英雄は妻を逃がさない【後】
これからの私たちについて。
身構えていると、アレンディオ様は脈略のない質問をする。
「ソアリスは今、幸せか?」
一体何のことだろうと思いつつも、私は「はい」と答えた。
「そうか」
質問の意味がわからず、けれど何か言わなくてはと思ってしまった私は今度は自分から口を開く。
「幸せですよ、私。色々あったけれど、仕事も好きで、友人にも恵まれて。私の幸せは、アレンが戦って守ってくれたんだなって今ならわかります」
自分のことに必死になっていられたのは、彼が戦場でがんばってくれたから。
「王女宮から見える街も、人も、海も、草木も、あなたが守ってくれたんだなぁって、そう思います」
「俺1人の力じゃない」
謙遜する彼に向かって、私は少しだけ笑って見せた。
「それでも私は、これからはきれいな景色を見るたびに、素敵なものを知るたびに、おいしいものを食べるたびに、誰かと笑い合うたびに、すべてあなたが守ってくれたんだって思い出すのだと思います」
これから先どうなろうと、きっと私はあなたを忘れられない。
何か繋がりを見出し、思い出してしまうと思った。
そんな私に向かって、アレンディオ様は少し不機嫌そうな声で言う。
「俺は、ソアリスの思い出になりたくて将軍になったわけじゃない」
2人の間を、心地よい風が吹き抜けていく。
「俺は聖人じゃない。崇められるような高潔な精神なんて持ち合わせていない。ソアリスと一緒に生きていくために、必死で剣を奮ったんだ。強くなって、立派になって、ソアリスに誇りに思ってもらえる夫になると、ただそれだけを思って」
真剣な眼差しに、心臓がどきんと跳ねる。
しかしこの後に彼が口にしたのは、とんでもない報告だった。
「さっき将軍を辞めてきた」
「えええ!!??」
どういうこと!?辞めてきたって何!?
将軍って辞められるの!?
限界まで見開いた目は、確かに辞めたと言ったアレンディオ様を映している。
「将軍の妻は、荷が重いんだろう?ならば俺が将軍でなくなればいい。別に役職にこだわっているわけじゃないんだから。ソアリスには、俺と一緒にいて幸せだと思ってもらいたいんだ」
「で、でもそんな、将軍を辞めるだなんて」
彼は腕組みをして、少し意地悪い笑みを浮かべて言った。
「はっ、議会連中の承認はこれからだが、辞職願いには国王陛下のサインをもらっている。俺はもう将軍ではなく、ただの男だ」
いや、そんなバカな。
ルードさんが失神していないだろうかと、そんな心配が頭をよぎる。
「離婚について真剣に考えたが、ソアリスの願いでもこれだけは聞いてやれない。絶対に離婚だけはできない。君を手放すくらいなら死んだ方がマシだ。俺はソアリスに憎まれても、離婚届だけは出さない」
はっきりとそう言い切ると、アレンはふっと目元を和らげいつもの優しい顔になった。
「俺は君の好きな花も知らなかった。だから、まだまだソアリスのことが知りたい。家族想いで、仕事が好きで、賑やかな友人に囲まれて笑っているソアリスを知って、前以上に好きになった。自分のことより俺に幸せになれと言ってくれる君を、ますます大事にしてやりたいと思ったんだ。どうか俺のそばにいて欲しい。それに――――
英雄とか将軍とかそんなものではなく、アレンディオというただの男をソアリスに知ってもらいたい」
どこまでもまっすぐな人だと、そう思った。
ユリの花束を抱えた私は、泣きそうになって顔を歪める。
「俺の気持ちは変わらない。ソアリスが俺に褒美をくれると言うのなら、俺は君の一生を貰い受けたい。どうかアレンディオという1人の男を好きになれるよう、歩み寄ってくれないだろうか?」
将軍の妻ではなく、アレンディオ様の妻。
自分自身を見て欲しいという彼の言葉に、私は胸が苦しくなった。
「ごめんなさい……!」
「!?」
「あ、違いますよ!?その、これまで私が間違っていたということで、ごめんなさいと」
一瞬だけ絶望を滲ませたアレンディオ様だったけれど、すぐにホッとした顔になる。
「私も、一緒に、いたいです。あなたと、幸せになりたい」
詰まりながら伝えた言葉。たったそれだけを伝えるのに、胸がいっぱいでうまく言えなかった。
「今度こそ、あなたの妻になりたい」
待っている間、ずっとそう伝えたかった。迷ってばかりでこんなに遅くなってしまったけれど、ようやくここから始められるような気がした。
柔らかな日差しが、アレンディオ様の漆黒の髪に降り注ぐ。
彼は私の言葉に頷き、うれしそうに目を細めて微笑んでくれた。
「実家のことなら心配しなくていい。リンドル商会はスタッド商会の傘下に入ることが決まった」
「え?」
なんと水面下で、業務提携の話が進んでいたらしい。
しかもアレンディオ様が報奨金をスタッド商会に出資したそうで、これからは商会の売上の一部が還元されるという。
「つまりは離婚しようがしまいが、リンドル商会に何かあれば助けることには変わりない。ソアリスは実家が迷惑をかけると心配していただろう?離婚しても商会と出資者の立場は残るんだから、何も変わらない。君が俺から離れる理由はもうないよ」
「そこまで手を回して……!?」
予想の斜め上をいく解決策に、私はもう何も言えなかった。
さらにアレンディオ様は、今後の仕事についても「ちゃんと考えている」と自信満々に言う。
「さすがに無職はまずいと思って、街の警吏隊に入るための推薦状をもらってきた」
「はぃ!?」
「知り合いに尋ねたら、なるべく身分の高い人に推薦状を書いてもらえと言われたから、国王陛下にサインしてもらってきた」
なんでそんなことに。
国王陛下は一体何を考えているんだろう、そう思っているとアレンディオ様はあははと笑って説明してくれた。
「陛下は俺が出す書類はほとんど見ずにサインをする。だから俺が辞職願いを出したことも、推薦状をもらおうとしたことも気づいていない。でもサインはある。大丈夫だ」
「大丈夫なわけないじゃないですか!!」
その自信はどこから来るの!?
