妻以外はみんな自由
夜会も終盤に差し掛かり、私はアレンと共に貴族院の重鎮の皆様へご挨拶を行っていた。
紳士サロンでアレンが声をかけられて、「ぜひ幻の奥様にご挨拶を!」と言われて逃げられなかったらしい。
幻も何も、私は普通に生活していて、しかも毎日金庫番で仕事をしているのですが……?
普通の奥様よりも、世間への露出は多い方である。
アレンがこれまで社交の誘いを断りすぎたことにより、幻の生き物みたいな扱いになっていた。
十人ほどのご夫婦にご挨拶をしたら、己の記憶力のなさを痛感した。着飾った人々は、特に親世代の年齢層になるとほとんど見分けがつかない。
アレンは何度か面識のある方々だったらしく、不甲斐ない私のためにがんばって会話をリードしてくれた。
ジャックスさんは、不用意な発言をしないよう自制したのかまったく口を開かず「護衛です、空気です」を貫いていて、それがちょっとだけ羨ましく思ったのは内緒だ。
「それでは、私どもはそろそろ失礼いたしますわ」
最後にお話をした老夫婦の奥様がそうおっしゃると、ようやくこの緊張から解放されるととても安堵した。
ところがその瞬間、知りたくなかったことを告げられる。
「そうそう、さきほど控室でヴォーレス公爵とお嬢様にお会いしましたわ。ソアリス様とマルグリッド様は仲が良いと伺いましたので、お伝えしなければと思っていたのに失念しておりました」
老夫婦の奥様はよかれと思って教えてくれたのだが、つい笑顔が引き攣ってしまった。
マルグリッド様がお父様と一緒に参加なさっているということよね?
私とマルグリッド様が仲がいいなんて、自分のことなのに初耳だった。
笑顔で去って行く老夫婦をお見送りしながら、私の脳裏をよぎったのはマルグリッド様の言葉。
『どうして……どうしてあなたのような人やローズ様みたいな人が、幸せになれるのでしょう。何の努力もしていないのに』
あのときは魔除けのキノコの件でうやむやになったけれど、翌日には彼女から謝罪の手紙をいただいた。
内容は「失礼なことを申しました。お詫びいたします」という、模範的な謝罪文。だから私も、気にしていないという旨を書き記して返事を出した。
あれ以来マルグリッド様にお会いしていないし、会ったところでいつものような完璧な笑みや態度で応じられるのだろうなと思うと私にこれから何かできることなどないと思う。
けれど、なぜ私たちが仲がいいということになっているのか。
業務以外の会話もお付き合いもなく、お披露目に参加してくれたのもローズ様の付き添いであって個人的なお付き合いは何もない。
心に引っかかるものはあるけれど、考えても仕方のないことなので、私はアレンと腕を組んで馬車へと向かうことにした。
「ヴォーレス公爵様にご挨拶をしなくてもよろしいですか?」
特に懇意にしているわけでもないので、たまたま会わなかったというこの状況はマナー違反ではない。
が、念のために尋ねると、アレンは前を向いたままさらりと答えた。
「必要ない。ソアリスを見せるのはもったいない」
どことなくピリッとした空気を纏うアレンに、それ以上のことは聞けなかった。私は口をつぐみ、いつもより早足で歩いて行く。
ニーナはクリス様と一緒に私たちの後方を歩いてきていて、少し距離ができているけれど迷うことはないだろう。
しかし、妹にも意識をかすかに向けつつ庭園を進んでいると、正面から赤いくせ毛の男性がやってくるのが見えた。
立派な身なりのその人は、見るからに権威ある高位貴族の男性で五十代くらい。口髭がダンディで、随分と体格がいい。
「あら……?」
私たちとの距離が縮まると、その人の隣に淡い紫色のドレスを着たマルグリッド様がいたので、その男性が誰だかわかってしまった。
「ヴォーレス公爵」
今にも舌打ちしそうな嫌悪感を露わにして、アレンがそう呟いた。
お二人のほぼ正面で立ち止まると、マルグリッド様が淑やかにカーテシーをするので、私も慌ててそれに合わせてご挨拶をする。
「久しいな、ヒースラン将軍」
「お元気そうで何よりです、ヴォーレス公爵」
先方は友好的な笑みを浮かべているけれど、その目は私のことを品定めするかのように思えた。
獲物をいたぶるのを楽しむような雰囲気を感じ取り、背筋がぞわっとする。
恐怖心から身体を固くしていると、それがわかったのか公爵はますます笑みを深めた。
「奥様のお噂はかねがね……。将軍が大層かわいがっておられるとか」
何と返せばいいのやら。
私はかろうじて笑みを浮かべる。
「しかしながら、戦場では数多の武功を上げてきた英雄がこのようにか弱き妻をそばに置くだけでは、これから先はご苦労なさることでしょうなぁ。剣を持って戦う時代は終わるのです、ならば、それ相応の力を持つべきだと思いませんか?」
言い終わるのと同時に、彼は自分の娘をちらりと見た。
これは、没落貴族の娘を妻にしておくよりも、社交界で力を持つヴォーレス公爵家のマルグリッド様を妻にした方がいいという彼なりの助言のつもりだろうな。
理屈はわかるけれど、あいにくそんなものはアレンに通用しないわけで。
「お言葉ですが、私は生涯ソアリス一人を愛すると決めています。お気遣いには及びません」
「ほぅ」
笑顔をキープしている公爵だけれど、その目はかすかに怒りを滲ませていた。
「我が娘では不満だと?」
「いいえ?ソアリスでなければ意味がないのです。ただ、それだけですよ」
「はっ」
公爵は、まったく理解できないという風に嘲笑する。
私はどうすることもできず、ひたすらアレンの傍らで黙っていた。
少しの沈黙の後、悪意に満ちた目が私の方へ向けられる。
「こうして実際にお会いしますと、今にも儚くなりそうな奥方ですなぁ」
「!?」
怖い!
