始まりのエチュード2
それはホントに突然のことだった。ある日、あたしは唐突にこの部屋で目を覚ましたのだ。
自分がどうやってこの部屋に来たのか、何故この部屋にいるのか、そもそも自分が誰であるのか……あたしには何一つ分からなかった。
自分の名前に自分の家、どんな風に育ってどんな恋をして、どんな出会いと別れをしてきたのか……一体自分が『何』であるのか……何一つだ。
ただ、時が経つにつれて悟ったことがある。それは自分が『人』ではないという事実。
時折現れる、入居希望者が恐れおののく様を見れば悟らざるを得なかったってのも事実だけど、それ以前に、自分が『人間』とはかけ離れた存在であることを、いつの間にか抵抗もなく受け入れていた。
それが一体どれくらい前になるのかあたし自身は覚えてないが、目の前にいるこの男――鈴本凪が言うには、この部屋で幽霊騒動が初めて起こったのは、もう五年も前の話らしい。それ以来、あたしはこの部屋の主となり、この部屋に縛られている。
この部屋から出てみようとしたことは幾度かあったけど、その度に、この部屋を離れるわけにはいかないという強烈な強迫観念に駆られて一度たりとも……1センチたりとも成功したことはない。
ってことは、あたしは世間一般で言うところの地縛霊って奴なんだろうか?どんな理由でこの部屋に縛られているのか……一体何をしなければならないのか……。
何も分からないから、あたしはこの部屋を失うわけにはいかない。最早、この部屋だけが自分自身が何者であるかを知る唯一の手掛かりになっているのだから……。
「……ってな訳よ」
あらましを語り終えたあたしは、大きく息を吐いてそう締めくくった。
「ングングゴクン……ふう、なる程ね。アキにとってはここが唯一の過去との繋がりって訳か……」
「アキって呼ぶなー。それから人の話をビール片手にスルメ食いつつ聞くなー」
「だってビールは……」
「ハイハイ、冷たくなくちゃ美味しくないって言うんでしょ。もう良いわよ……ったく……」
「しかもこのスルメ、高級品で高いんだよ。いやー高いだけあるね。噛めば噛むほど口の中にアミノ酸が……」
「あたしの話はどうした!スルメの方が大切なのか?!つーかアミノ酸うんたらじゃ美味しさが伝わってこんわ!!」
「人が美味しいと感じるのはアミノ酸が……」
「どうでもいいわ、んなうんちく!」
「いや、アキがあんまりにも物欲しそうにこっちを見てるからね」
「だぁぁぁ!気付いてんなら気を使いなさいよ!食べたくても食べれない、呑みたくても呑めない乙女の気持ちをなんだと思ってんのよ!!」
「まるでダイエット中の女芸人みたいな反応だね」
「どういう意味だ!」
ハァハァハァハァ……落ち着けあたし。
「アキがこの部屋から離れたくない理由は分からなくもないけど、なら尚更俺と一緒にいた方がお得だって」
切り替え早すぎるっつーのー。
「アキが、入居者来るたび追い出すのは、もしかしたら手掛かりそのものが向こうからやってくるかもしれないからだろ?でもそれってさ、一等当選宝くじが偶然空から降ってくるのをひたすら待ち続けるのと同じくらい虚しくないか?」
「そんな事は分かってるわよ……でも……でもじゃあどうすればいいのよ?この部屋しか手掛かりがないなら此処に居座るしかないじゃない!他にあたしにどうしろって……」
そう唇を噛むあたしに向かって、男はニカッとムカつく笑みを浮かべて口を開く。
「だから俺」
「はぁ?」
男が嬉しそうに言ったその言葉の意味が分からず、あたしはそう猜疑に満ち溢れた視線を返して問い掛けた。
「だから……いつ現れるとも知れない手掛かりを座して待つより、俺と協力して謎を解明した方がおとくじゃない?」
「……」
「俺なら、不動産屋の知り合いを通じてこの部屋の事をもっと詳しく知ることが出来るし、霊に詳しい知り合いも多い」
「……」
男の言葉に、あたしは思わず黙り込む。確かに、今まで1人で悩み続けていたあたしには、男の話は魅力的だった。正直な話し、あたしはほとんど諦めていたのだ。
あたしは、この部屋が無くなるまで……いや、それ以降もこの場に縛り付けられ、無限とも思える時の果てに、魂を擦り減らして消え失せる運命にあるのだと思っていた。それをこの男は……鈴本凪は、助け出そうと言ってくれているのだ。
本来ならば、一も二もなく飛びついて、助けを求めるところだろう。しかし、あたしはそうはせず、口をぎゅっと結んだまま鈴本凪の顔をじっと見つめる……そのムカつくドヤ顔を。何故にドヤ顔?
