英雄将軍は妻に会いたい
青い空には、小さな雲片がうろこ状に漂う。
そんな冬空のある日、騎士団の訓練場には育成期間を明けた新兵30名が整列しそのときを待っていた。
ピリリと肌を刺すような鋭い空気は、壇上に現れた救国の英雄によるものが大きい。
漆黒の髪に蒼い瞳。将軍であるアレンディオ・ヒースランを前に目を輝かせる兵たちは、まだ十四歳から十八歳と年若いものばかり。
いずれも過酷な訓練を耐え抜いて入団した、エリートたちだ。
「今日から騎士となる諸君には、まずは労いを。厳しい訓練をよくぞ耐え抜いた」
憧れの存在を前に、誰もが高揚し歓喜に震える。
力強いその声を一つも聞き漏らさんと、じっと直立して集中していた。
「諸君がこれから進む道は、決して容易いものではない。だがこの訓練を乗り越えたこと、困難を耐え抜いてでも騎士になろうとした志は決して折れることのない内なる剣となるだろう。どうか我らと共に、王国の平和を守るために力を貸して欲しい」
剣のように鋭い男。その凛々しさは、ますます新兵の心を掴んで離さない。
「敵を倒し、仲間を守り、そして生き残ることに執着しろ。何があっても死に急ぐな。国を導く王家のため、待っている家族や友人、恋人のために剣をとれ」
短い激励の言葉を終えると、アレンディオは新兵の顔を見回しすぐに壇上から去って行く。
この中から将軍直属の特務隊に入れる者は1人か2人か。各々に理想を描く若者たちは、これから始まる選抜訓練について補佐官から説明を受け、各部門へと振り分けられて行った。
執務棟の一室。書類や手紙、本が塔のように積み上げられた机の前にアレンディオは座っていた。
ここ10日、全身全霊を賭して書類仕事に向き合っているおかげで、ようやくその塔の数が減ってきている。
――ガチャ……。
入団式を終えたルードが入ってくるが、アレンディオは険しい顔つきでペンを走らせたままだ。
「お疲れさまでした。少し休憩なさっては?」
柔和な笑みでそう提案すると、くっきりと眉間に皺を寄せたアレンディオは乱暴にペンを置いた。
そして、右手で隊服のポケットを探ると手のひらに収まるサイズの革の手帳を取り出した。
表紙を開くと、内側には妻の姿絵がある。
それを見たアレンディオは、突然顔を顰めて呻くように言った。
「ソアリス……!」
ヒースラン伯爵領から戻り、通常通りの業務に戻って約10日。
まだ一度も、邸へ帰れていない。
理由は単純明快で、休んだ分の仕事が溜まっているからである。
そろそろ限界に達したアレンディオは、ルードに向かって叫ぶように言った。
「妻に会いたくて俺はもう死にそうなんだが、どうすればいい!?」
「たった今、新兵に死に急ぐなって言っていましたよね!?」
新兵の前であれほど威厳ある将軍を演じておきながら、いざ妻のことを考えるとこの有様。
「それとこれとは話が別だ!覚悟のないやつは死ぬだけだ!俺は妻のために死なないだけだ!」
「すみません。敷地内だけでも、立派な将軍を演じてくれませんか!?」
「今日の分はもう演った。おまえの前で演じる必要はないだろう」
「はいはい。明日には帰れますから。もう少しがんばってください」
姿絵をいつ誰に描かせたのか、とは面倒なので聞かなかった。
おそらく、手を回したのはユンリエッタだろうと予想がつく。彼女の姉が芸術関係への支援を行っていて、腕のいい絵師には心当たりがある。
「奥様には一昨日の朝に会っているじゃないですか。登城時間に待ち伏せして」
「それだけが唯一の救いだ」
軍議のない早朝、一度だけソアリスに会いに行った。
城へ出勤してきた妻を待ち伏せ、馬車が着くなりその中へ押し入った将軍を見て警備の兵は引いていた。
もちろん、夫の待ち伏せに遭った妻も驚いて顔を引き攣らせていた。
王女宮まで警護するという建前で将軍が妻について行ったという話は瞬く間に広まり、そのうち金庫番の業務室にまで乗り込むのではと憶測を呼んでいる。
新兵や文官の前では立派な将軍で居続けるアレンディオだったが、現在ルードと二人きりの執務室ではただ妻に会いたがる男に過ぎない。
苛立ちがピークに達し、普段から鋭い雰囲気がさらに殺気交じりになっていた。