それは遠回しに、私のことを消すっていう意味ですか!?特に何かあったわけではないけれど、ついそういう風に受け取って警戒してしまう。
が、ここでいつの間にかすぐ後ろにいたニーナが、小声で密かに耳打ちしてきた。
「お姉様!儚げだって、細いって言ってくださったわよ!やっぱりお姉様は太っていないのよ」
違う!
そういうことじゃないわ、ニーナ!
今にも儚くなりそう、死にそう、殺されないようにねっていう嫌味だと思うわ。
天真爛漫ないい子に育ったニーナは、自分の都合のいいように受け取る逞しい娘に成長していた。
ただし、アレンは私と同様に公爵の言葉に裏を感じたようで、不遜な口調で嫌味を返す。
「ご心配など不要です。妻は私が守り続けますから。自分の妻も守れないような男が将軍では、ノーグ王国の騎士と呼べないでしょう。あぁ、公爵もどうかお身体をご自愛ください。老いることで目が曇るのはよくあることですから」
アレンの挑発に、公爵は少しだけ目元を引き攣らせたけれど、すぐさま元通りの笑みを作った。
よほど自分の力に自信があるのだろう、そんな風に感じられる。
「はっ、さすがはその年で頂に立つだけのことはある。恐れを知らぬとは、勇敢というべきか愚かと笑うべきか。いずれ己の未熟さを思い知るときがくるだろう」
公爵はふんと鼻で笑うと、マルグリッド様を連れて夜の庭園に消えていく。
すれ違いざまには、アレンに向けて「首狩り将軍ごときが」と捨て台詞まで吐き、私のこともひと睨みしていった。
典型的な嫌味な権力者にしか見えないヴォーレス公爵は、娘であるマルグリッド様のことも自分の駒としか思っていないのかもしれない。
怒りやら悲しみやらが胸の中に渦巻いて、私はしばらく俯き加減で黙っていた。
「大丈夫か?」
頭上から労わりの声がかけられ、私ははっと気づいてアレンを見上げた。
「すまない、嫌な思いをさせた」
「アレンが謝るようなことではありません」
長い指が私の頬をなぞり、夜風で乱れた髪をそっと耳にかける。
今日ここでヴォーレス公爵に遭遇したのは、予定外のことだったんだろう。おそらく、向こうは私たちが出席すると知ってわざわざ出向いてきた。
そうなると、どう考えても避けようはない。
「アレンこそ、大丈夫ですか?」
首狩りだなんて言われて、傷ついたのでは。
しかしアレンは、平然とした態度だった。
「俺は何も気にしていない。あぁいうことにいちいち反論するつもりも、まともに受け取るつもりはないからな」
「そうですか……」
本人が飄々としているのに、私は悔しくて堪らなかった。
アレンが戦ってくれたおかげで、この国の平和は守られているのに。
ぐっと黙っていると、アレンがその大きな手で私の頭を撫でた。
「俺のことはいい。ソアリスがそばにいてくれて、信じてくれればそれだけで十分だ。俺は、そのためだけにこれまでやってきたんだから。心配なのは、俺のことよりソアリスの身の安全だ」
かすかに陰るその表情。
私はわざと明るい声で、大げさに笑みを作って見せた。
「ふふっ、私なら元気ですよ?だって、守ってくださるんでしょう?」
「あぁ、当然だ」
「では、安心ですね。とても頼りにしています」
アレンは少しだけ微笑むと、何も言わずに私の額にキスを落とす。
「!?」
また、妹の見ている前で……!!
必死の抵抗も虚しく、長い腕で絡めとられて唇を奪われた。
「アレン」
「もう少しだけ」
「ダメですよ……!二人きりじゃないですから」
慌ててその逞しい胸を押し、周囲を確認する。
が、そこにあるはずのニーナの姿はなかった。
「え?ニーナ?」
キョロキョロとあたりを見回すと、少し離れた花壇の前にニーナはいた。
「すごいわ!夜光蝶がいるなんて!さすがはお金持ちの邸宅ね~!」
「あまり近づくと危ないですよ、ニーナ嬢。薔薇の棘が当たります」
妹は自由だった。
ファビアンさんは子どもを見守るかのようにそばに控えていて、ジャックスさんも七色に光る蝶を間近でじっくり眺めていた。
茫然とその光景を見つめる私の背に、ずしっと重たいものがのしかかる。
アレンが私を抱きすくめるようにして包み込み、耳元でくすりと笑って言った。
「今は二人きりの時間に入るだろう?」
「……入りませんよ!?」