「……確かに魅力的な話だけど、なんかその顔ムカつくわー。それになんか裏がありそうだけど?」
「裏なんてとんでもない。俺は単に一目惚れした女性に良いとこ見せたいだけだよ」
「はいはいそうです……か?」
さらっと言われた一言の意味をすぐには気付かずに、視線を外してさらりとスルーしようとしたところでハと気付く。
「一目……惚れ?」
「うん」
再び視線を男に向けながら発した問いかけるようなこのセリフに、男は何故か再びドヤ顔で頷いた。
「……」
「いや~傷つくなぁ。そんな苦虫噛み砕いたみたいな顔しないでよ。ホントにホントの一目惚れだって」
「……」
「そんな変質者でも見るみたいな目……」
「……あたし……幽霊なんだけど?」
「それが?」
「普通……幽霊に一目惚れなんかする訳ないでしょ!喧嘩売ってんの?!売ってるよね!?いくらファンタジーな存在でもあたしゃ乙女っちゃー乙女なんだから少しは気を使ったらどう?!つーかそんな冗談で話を濁すな!!訴えてやるぅ!!」
「幽霊はファンタジーじゃなくてホラーだと思う」
「うっさいわ、ほっとけ!ホラーだって言われるよりファンタジーな存在って言われた方がマシなのよ!」
「俺にとってはホラーでもファンタジーでもなく、リアルな話なんだけどね。それに今時、幽霊との恋バナなんてライトノベルや携帯小説で溢れてるじゃん」
「作り話と一緒にすんな!あたしは真剣に幽霊してんのよ!」
そこで言葉を切り、ハァハァと息を切らせる……幽霊なんだから息が切れるのはおかしいって?そんなもんは気分だ気分。
「ん~、どうやったら信じてもらえるかな~俺のこのピュアな恋心……あっ、そうだアキ、ここに座って目を瞑って」
「だからあたしはアキなんて名前じゃないって言ってるでしょうが……」
と言いつつも、素直に男の前に座り目を瞑るあたし。
「そのままじっとしててね」
一体なにを始めるのかと怪訝に思っていると、何故か口元に、さっきほっぺに感じたほんわかと温かい感触。
何故口に触れるのかと不審に思ってうっすらまぶたを開けたあたしの目の前には……半瞬前までのあたしと同じように目を瞑っている男の……男の顔?何でこんな近くに?何故土up……じゃなくてドアップ?こいつ何してんだ?つーかなんで唇が……熱い?……ああああ熱い?!
ちょ…………ちょ……ちょちょちょちょちょちょ
「ちょっと待て!この変質者が!」
「それは酷いぶひぇあしゃぁぁぁ……」
あたしの放った右のコークスクリューブローを左頬に受けて奇声を上げながらボロ切れのように吹き飛んだ男に、あたしはビシッと指をさし弾劾の言葉を突きつける。
「赤の他人の唇を、本人の許可なく奪う人間を変質者と呼ばすなんと呼ぶ!変質者どころか性犯罪者と呼ばれてもおかしくないわい!」
「な、何故……」
頬を抑えながら?マークをたくさん浮かべて立ち上がる男に、あたしは更なる弾劾を始めようと口を開い……え?ちょっと待って?コークスクリューブロー?吹き飛んだ?頬を抑えながら?
……まさか幽霊のあたしの拳が男を成敗したの?
「もしかして神様があたしを哀れんで、あたしの隠された能力を引き出してくれたの?!幽霊にして人間を叩きのめせるこの能力で、この変質者に天誅をくれてやれと!?」
「んなアホな……」
「うはははは!怯え狼狽えよ!天誅ぅ!!」
「ちょっとたんまぁぁぁ!」
聞いてたまるかクソ外道!
あたしの拳が再び風を切って男に襲い掛かる。
スカッ--
「うに?」
「あれ?」
男の顔面にめり込むはずだったあたしの拳は、男をすり抜け空を切る。
「何故?!えいや!」
スカッ--
「うにゃ!うにょ!うにぃぃぃ!」
スカッ--スカッ--スカッ--
「何故当たらんのじゃぁ!」
「どうもさっきのは偶然っぽいね。俺も霊体に殴られるだなんて初めてだ。世の中、不思議なことってたくさんあるね~」
頭を抱えて苦悶するあたしの横で、男がそう言ってケラケラと笑う。
「ま、本来ならあり得ないことか起こったってことで、俺らには何かしらの縁があったってことじゃない?惚れたはれたは置いといて、この縁を大切にするってことで」
そう話をまとめる男のセリフに、あたしはガックリと肩を落としながら、結局はうなずきを返したのだった。