだが、そうもいかなかった。
好奇心はとうとう俺の頭を刺激し始めた。それと同時に、絶対に手を出せば危険だと体が小さく悲鳴を上げ、それは震えに変わっていった。
居間に腰を下ろして15分。未だ佐多とヒルコさんが、戻ってくる気配はない。
俺はあの廊下の奥が気になり、立ち上がるも、思い直してまた同じ位置へ据わることを繰り返している。
「何やってんだ、俺」
そう言いながらテレビをつけ、チャンネルを何度も切り替えてみるが、気持ちはおさまらない。
意を決した俺は立ち上がり、襖を開いた。
屋敷の方へ続く廊下は先ほどと変わらず、静かに闇を湛え、こちらを見張る。
「す、少しだけなら大丈夫だって……」
番台の下から懐中電灯を持ち出し、闇に向けて明かりを点す。
手元は明るくなるものの、やはり奥は暗いままだ。
俺はなるべく足を戸を立てまいと、軋む床を歩いた。
隣接した家屋に行くだけだから、すぐに何処かへと到着する筈だと高をくくっていた。しかし、先は見えない。開きっぱなしにした居間から漏れる明かりが、小さく見える。
ここで引き返すか、このまま進むか。
俺は不安と恐怖を抑え込みながら、闇が待ち構える方へ歩き出した。