ブラック職場疑惑
アレンディオ様は使用人を下がらせると、二人きりになった部屋で真剣な顔で私を見つめる。
いきなり本題に入るのかと身構えた私だったが、まったく予想外のことを言われて愕然とした。
「辞めるか?金庫番の仕事」
「は?」
何を言われているのか、まったくわからなかった。
辞める?
辞めるって何を。
仕事を?
なぜ?
向かい合って立ったまま、ソファーにも座らずに見つめ合う。
私がどうにか振り絞った声は、震えていた。
「それは、伯爵家の体裁にかかわるから……ですか?」
裕福な家の妻は、仕事なんてしない。
例外はあるけれど、ヒースラン伯爵家のような由緒正しい家柄ならそう考えても仕方ない。
現在も没落中のリンドル子爵家に働かないなんていう選択肢はないが、私は戸籍上はヒースラン伯爵家の嫁なのだ。
今をときめく英雄将軍の妻である。彼は妻が働くことを、「恥ずかしい」と思っているのかもしれない。
「やっと仕事に慣れて、信頼されるようになったのに……辞めるかって簡単に言われても困ります」
思いのほかキツイ口調になってしまった。でも感情が乱れて、つい怒ったように言ってしまう。
アレンディオ様は私の態度に少し狼狽えて、口ごもりながら説明を始めた。
「いや、昨日も夕暮れだというのに出て行って、今日もこんなに遅くて……。ソアリスはその、疲れているように見えるんだ。だから、もし辛いのなら仕事なんてしなくてもいいと言いたくて」
仕事なんてしなくていい。
これは彼なりの優しさや労わりなのだろう。
でも今の私に、この言葉をかみ砕いて受け止める余裕はなくて。
自分がこの5年間がんばってきたことが、すぐに辞められるくらいの価値しかないと言われているような気がして、しかも睡眠不足もあるので感情が制御できなかった。
「うっ……」
「ソアリス!?」
どれほど拳を握っても、ぼたぼたと零れ落ちる涙を止めることはできなかった。
急に帰ってきて何なのだ。
私のことをどうしたいんだ。
離婚してあげると言っているのに(まだ言っていないけれど)、なぜ私をここに住まわせようとするのか。仕事を辞めさせようとするのか。
私のこと、嫌いなんじゃなかったの?
ずっとそう思ってきたのに、いきなりの変化についていけない。
俯いて泣くだけの私を見て、アレンディオ様はただ狼狽えていた。それも盛大に。
「ソアリス!?何が悲しいんだ!?誰かに嫌がらせでもされているのか?仕事がつらいのか?君が望むなら、すぐにでも俺が王女宮へ行って……、いや、国王陛下に直訴して金庫番の仕事を辞めさせる。大丈夫だ、何も心配はいらない」
まったくの見当違いに、私はぐっと唇を噛みしめる。
そして、涙ながらに彼に訴えた。
「……やだ」
「え?」
「私から仕事を奪わないで!辞めさせるって言わないで!!」
初めてこんな大声を出したかもしれない。
何か話しかけても、何も返ってこなかった10年前のアレンディオ様。私は今、誰と話をしているんだろう。
昔うちが援助した恩返しが目的なら、私のことは放っておいて欲しい。
他人より他人な妻なんて、家が没落したらもうあなたにとってはお荷物でしかないでしょう?
女性に叫ばれたことがないのか、それとも妻に反論されてショックだったのか、アレンディオ様は目を見開いて愕然としていた。
「私は!仕事を続けます!今日はドレスの用意をしに、衣裳店へ寄っていたから遅くなっただけです。激務でも何でもありません。王女宮はそもそもそんなに忙しい職場じゃないし、私は好きで仕事をしているんです!」
「忙しく、ない?」
長い長い沈黙が流れる。
彼は茫然としていて、私はぐすっと鼻をすすっては泣いて、すすっては泣いてを繰り返していた。
多分これは、昨日からの混乱で情緒不安定になっているだけだろう。
よく考えてみれば、アレンディオ様は激務を心配して辞めろと言ったのではないかとここにきてようやく頭が動き始める。
「忙しくないのに昨日出て行ってしまったのは、もしかして」
しまった。
忙しくないって自分から暴露してしまった。逃げたのがバレた!
「そんなに嫌だったのか」
アレンディオ様はその美しい顔を歪めて、右手で顔を覆う。
その姿を見たとき、胸がずきんと痛んだ。
「あの……」
何か言い訳を、フォローをしなくては。
何も思い浮かばない!!
口をハクハクするだけの私に向かって、アレンディオは静かに言った。
「きちんと説明しておくべきだった。その、なんていうか俺は君を無理やりどうこうするつもりなんてなくて」
「は?」
何の話だろう。
彼の顔を覗き込むと、少し淋しげな雰囲気だった。
「寝室は別でも構わない。昨日だって、そのつもりだった。俺は別の部屋で寝るから、主寝室はソアリスに使ってもらおうと思っていた。断じて嘘じゃない」
なんで寝室?話の筋が見えない。
「夫婦とはいえ、いきなり……俺とそういう行為をまだしたくないっていう意思表示でいなくなったんだよな。忙しくないのにあんな風に帰ってしまったのは」
「え!?」
そういう行為って、そういう行為!?
寝室は別でも構わないって、それはありがたいけれど……。
いやいやいや、ないないない。私とアレンディオ様がそんなことになるなんて、ないないないない!
「そ、そういう行為は、恋人か夫婦でしかしちゃだめだと……!」
「俺たちは夫婦だろう?」
はっ!
そうだった。
私の中で、彼とは夫婦という概念に収まっていなかったけれど世間的には夫婦だった!
