遠くの神より近くの悪魔
マルグリッド様を確保(?)してからわずか五日後。
私たちは煌びやかな衣装を纏い、王城の一角にいた。
今夜は、王妹・ローズ様のお誕生日祝いのパーティーが開かれるからだ。
けれどその前に、ヴォーレス公爵と決着をつけなくてはいけない。
冷たい石造りの地下通路を通ってやって来たのは、王城の敷地内にありながら忘れられた存在になっている離宮・ガーネット宮。
外観は蔦に覆われていて、誰も住んでいないことがひと目でわかる。
ここは先王の寵愛を欲しいままにした側妃様が住んでいた離宮で、かつて凄惨な跡目争いが勃発したいわくつきの宮殿らしい。
第一王子、第二王子が斬り合いをして双方共に絶命した場所なので、普段は封鎖されていて誰も近づかないのだという。
王女宮からは正反対の位置にあるため、私はこれまで一度もここへ来たことはなく、その存在すら知らなかった。
まして、王城の裏側から隠された地下通路で繋がっているなんて思いもしない。
埃まみれのこの通路は、数日前に特務隊の一部が安全確認のために入っただけで、随分と長い間誰も通っていなかったことがすぐにわかる。
――ガラガラガラ……。
マルグリッド様を先頭に、大きなリネン籠を乗せた台車を押して歩くジャックスさん。
そして台車の隣にアレンが、その後ろをレイファーさんが歩いている。
私は、リネン籠の中に隠れていた。
シーツやタオルをクッションにして座って運ばれているので、一人だけラクしているみたいでちょっと申し訳ない。
そろそろガーネット宮の地下扉に到着するかしら、と思っていると、布でできたフタが静かにずれて、レイファーさんが顔を覗かせた。
「あなたに何かあったら、アレンディオが反旗を翻しかねないって本当にわかってる!?絶対に無謀なことはしないでよね!」
「おい、勝手にソアリスを見るな」
別に見られて困るような姿ではないのに、アレンが心底嫌そうな声でそう言った。
「全部マルグリッド嬢とジャックスに任せるのよ。いいわね?あなたは飾り!おまけ!空気だから!」
「わかっていますよ、レイファーさん」
私のことを心配している、というよりは国を心配しているというのが伝わってくる。
いくら何でも、アレンが国を相手に戦うことはないと思うんだけれど……と困った顔で見つめ返せば、盛大なため息を吐かれた。
「まったくそんな虫も殺さなさそうな顔しておいて、とんでもない悪妻だわ。マルグリッド嬢のことをどうしても助けたいだなんてワガママにもほどがあるわ」
「あはは……、お手伝いいただきありがとうございます」
私たちはあの日、騎士団の執務棟でルードさんを捕まえた。
アルノーに悪魔呼ばわりされた彼は、私がマルグリッド様を連れてきたことについて少々驚いていたものの、とてもいい笑顔で迎えてくれたのだ。
『マルグリッド嬢がこちらに来てくださるなら、できることが増えそうですね~』
爽やかな笑みに黒いオーラが見えたのは、気のせいじゃない。
すぐに訓練場にいたアレンを呼び戻し、ヴォーレス公爵への対処について会議が始まった。
アレンたちに反対されるかも、と思っていたのに、意外にもすんなりマルグリッド様のことは受け入れられた。ヴォーレス公爵家を完全に解体してしまうと、今までおとなしくしていた中間層の抑えがなくなってしまうので、どうにかして安全な人物を公爵家のトップに置きたかったのだとルードさんは話した。
『女性は爵位を継げません。けれど、暫定的に当主代理として家を治めることはできます。マルグリッド嬢が父君に反旗を翻し、我々につくというのなら、あなたがいずれ男児を産むまでの間は陛下や王妃様が後ろ盾となり、女公爵の肩書を差し上げるとお約束します。それに、母君のことはこちらで手を回して保護いたしましょう』
マルグリッド様は、もちろん驚いて、戸惑ってもいた。
これまで王太子殿下を支えるべく妃候補を目指し、自分が前面に立つことは考えてもいなかったもの。
けれど、公爵家の存続のためにはもうこの方法しか残っていない。
となれば、彼女の答えは一つしかなかった。
『わかりました。私はこれより、悪魔に魂を売りましょう』
『…………実はこれしか選択肢がないことにちょっと怒っていますね?』
ルードさんが口元を引き攣らせていた。
それに対して、マルグリッド様はまるで夜会に出ているときのようにいい笑顔で答えた。
『いやだわ、まさかそのような。ただ、これまでどれほど神に祈っても報われなかったのです。もうここまでくると、宗旨替えしてみるのもよいかと。遠くの神より近くの悪魔というではないですか』
オホホホホと上品に笑うマルグリッド様は、どこか吹っ切れたようだった。
アルノーは「壊れた?」と言っていたけれど、私もちょっとそう思う。
そして作戦会議の結果、マルグリッド様はローズ様のための祝宴が開かれる慌ただしい夕方の時間を狙い、ジャックスさんと共謀して私を攫って父親の下へ連れて行くということになった。
ジャックスさんは、マルグリッド様に恋心を抱いている……という設定である。
アレンの誘惑に失敗したマルグリッド様は、私の護衛であるジャックスさんを誘惑することに成功し、こうして将軍の妻を拉致することになったと。
アレンは最後まで反対していたけれど、ガーネット宮の周辺やその内部にも特務隊を配置し、公爵が邪教信仰者と共にいる現場さえ押さえられればすぐに乗り込むということで渋々納得してくれた。