(このまま会議に出したら、文官が気絶するな……。何とかしなくては)
見かねたルードは、そろそろ休みを与えなければ憤死するのではと本気で案じ始めていた。
「もういっそ、ルードを騎士団長に据えて辞職するか……?領地へ戻って爵位を継げば、さすがに追って来ないだろう」
「私を犠牲にするのやめてくださいません?」
「何事にも、犠牲は付き物だ」
「それは犠牲者の前で言うことじゃありません」
補佐官のため息は深い。
ここはもうエサで釣るしかない、と切り替えたルードはある提案をした。
「あさっては奥様のお休みでしょう?明日は一緒に帰ることができそうですし、久しぶりにゆっくりできるよう調整いたします。それで一日中、二人きりで思う存分いちゃついて過ごせばよろしいのでは?」
訳知り顔の補佐官は、爽やかな笑みを向けてくる。
しばしの沈黙の後、アレンディオはルードを睨むようにして言った。
「誰から聞いた?ユンリエッタか?」
「いえ、聞かなくてもわかりますよ。お披露目の翌日、あの真面目な奥様が昼まで部屋から出てこなければ何があったのかは予想がつきます」
最愛の妻と一緒に暮らし始めて約5カ月。
10年もの間、初恋を拗らせた男はようやく積年の想いを遂げることができた。
王都の邸に戻ってきてからも、同じ寝室を使うようになっている。
が、披露目や旅の疲れからスヤスヤと眠る妻に無理を強いることはできず、しかもここ十日に至っては邸に帰れないので再び触れることは叶わずにいた。
「そういえば、これまでよく手を出さずに耐えましたね。そちらの方が意外です」
ルードは、心底不思議だという顔をしてそんなことを言う。
アレンディオがどれほどソアリスを愛しているかを知っていたため、一緒に暮らし始めるとすぐにそういう関係になると思っていたのだ。
深いため息をついたアレンディオは、憂いを帯びた表情で吐露する。
「ソアリスは、将軍の妻を望んでいなかった。10年間、これっぽっちも俺のことを好きでも何でもなかったんだ。俺がいくらソアリスを愛しているからといって、関係を無理やり求めたらそれこそ永遠に信頼してはもらえないと思った」
王国一の美丈夫に愛されて逃げ回る女性がいるとは、とルードは帰還した当時を懐かしむ。
「将軍になればソアリスにふさわしい男になれるのだと、俺はそう思っていた。だがいざ戻ってみれば、ソアリスが俺を受け入れてくれたとしてそれは本心なのかと……。英雄と謳われる将軍に求められ、否と言える者はいないのではと根本的なことに気づいたんだ。俺がソアリスを抱きたいと迫ったとして、それを受け入れる彼女の気持ちが本心でなかったとしたら」
一方的に立場が強くなってしまったからこそ、その悩みは深かった。
(アレン様にしてはちゃんと考えていたんですね……。直情的で行動力がありすぎる人なのに)
戦場では縦横無尽に馬を駆り、敵をなぎ倒す将軍だとしても、いざ妻のことになると誰よりも思い悩んで躊躇してしまうのがアレンディオだった。
「今の幸せは、何としてでも守らなけばいけませんね」
国を挙げての盛大な結婚式まで、あと2カ月。同盟国の王族からも、英雄の祝い事に参列するという返事が続々と届いている。
ソアリスには「数多の有力貴族が参列する」としか伝えられていないが、王族の慶事に匹敵する規模にまでなっていた。
そんな二人の平穏を乱すようなことは、絶対にあってはならない。
しかし、ルードの言葉にアレンディオは一瞬で鋭い雰囲気に変わった。
「例の調査はどうなっている?」
妻との暮らしを邪魔する奴は容赦しない。言外にそう告げる彼を見て、ルードは報告を上げる。
「証拠は何も出ませんでしたが、目撃証言や状況証拠からすると彼女が何らかの動きを見せたと思われます」
「そうか」
二人は同じ女性を思い描いていた。
かつては王太子妃に最も近い令嬢として、婚約者候補の中で目立っていた人物。
「マルグリッド嬢があの女を手引きした理由は?」
アレンディオは理解に苦しんでいた。
これまでまるで接点はなく、自分たちの間に挨拶以上のことは何もない。
