すれ違いだらけの政略結婚【前】
ヒースラン伯爵家は、王族とも縁が深い、建国以来の歴史ある貴族家。
だがその実態は、使用人が2人に料理人が1人という貧乏伯爵家だった。
アレンディオが物心ついたときにはこのありさまで、それは母の命を長らえるために手を尽くす父が選んだ暮らしだった。
父は領地運営も商会経営にしても、突出した才能はないが堅実なタイプであり、決して理想だけを追う苦労知らずな人ではない。
だが、愛する妻のこととなれば諦めることなど到底できず、一人息子の教育費すら削減してでも薬を買い求めた。
アレンディオもそれに不満があったわけではない。
母の延命は、一家の願いだった。
勉強なら本を読んで自ら学ぶことはでき、剣術だけは人から習わなければいけなかったが、他の出費などどれほど抑えても苦ではない。
しかし母が看病の甲斐なく身罷ったとき、ヒースラン伯爵家が置かれている状況はかなりまずいことに子どもでも気づいた。
(自分ががんばって、家を再興しなくては)
意気消沈する父は頼りにならない。
アレンディオに伸し掛かる重責は、子どもが抱えるには重すぎるものだった。
息が詰まるような日々にも、泣き言一ついわずに耐え忍び、力をつけるために努力を欠かさない。
愛想がなく、同世代の子どもらと楽しげに笑い合うこともできないのは、彼が必死だったから。けれどそれは、横のつながりを大事にする社交の場では不利になる。
最低限の茶会や園遊会に参加するだけのアレンディオに友人はおらず、ヒースラン伯爵家の名前につられて声をかけてくるものもいたが、彼の無口で愛想のなさに失望して去っていく者ばかり。
十四歳になったアレンディオは、女性からは「氷の貴公子様」と呼ばれ、同性からは「没落した貴族気取り」と言われていた。
(絶対に、家を再興して世間を見返してやる)
アカデミーの入学試験でトップになれば、出世の道が開ける。そう思った。
しかしその合格発表の場で、思わぬ転機が訪れる。
「どうやって不正を働いたんだ?おまえみたいに家庭教師もつけていないやつが、トップになれるわけがない」
死に物狂いで勉強し、独学ながら入学試験でトップを獲ったアレンディオ。
合格発表の場で、入学手続きが終わった途端に貴族令息に囲まれてしまった。
「ただ勉強しただけだ。家庭教師がついているのに、俺より結果が芳しくないやつがいるとは驚きだな」
アレンディオは、素直すぎる返答をする。
彼らは顔を真っ赤にしてアレンディオを罵り、挙句の果てには家の力を使って不正をアカデミーに訴えると言ってきた。
冷静さを欠いたアレンディオは、複数人相手に大喧嘩を繰り広げることに。
公正なアカデミーの教員たちは、子どもの喧嘩として事態を処理したのだが、努力を認められない悲しみにアレンディオは打ちひしがれた。
(アカデミーに入学する意味はないのかもしれない)
母の実家がどうにか工面してくれた入学費用。
しかしあんな者たちと共に学び、得るものがあるのかと疑問が浮かぶ。
馬車を使う余裕などないアレンディオは、トボトボと大通りを力なく歩いて帰った。
夕暮れどき、行き交う人々は家路を急いでいる。
アレンディオはやるせない気持ちでいっぱいで、ぼんやりと歩き続けていた。
「あなた、落としましたよ」
後ろからかけられた可愛らしい声に、アレンディオはゆっくりと振り向く。
「これ、大事なものなんでしょう?」
そこにいたのはキャラメルブラウンの髪の女の子で、上等なワンピースを着ていた。
にっこり笑ったその子の手には、母が昔自分のために刺繍をしてくれたハンカチがある。
さっき殴られた顔を冷やすために水で濡らし、ポケットに乱暴に突っ込んだのが落ちたんだと思った。