「アレンディオもおかしいわよ。なんでこんな普通の女の尻に敷かれてるわけ?将軍なら将軍らしく、妻の足の腱を切ってでも止めなさいよ」
「それもう将軍じゃなくてただの暴君っすよ。妻への虐待案件で拘束です」
ジャックスさんが苦笑いで突っ込む。
アレンはレイファーさんを冷めた目で見ると、落ち着いた声で言った。
「ソアリスが望むことに手を貸す、これの何がおかしい?」
「何がって……」
理解できない、レイファーさんは呆れて絶句する。
「言っておくが、俺にとって大事なのはソアリスがどうしたいかだけだ。普段は多くを望まない妻が、どうかと頼んできたことくらい叶えてやるのが当然だろう?それに、今回の話はこちらにとっても悪くない話だった」
アレンだって、無理なことは無理だと言うと思う。
ヴォーレス公爵の処罰は陛下の望みでもあるから、マルグリッド様が味方になってくれるのは利のあることだ。
ただし、本人も言っていた通りマルグリッド様を信じられるかどうかにすべてはかかっている。
私はそこが心配だったんだけれど……。
「ソアリスがマルグリッド嬢を信じるなら、俺も信じる。妻が守ろうとしたものを斬るような男になりたくない」
「本当にどいつもこいつも……」
レイファーさんは一人頭を抱えていた。
「これだから王侯貴族の争いを知らない子は困るのよ。権力者同士の勝負っていうのはね、負ければその場で関係者全員が消されるのよ。それを一部だけ救いたいだなんて」
まだ納得できないらしい。文句を言いつつ、ついては来てくれるのが不思議だわ。
籠の中からじっと見つめていると、薄ら笑いを浮かべている彼が見えた。
「世の中にはね、性別を偽るまでしないと生き延びられない者もいるのよ。あなたたちみたいに甘い考えじゃ、この先が思いやられるわ」
彼も明言はしないし、私も尋ねないけれど、自分のことを言っているんだろうなというのはわかった。
先王の後継者争いは苛烈を極めたというのは有名で、力のない王子たちは命を奪われたとも聞いた。きっとレイファーさんは、そんな日々をどうにかして生き延びた人なんだろう。
だからこそ、将軍の妻という立場でありながらマルグリッド様を助けたいなんて甘いことを言う私には怒りもあるはず。
ただ、それでも私は可能性があるならそれに賭けてみたかった。
アレンやルードさんがいる限り、これは分の悪い賭けなんかじゃないはずだから。
呆れや嘆きを吐き出すレイファーさんに向かって、前を行くマルグリッド様がちらりと振り返って言った。
「あら、私が生き延びたいと思って足掻くことがそんなにお嫌ですか?ならば医局塔でゆっくりなさっていればよろしかったのでは」
「誰もそんなこと言ってないでしょう?」
「それにローズ様は、腹違いとはいえあなたにとっても妹でございましょう。お誕生日のお祝いくらい、お伝えになっては」
言われてみれば確かにそうだわ。
けれど、レイファーさんはじとりとした目でマルグリッド様を睨む。
「やめてよ。こんな兄なのか姉なのかわからないのが出てきたら、ローズ様が混乱するでしょう?私はもう王族じゃないんだから、存在を知られなくてもいいの。どうせあの子だってすぐに嫁ぐし、すれ違うこともない関係でいるのが一番よ」
そんな話をしているうちに、ガーネット宮の地下にある入り口に到着した。
アレンとレイファーさんは、ここまでしか付き添えない。
「なにかあったら、これを口にして倒れておきなさい」
「これは?」
レイファーさんに、丸薬のようなものを渡される。
赤紫色をしていて、ザクロに似たきれいな粒だった。
「とにかくマズイ薬よ。飲んだら最後、しばらくのたうち回るくらいにはマズイわ」
「どうして私がそんなものを……?」
「苦しむ演技とかできないでしょう!?最悪の事態になったらこれを噛んで、苦さでのたうち回っていたら向こうも驚いて『まさか服毒自殺したのでは』ってびびるから。時間稼ぎくらいにはなるでしょう」
そんなにうまく行くかしら。
私は半信半疑ながらも、ありがたくそれを受け取った。
「一応、あなたにも渡しておくわ」
レイファーさんはそう言うと、マルグリッド様にも同じ丸薬を渡す。
彼女もそれを受け取り、ドレスの胸元から出した小さな丸いケースに入れて再び戻した。
豊満な胸があればあんな風に小物を隠せるのね……と、私はちょっとだけ羨ましく思ってしまう。
じっと見つめていると、籠のフタを大きめにずらしたアレンが心配そうな顔を覗かせた。
「自分の身の安全だけを考えてくれ。想定外のことが起これば、ジャックスが全員斬り伏せるまで隠れていればいい」
できればそうならないよう願います。
私は心からそう思った。
「また後で。必ず守る」
アレンは屈んでいる私の額に優しくキスを落とすと、名残惜しそうにその蒼い瞳を揺らした。
そしてお別れを邪魔するかのように、レイファーさんが身体ごと割って入ってくる。
「じゃあね。無事に戻ってきたら、おいしいワインでも寄越しなさい」
「ありがとうござい、きゃぁ!」
お礼を言おうと思ったら、乱暴にフタを閉められた。
私に対する扱いがものすごく雑だわ!将軍の妻として日頃から皆に大事にされているから、レイファーさんみたいに雑に扱ってくる人はめずらしく、ちょっと新鮮なくらいよ……。
「奥様、いきますよ~」
緊張感のない声。
これから本当にヴォーレス公爵の下へ乗り込むのかしら?
もう一度気を引き締めて、私はリネン籠の中で膝を抱えて座り直した。