補佐官は我が目を疑う
ソアリスがこっそり邸を抜け出し、城の敷地内にある寮へと向かった頃。
アレンディオの私室に、補佐官のルードが訪ねてきた。
茶色の髪に茶色の瞳、黒の軍服姿の彼はアレンディオの直属の部下。24歳で、もう3年以上、補佐官として付き従っている。
騎士にしては華奢で中性的な顔立ちで、あまり強そうには見えないが、実はアレンディオに継ぐ実力者だ。
表向きは気の利く温厚な補佐官、いざ戦場に立てば冷酷な判断で立ち回る男として敵味方から一目置かれていた。
そんな彼がわざわざ邸までやってきたのは、部下の今後について報告があったから。
しかし、初老の家令に案内されて上司の私室にやってきたとき、一度入ろうとした部屋の扉をもう一度閉めてしまったのは予想外のことだった。
――バタンッ。
「あの、今、なんかすごくおかしなものを見たような気がするんですが」
初老の家令は、おっしゃる意味がわかりませんと澄ました顔で言った。
ルードは何度も瞬きをして、手で目を擦ってから再び扉を開ける。
――カチャ……。
書机に向かうアレンディオは、どう見てもアレンディオであるが今まで見た中で一番ぼぉっとしている。
どこか遠い目をして、その姿はまるで……。
(ええええええ、恋する乙女か!?)
自分の目が信じられず、かける言葉も見当たらない。
目が合っただけで射殺せると言われた常勝将軍が、なぜこんなに腑抜けになっているのか。
(いや、まぁ、わかるけれど。10年ぶりに愛しの妻に会えたんだから、こうなるのは理解できるけれども)
ソアリスが城で働いている。
その情報が舞い込むや否や、アレンディオは風が起こるくらいの速さで飛んで行った。それはもう、敵が奇襲をかけてきたときと同じくらいの素早い対応だった。
そのせいで、ルードがこうして残った仕事を邸まで運んでくるはめになったのだが、アレンディオからいかに妻を愛しているかを聞かされていたルードからすれば、素直におめでとうという気持ちがある。
(でも、これはあまりにも)
自分は今、見てはいけないものを見ているのでは。
しかし仕事があるので、話しかけないわけにもいかない。
コホンと咳ばらいをして、アレンディオに呼びかける。
「アレン様」
「…………くれた」
「は?」
呼びかけると、確かに目が合った。
ルードが来たことは、わかってくれたらしい。
ところがホッとしたのも束の間、見たことがないほどに蕩けた顔でアレンディオが言った。
「アレンと、呼んでくれたんだ」
ここに女性がいたら、間違いなくこの笑顔に惚れただろう。
美形が心から幸せそうに笑うのを見たルードは、これから先うっかりこれを見られた日には、あっという間に恋に落ちる女性がいそうだなと冷や汗をかく。
そして、一拍置いた後に気づいた。
「え。10年前は愛称で呼んでもらっていなかったんですか?」
たった3カ月とは言え、結婚していたんだろう?と、疑問が顔に出る。
「10年前は、素直に話しかけることができなかったんだ。目を見て話すのも苦しくて……。会いに来てくれるときのソアリスがあまりにも可愛くて、その朗らかな声を聞いていると何も言えなかった。だから、彼女との思い出は少ないんだ」
「はぁ」
思い出が少ない、その言葉に何となく嫌な予感を覚えるルード。
だが幸せムードいっぱいのアレンディオは、ため息交じりに語る。
「10年だ。10年のうちに、ソアリスはすっかり大人の女性になっていたんだ。長い髪は光を帯びて輝いていて、俺を見て驚いた顔は少女のようにあどけなくて」
(大人になっていたんじゃなかったのか。少女なのか大人なのかどっちなんだろう)
空気の読める補佐官は、思うだけであえて突っ込んだりしない。
彼はできる補佐官だった。
「隣に座っただけで緊張したように目を伏せ、その奥ゆかしさと恥じらいがとてつもなくかわいかった……。これが俺の妻なのかと思ったらうれしくてうれしくて、どうにも感情が抑えられなかった」
「はぁ」
「かわいすぎた。理性が吹き飛ぶのを必死で抑えて、どうにか冷静な夫のふりをした」
絶賛、乙女心が爆発中のアレンディオ。
妻であるソアリスの反応が気になるところだ、とルードは思う。
「まぁ、よかったですね。愛する奥様に会えて」
「あぁ。これが夢でないことを願う」
上司の豹変ぶりに戸惑いつつ、ルードはひと呼吸おいてから背筋を正した。そして、恐る恐る仕事の話を切り出す。
「早く奥様と一緒に過ごせるようになればいいですね。お勤めなんですよね、金庫番として。あぁ、今日中に書類を片付けてくれたら、明日は午前だけとは言わず終日お休みになりますね~。というわけで、こちらをどうぞ!」
押し付けるように差し出された報告書と書類の束。その量はとても今日中に片付くようなものではないが、アレンディオは穏やかな表情でそれを受け取る。
「勝手に飛び出してすまなかったな」
書類を見てふと現実に戻ったアレンディオは、わざわざルードがここに来ることになった理由に気づいて労った。
ルードは単身者だが、恋人に会いたい気持ちがわからなくもない。
それに、仕事さえしてくれれば文句はないのだ。
「いいえ。お気持ちはお察ししますから」
微笑ましい、とは思えないものの、ここで無粋なことは言いたくない。
「だがあまりの可愛さに気が狂いそうだ。会えないときも気が狂うかと思ったが、会ったら会ったでソアリスに触れたくて抱き締めたくて……
窓から叫んでしまった方がいっそラクになるかも知れない」
「絶対にやめてくださいね!?」
ぎょっと目を瞠るルードを見て、アレンディオはあはははと笑った。
「冗談だ」
「わかりにくいんですよ、あなたの冗談は」