それなのに、ヒースラン伯爵邸に滞在していた彼女は、アレンディオの寝室に侵入者の女を手引きしたという可能性が高いのだ。
「動機がわからない。公爵の指示か……」
「父親のヴォーレス公爵が、マルグリッド嬢をアレン様の妻にしたがっていることは間違いないです。娘を王太子妃にできなかった今、将軍との縁を持ちたいと思うのは自然ですから。それに、マルグリッド嬢は誰に聞いても優秀で模範的な公爵令嬢だという評判ですから、これといって本人が何かを企てるような印象はありません」
「そうだな。何より、マルグリッド嬢の場合、俺に何の興味もないことが伝わってくる」
文官や侍女、高位貴族の娘たちの一部には、アレンディオとあわよくば……という期待を抱く者はいる。
しかし積極的に関わりを持とうとしてくる猛者は今のところ寝室に忍び込んだ例の一件くらいで、後はアレンディオやルードがうまく躱していた。
「強いて言えば、何にも興味がないという目は気になるな」
「おや、あなた様が女性を気にかけるなんてめずらしい」
冗談めかしてそう言うルードを、アレンディオは無言で睨む。
「あはは、冗談ですよ」
「俺が気にかけるのはソアリスだけだ。マルグリッド嬢は……気味が悪い。何を考えているのかまったく読めん」
いつ見ても、完璧な笑顔。
優雅な立ち居振る舞いは隙がない。
人間味がなさすぎて気味が悪い、アレンディオはそんな風に感じていた。
「王妹殿下の喜怒哀楽がありすぎるから、余計に人間味が感じられないんですよねマルグリッド嬢は。ヴォーレス公爵家の教育の賜物なんでしょうけれど」
「問題は、公爵がどう動くかだ」
「随分前に茶会の誘いが来ていますが、まだ断りを入れていませんよね。ヴォーレス公爵家からの誘いを無視し続けるのはさすがにどうかと思いますが、結婚式の後に改めて伺いますという返事でも通用するかと」
「敵陣にソアリスを連れて行けないだろう」
「その表現はどうでしょう。いきなり襲ってきたりしませんって。それに、公爵の目的がアレン様を取り込むことだとすれば、公爵邸で奥様に危害を加えればどうなるか……それくらい先方も想像がつくでしょう。一度、正面からご挨拶をしてみてもいいかもしれませんよ?アレン様流のご挨拶を」
含みのある言い方に、アレンディオは苦い顔をする。
(宣戦布告でもしてこいと?俺より気が短いな)
わずかな休憩が終わり、会議の時間が迫る。
アレンディオは、すでに目を通した書簡やサインを入れた手紙を手早くまとめてルードに手渡した。
「はっ、いつだったか宰相が公爵のことを『強欲爺め』と文句を言っていたな。宰相には司令官になったばかりの頃に随分と世話になったから、長年の礼としてその強欲爺を引退させてやるのもいいか」
「では、その方向で。あ、アレン様、今日は会議より書類優先でお願いします」
「!?」
予算のことはこっちで何とかしておく、とルードは笑顔で告げた。
だからそのまま執務室で仕事をしろ、そう目だけで脅してくる補佐官は有無を言わせぬ強さがあった。
「各所からの報告はいいのか?令嬢たちが何人も失踪していると、確か先週そのような話があっただろう。騎士を派遣してくれという要請がそろそろくるかもな」
「荒事になるならともかく、組織的なものかわからない以上は騎士を派遣しても役に立たないのでは?警吏と諍いが起こるだけです。騎士団はまだ様子見とするのがいいでしょう。あなた様はこちらでのんびりしていてください。私が代理で行ってきますので」
ルードは書類の山を指差した後、足早に扉の方へと移動した。
「のんびり?」
アレンディオは眉根を寄せて尋ねる。
これのどこがのんびりなんだ、と呆れるが、ルードはますます笑みを深めた。
「はい、のんびりです。剣よりペンを持っていられるなんて平和でしょう?」
アレンディオは遠い目をして沈黙する。
だがこれも、すべては妻との時間を確保するため。無理やり納得して、再びペンを取った。
「では、どうか平和を享受してください。私は会議を片付けてきますから」
窓の外は、冷たい風が木々を揺らしている。
王女宮はすぐそこなのに、会えない状況が恨めしいとアレンディオは心の中で嘆いた。