だいたい、将軍が街の警吏隊に転職だなんて面接をする方が気絶する!絶対に入れてもらえないと思う!
「なんて無茶なことを……」
開いた口が塞がらない、とはこのことだ。
茫然とする私を見て、アレンディオ様はニヤリと笑う。
「そうだろう?こんな無茶な男に添えるのは、川で魚釣りをしていた金庫番のソアリスくらいだと俺は思う」
もうその話は忘れてくれないかしら。
大きなため息を吐くと、彼はまたうれしそうに笑った。
そして。
私の髪を撫でて、幸せそうに目を細める。
「ところでこれからの俺たちなんだが、婚約ということでいいだろうか?」
またも放たれた予想外の言葉に、私は思わず聞き返す。
「…………婚約?」
結婚しているのに、婚約?
アレンディオ様は口元に私の髪を引き寄せ、恥ずかしげもなく口づけを落とす。
「このあいだ求婚しただろう?今ソアリスがそれを受け入れてくれたから、婚約した状態とみなそうと思うんだ」
「は、はい?」
「俺たちには互いを知る時間が必要だと思う。ゆっくりと愛情を育てる時間が」
ええ、それは理解できるけれど……。
いや、やっぱり理解できない。もう結婚していますよね!?
思考停止に陥った私に、彼はなおも説明を続ける。
「今日から式を挙げるまで、俺たちは婚約期間だと思って暮らそう。そうすれば、ソアリスの心の準備もできると思うんだ。いきなり夫婦だという現実を押し付けるのは、ソアリスの心理的負担が大きいと思って。だから今日から俺たちは婚約者だ」
これはもう、一度すべてを飲み込んで後々考えよう。そうしよう。
好きな人が幸せそうにそう言うのだから、もうこれは受け入れるしかない。
「最初からやり直そう。婚約者殿、これからよろしく」
ふっと噴き出した私は、彼に付き合うことにした。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
緊張の糸が切れてくすくす笑っていると、彼は自然な所作で私を腕の中に閉じ込める。
優しく包み込むように抱き締められて、速くなる鼓動が聞こえてしまうのではと心配になった。
「アレン?あの」
長い髪に顔を埋めるアレンディオ様。
深く息を吸ったと思ったら、感極まったように呟いた。
「…………幸せだ」
そんな風に言われると、じわりと涙が滲んでしまう。アレンディオ様が帰ってきてから、私の涙腺は壊れているのかもしれない。
「私もです」
涙声でそう返すと、目を閉じて温もりを堪能した。
抱えていたユリの花がすっかり潰れてしまっているけれど、もうしばらくこうしていたい。
「ソアリス」
耳元で彼の声がする。声だけで愛されていると実感できる。
この幸福感は、一体何というんだろう。
「ただいま」
「おかえりなさい」
妻としての義務感ではなく、心からそう伝えることができた。
アレンディオ様と一緒に、これからを作っていこう。何があっても、この人が帰ってくる場所になりたい。
私たちがすれ違ってしまった10年が、ようやく終わった気がした。
見つめ合うと、自然に口元が弧を描く。
喜びに浸る私。
ところがアレンディオ様は、青い瞳を輝かせて言った。
「婚約者だから、キスしてもいいか?」
「っ!?」
突然の申し出に、私はひゅっと息を呑む。
「できません、そんなこと!いきなりは無理です!」
「そうか」
「そうですよ!!」
「では、これで」
彼は流れるような所作で、私の額にキスをした。
これだけでもいっぱいいっぱいなのに、蕩けるような甘い笑みを浮かべたアレンディオ様は止まらない。
「やっぱり無理だ。ソアリスがかわいいのが悪い」
「っ!?」
唇に柔らかいものが触れる。
初めてのキスは、驚いて目を閉じることもできなかった。
唇を離すと、感極まったように目を細めたアレンディオ様は再び私を抱き締める。
「あぁ、幸せ過ぎるなこれは」
「………………そうですね」
私たちの抱擁は、辞職願いを発見したルードさんが乗り込んでくるまで続くのだった。