ところどころ刺繍はほつれ、汗染みですっかりくすんだ麻布は、ハンカチといえる体をなしていない。
それを「大事なもの」と表現したこの子は、なぜそれがわかったのだろうと疑問を抱いた。
「どうぞ?」
「………」
ぼぉっとしたまま、一言も発さないままハンカチを受け取る。
「まぁ!どうしたの?その顔、すごく腫れてるわ!」
驚いて目を見開いたその女の子は、ポシェットから自分のハンカチと傷用の止血テープを取り出して、アレンディオの目元や頬にそれを当てた。
「喧嘩したの?痛そう……」
「痛くない」
ハンカチを拾ってもらって礼も言わず、愛想なくそう呟くアレンディオだったが、少女はニコニコと笑って言った。
「私の弟もよく従兄と喧嘩して、やせ我慢しているわ。痛いって言ったら負けなんだって。でも痛いものは痛いわよね」
「……痛くない」
剣術の師匠が言っていた。
痛いとか苦しいとか、己の心を挫くような言葉は漏らしてはいけないと。
意地を張るアレンディオを見て、少女は困ったように笑った。
「ふふふ、そうね。痛くない。大丈夫、もう手当てしたから」
通りの向こう側から、少女のことを呼ぶ人物がいた。
身なりからして使用人の男。どうやら供がいたらしいと、アレンディオは初めて気づいた。
「じゃあね!」
アレンディオの態度に文句の一つも言わず、少女は手を振って駆け出す。
ぼんやりとその背を見送っていると、彼女がふいに振り返って言った。
「次は勝ってね」
子どもの戯れ。
深い意味はなく、喧嘩で負けただろう男の子を励ましただけ。
しかしアレンディオにとっては、大きな衝撃を受けた。
(次……、か)
何もかもがムダであるように思えていたアレンディオに、かすかに光が射したように思った。
少女はすでに使用人のそばで笑顔を見せていて、弟らしき少年と手を繋いで歩きだしていた。
彼女の弟が出てきたのは、リンドル商会の建物。従業員に見送られているところを見ると、どうやらそこのお嬢様らしい。
使用人が困り顔で、少女に苦言を呈す。
「このあたりは治安がいいとはいえ、悪さをする者もいます。勝手に走っていかないでください」
「ごめんなさい。でもきっと困ったことがあったら、かっこいい騎士様が助けてくれるわ」
夢見がちな少女の発言に、使用人はますます困った顔になる。
「ソアリス様、騎士はむやみやたらにうろついていません。困ったときに駆け付けてくれるとは限らないんですよ」
「それなら私は、私を助けてくれる騎士様を見つけるわ。神様に頼んでみる、素敵な人と結婚できますようにって」
「そうなるといいですねぇ」
少女は、通りに停めてあった馬車に乗りこんで行ってしまった。
もう二度と会うことはないが、アレンディオはその場でずっと去り行く馬車を見送っていた。
(そうか。アカデミーに行かずとも、騎士になって身を立てれば権威を回復することはできるのか)
目先の収入に囚われて、アカデミーを卒業して文官になろうと思っていたが、騎士になるという道もあるのだと改めて認識した。
むしろ身体を動かす方が好きな彼にとっては、騎士になる方が性格には合っているような気すらしてきた。
同世代よりも小柄でやせ細ってはいるが、もともと大柄で逞しい体格の多い家系だ。諦めずに鍛えれば、自分も祖父や父のように立派な体躯の男になれるかもしれない。
(いつか、彼女に会えるだろうか)
リンドル子爵家なら、ヒースラン伯爵家とは比べ物にならない金持ちだが、爵位ではこちらが上。もしも会えたとして、話しかけても無礼だと冷たくあしらわれることはないだろう。
また会いたい。
握りしめた小花柄のハンカチを、いつか彼女に自分の手で返せる日が来て欲しい。
(あの子を助ける騎士になりたい)
アレンディオはアカデミーへの入学を辞め、剣術に力を入れることにした。