「もちろん!ソアリスが嫌がることはしないと誓う。騎士として、神にだって誓ってもいい。式を挙げるまで待つ」
「式を挙げる!?」
そういえば昨日、出会い頭にそんなこと言っていたような。
「君の気持ちを先回りしてわかってあげられなくて、本当にごめん。仕事に関しても、君がつらいなら辞めてもいいという意味だったんだ。どうにもソアリスが相手だと、うまく気持ちを説明できずに昔の自分に戻ってしまう」
えーっと、昨日も今日も、私が情緒不安定だっただけなのでは。
「いや、今のは一言『心配なんだ』と気持ちを告げれば勘違いされずに済んだんだ。以後気を付ける」
なんだか業務報告みたいだ。
軍人って、皆こんな感じになるのかしら。
「あの、私の方こそすみません……」
「仕事は、辞めるも辞めないもソアリスが自分で決めるのは当然だ。俺はただ、君が倒れないか心配だっただけで他意はない。自分の思い通りにしようなんて、君を閉じ込めようなんて思っていないから安心して欲しい」
「アレン」
「ただ、一緒にいたいんだ」
ひぃぃぃ!!
いつの間にかまた甘い雰囲気を醸し出している!
「私と一緒にいても、いいことなんて何もありません」
「そんなはずないだろう。むしろ君がいないと何の意味もない」
「アレンはおかしいです……!」
「そうだろうか?」
あまりに当然のようにそんなことを言うアレンを見ていると、なぜか心臓が痛くなって顔が真っ赤になった。
「今までいないのが当たり前だったのに」
心が乱されて、自分が自分じゃないみたい。
王都に来てから一度だって泣いたことなんてなかったのに、私はどうかしてしまったのかもしれない。
彼は私の気も知らないでそっと手を伸ばし、私の頬に残る涙を指で拭う。
「あの、困ります」
「困る?」
涙なんてハンカチで拭くもので、こんな風に指で拭ったら彼の手に涙がついて汚い。
しかしアレンディオ様はふっと目元を和らげて、囁くように言った。
「困らせたい、と思ってしまうな。そんなに可愛い反応をされると」
「っ!!」
美形の囁き、微笑みというダブルパンチを腹部に受けた私は、へろへろとその場に崩れ落ちた。
やはり影武者説が有力ではないのか。
あの無口で不愛想で、私に何の興味もなかったアレンディオ様が、あたかも私を好きなようなそぶりをするなんて。
「ソアリス、夕食は?」
アレンディオ様はそう尋ねると、私の腕を取り絶妙な力加減で立たせてくれた。
返事をする前に廊下へと連れ出され、どうやら一階にある食堂へ向かうらしい。
彼の肘に手を置いて、エスコートされるというよりは介護されるみたいな感じで歩いていく。
「一緒に食べよう。君が帰ってくるのを待っていたんだ。話はまた後でいい」
どこまで本心なのか、まだわからない。
でも、多分悪い人ではない。
世の中には妻を所有物のように扱う夫もいると聞く。
彼は昨日こそ強引だったけれど、引越しについても仕事についても私の気持ちを尊重しようとしてくれているのは伝わった。
王城にも、頑固で上から目線な文官や騎士はいるので、彼らと比べるとアレンディオ様は将軍なのに偉ぶった感じがない。不器用なりに、私と前向きに付き合っていこうという雰囲気はわかる。
ただ、やり方とか言葉はおかしいけれど。
もしかするといい人なのかもしれない、と少なからず思えてきた。
これはこれで困ったなぁ。
私としてはこの10年は、いうならば「空白」なわけで。
アレンディオ様に対して何の感情も持っていなかった。
早く帰ってきて欲しいとか、淋しいとか、夫なのにどうして何もしてくれないんだとか、そんなことは一切思ったことがない。
自分とは別世界の人として、割り切って生きてきたのだ。
それなのに今、彼は私の目の前にいてアレンディオという人をどんどん教えてくる。私の感情に波を起こすのだから、このままいくと情が湧いてしまいそうな気が……。
かといって、無視するのは道理に反すると思うのよね。
形だけとはいえ夫なわけで、二人が一緒に過ごすのは当然といえば当然で。一緒に暮らすのも当たり前。
世間的には、そうよ世間的にはおかしいのは私なのだ。夫が戦地から帰ってきたら、一緒に暮らすのは当たり前。
……あぁ、世間よ、なにゆえおまえはそんなに厳しい?
英雄の妻が一緒に暮らさないなんて、風当たりが強そうだ。
あっさりと「君を待つ」と言ったアレンディオ様も大概おかしいのかもしれない。
とにかく夕食後に話し合って、離婚申立書を渡さなくては。
これは私なりのけじめなんだから。
そこまで考えて、はっと私は気づいた。
私はまだ、大事なことを言っていない。
「アレン」
「ん?何?」
呼び止めると、彼は立ち止まって私を見下ろす。
「今さらなんだけれど」
「うん」
戸惑いつつも彼の目を見てはっきりと告げた。
「無事に帰ってきてくれてよかったわ。10年もの間、国のために剣を奮ってくれてありがとう」
「っ!」
アレンディオ様があまりに驚いた顔をするから、つい笑ってしまった。
妻として儀礼的に伝えたことなのに、そんなに意外だろうか。
「ふふっ、急に帰ってきて驚いたけれど…………おかえりなさい」
ようやく言えて、私は満足だった。
彼はなぜか目を伏せて、「あぁ」とだけ言った。
その愛想のなさは、10年前のアレンディオ様みたいだった。
と、思ったのは短い時間だけで。
「これからはソアリスの騎士になるよ」
「ひっ!!」
突然の甘やかな笑み。
どこの絵物語だと思うようなセリフ。
夫が戦場から戻ってきて、二日目。
私の混乱はまだまだ収まりそうにない。




