番外編SS「将軍は危機管理を怠らない」
騎士団の訓練場では、今日も厳しい強化メニューが課されていた。
四方を敵に囲まれた状態で、倒れることなく突破するというのは過酷なもの。
それでも、檄を飛ばす男が救国の英雄ならば、誰一人として反抗的な者はいない。
「足を止めるな!最後の一振りまであきらめるな!敵はどこから襲ってくるかわからないぞ!」
「「「はい!!」」」
漆黒の髪がさらりと風に流れ、鋭い目つきもまた洗練された雰囲気がある。
長剣を手に叫ぶ将軍・アレンディオは、父となった今もこうして職務に励んでいた。
訓練が終わると、補佐官のルードを従え、己の執務室へと戻る。
ここ数年ですっかりなじんだ、書類だらけの執務机。そこへ座ったアレンディオは、訓練後も険しい顔つきのままぽつりと呟いた。
「…………ルチアが、転んだんだ」
静寂に包まれた空間で、男二人が真剣に顔を見合わせる。
ルードはこの後の予定を確認する手をいったん止め、口を開いた。
「一応、伺いましょうか」
長年連れ添った妻のごとく、冷静に対処する。
アレンディオは苦悶の表情を浮かべ、話の続きを始めた。
「今朝はソアリスの体調が思わしくなくてな。ルチアだけが見送りをしてくれたんだ。赤いドレスが似合っていて、天使かと見紛うくらいに愛らしかった」
「わぁ、予想以上に長そうな話ですね」
話の腰を折る補佐官を、アレンディオは一睨みする。
「ルチアももう5歳だ。ソアリスが身重なことをわかっていて、私が見送ると自分から言い出すんだから…………泣ける」
「どこが?どこか泣くところありました?」
「気に入りの靴を自分で選び、紐が複雑なそれを履かせてくれと持ってきて、俺はそれに従った。だが靴紐が思いのほか太く、しっかり結ばねば解けて転ぶと思った俺は全集中の呼吸とやらで紐を縛り、そして切った」
「何やってるんですか。切るほど力を入れないでください。え、そして何か、ちらっと別の世界線の話を取り入れました?え、やっぱりSSだから何でもありっていうアレですか?そのうち偉い人に怒られますよ?」
呆れるルードに構わず、アレンディオは話を続ける。
「乳母が替えの紐を持ってきてくれて事なきを得たんだが、階段を降りるときにあわや転倒という場面で俺はルチアを支えた。だが、敵は足元だけにあらず……!支えたときに俺の剣の柄がルチアの頭にゴツンとあたり、しかも勲章が髪にひっかかった。俺はどちらも投げ捨てた」
「朝から大変ですね、としか言えません」
あとで捨てたものを回収させねば、とルードは思う。
「剣などいらない時代になればいい」
「いい感じに言ってますけど、アレン様が気をつければいいだけですからね?」
正論で返され、アレンディオはルードを睨む。
「何が言いたいかというと、たとえ邸の中でも油断してはならないということだ……。敵はどこに潜んでいて、どこから襲ってくるかわからない!」
「いや、今のところルチア様の敵はあなたですよね…………って、まさか今日の訓練はそこから?」
敵に囲まれている状態からの、脱出訓練。
難易度の高い訓練は、この男のおもいつきだった。
ルードは呆れて顔を引き攣らせる。
「準備するの大変だったんですよ?騎士たちも、まさか子育てに目覚めた将軍に育てられるとは思ってません」
「一人でも優秀な騎士を育て、ルチアが暮らす街を守らせたい」
「私利私欲の極みか」
「何も問題などない。真実など、もたらされる利益の前では何の役にも立たない」
じとりとした目で見られても、アレンディオは我が道を貫いていた。
大きめのため息をついたルードは、もうどうしようもない親バカ将軍に大量の書類の確認を促す。
「そろそろ仕事をしてください。出産に合わせて、休みを取りたいんでしょう?」
「あぁ、ソアリスのそばにいてやりたい」
新しい命は、今度はふたつ。
ルチアのときより随分と大きくなったお腹を抱え、ソアリスはまもなく会える赤子の名を考えていた。
ペンをとり、報告書にサインをするアレンディオに向かってルードが冗談めかして尋ねる。
「また女の子だったら、うちの子の嫁にくださいますか?」
ーーボキッ
「あ、すみません。本気にしないでください」
四歳差ならちょうどいいのに。
今朝、妻のユンリエッタがわりと本気でそんなことを言っていたのを思い出し、けれどそれを伝えるのはやめた。
まだ死にたくない。
こんなくだらないことで死にたくない。
アレンディオは再び書類に目を落とし、職務に励んだ。
そしてひと月後、男の子の双子が誕生し、誰よりもルードが安堵するのだった。