番外編SS 英雄の義妹ですが、恋は突然やってくるそうです(5)
──ナ嬢、──嬢……?
どこからか呼ぶ声がする。
そろそろ起きなきゃいけない時間なのかしら?
あぁ、今日はお昼から予定がないから、揚げパンを買いに行こう。お姉さまにも食べさせてあげたいし……。
そんなことを考えていたら、はっきりと男性の声が聞こえた。
「ニーナ嬢」
「え?」
驚きで、ぱちりと目を覚ます。
ここはいつもの部屋じゃない。
「ニーナ嬢、目が覚めましたか?」
「あ、クリス様」
ベッドのそばで、座ったまま寝ていたことにようやく気づく。
ぼぉっとする私に向けられた碧の瞳は、とても穏やかで温かみのあるものに思えた。
「えっと、私」
慌てて目の周りをこすり、状況を把握しようと必死で思考を巡らせる。
夕べは確か、媚薬を盛られたクリス様を医局へ運んで、それでお風呂に入って……、脱いだドレスをどうしたんだっけ?
あ、まずいかも。
あのまま放置していたら、きっとすごい異臭を放っている。
あぁ、でももう回収されているわね。アンナさんか誰かが、きっと何とかしてくれているはず。
えっと、それから揚げパンを食べて……。
「揚げパン」
「え?」
しまった。口から言葉が出てしまった。
私は慌てて髪を手櫛で整え、クリス様に問いかけた。
「あの、体調はどうですか?」
見たところ、とても顔色はいい。
ベッドの上にあるクッションにもたれ、上半身を起こした彼は今日も見事な王子様っぷりだ。イケメンは朝起きた瞬間からイケメンらしい。
「おかげさまで、随分と回復しました」
「それはよかったです」
にこりと笑うと、彼はなぜか感極まったように目を細める。
そして、私の手を両手でとると、恭しくお礼を述べた。
「本当にありがとうございました」
「いえ、あの、そんな」
急に手を握られて、思わずどきりとしてしまう。
大きな手に包み込まれるこの感覚は、慣れていない。
「私のせいで、舞踏会を台無しにしてしまい申し訳ない」
「クリス様のせいでは」
悪いのは媚薬を盛った女性だ。
クリス様は被害者なんだから、そんなに申し訳なさそうにしないでもらいたい。
「もう二度とこのようなことがないよう、心しておきます。そして、お詫びにドレスを贈らせてください」
「えええ!?いえいえいえ、ドレスは洗えば着られると思いますし、そこまでしていただかなくても」
ドレスは高い。一着いくらするかわからないくらい、とにかく高い。
あれはお義兄様が用意してくれたドレスだけれど、宝石がふんだんに使用されていて、お詫びと言われても気が引ける。
けれど彼は、この後とんでもないことを口にした。
「あなたを飾る衣装は、これからずっと私に用意させてください」
「いやいや、そんな大げさな!1着犠牲になっただけなのに、これからずっとなんて」
「私と結婚してください」
「………………………………………へ?」
私の手を握る、クリス様の手がぎゅっと強まる。
じっと見つめ合い、しばらく無言のときが過ぎた。
今、なんて????
結婚してください、とかなんとか聞こえたのは気のせいよね?
え?まだ夢?
でもこの手の感触は本物だし、クリス様が目の前にいるのも全部本当だと思うんだけれど。
一体何が起こっているの?
頭がついていかない。
こてん、と左側に首を倒せば、クリス様の頭もまた同じ方向に傾く。
「え?」
「私は本気です」
「は?」
「あなたが好きです」
おかしい。
クリス様がこんなことを言うはずがない。
再び見つめ合うこと数秒。
私は「もしや」と彼に問う。
「私、ニーナです。誰かと間違ってますね?」
「ニーナ嬢に求婚していますので間違っていません」
なんでだ。
間違いじゃないなら、もう可能性は……。
「媚薬で頭がやられましたか?」
「いえ、私は正常です」
「絶対におかしいですよ!?」
私は慌てて手を振り払い、椅子から立ち上がる。
あぁ、恐れていたことが起こってしまった。
クリス様が私を好きだなんて、求婚なんてありえない。
つまり、最悪の事態が起こっている。
私はカーテンの向こう側に向かって叫んだ。
「レイファーさぁぁぁぁん!!後遺症です!!菌が!寄生虫が!クリス様がおかしくなってしまいましたぁぁぁ!!!!」
一体原因はどれ!?もしや全部では!?
慌てふためく私は、きっと今真っ赤な顔をしているだろう。
振り返るのが怖くて、クリス様をベッドに残したまま外に出た。
カーテンの外にいたアンナさんはすべて会話を聞いていたらしく、私と同じく「後遺症ですかね!?」とうろたえていた。
あああ、絶対に後遺症だわ……!菌よ、寄生虫よ!!
噴水の水なんて飲ますんじゃなかった……!
廊下に出たところでジャックスさんにぶつかりかける。
「うぉっ!?どうしました?!」
私は返事もせず、ひたすら走った。
どこに?そんなのわからない。
けれど、ここにいたら色々とまずいと感じていた。
「え、帰るんですか?」
「帰りますっ!急いでお義兄様とユンリエッタさんに知らせなきゃ!」
ドキドキするのは、きっと全力で走っているからだわ。
あんな求婚、本気になんてできるわけがない。
あああああああ、でもかっこよかった……!
後遺症か何かだってわかっていても、心臓が止まるかと思った……!
「ニーナさん?」
「何でもないないです!」
「揚げパン、買って帰らなくていいんですか?」
「それは買って帰ります!」
私は大量の揚げパンを注文し、あとでヒースラン邸に持ってきてもらうよう手配してから邸へ戻った。




