妻は涙する
「ソアリス、また後で」
「はい」
応接室を出たアレンたちは、西館へと向かった。
私はドレスの確認があるので、伯爵家の衣装室へと移動する。
邸の中でも、私のそばにはユンさんがいる。せっかく来てくれたお兄様とお話しなくていいのか、と尋ねると「特に用はありませんので」とクールに返された。
クリス様はユンさんを含め三姉妹の兄であり、二十七歳という若さで侯爵家のご当主らしい。王太子殿下の補佐官を務める将来有望な方で、しかもあの美形。てっきりすでに結婚していると思ったら、未だ婚約者すらいないと聞いて驚いた。
「兄がどうというよりも、我が家は武門の家系で質素倹約がモットーなのです。良家のご令嬢は、侯爵家に嫁いだら贅沢な暮らしができると思っていますので、質素倹約を知ると見合いの時点で向こうからお断りされます」
なるほど。豪華絢爛なお邸で、何でも手に入る侯爵夫人の暮らしを思い描いていたら見事に裏切られるということか。
「女騎士を紹介しましょうか、と言ったんですが『怖い女は三人の妹だけで十分だ』なんて言うんですよ?贅沢なのは兄の方ですよね。それこそ理想を倹約しろと思います」
どんな三姉妹なのだろう。
私は疑問に思う。
「質素倹約を受け入れられる女性となれば、下位貴族から……ということも両親は考えたそうなのですが、あまり家格が違うと嫁いだ後に礼儀作法や教養で苦労することになりますし、何とも難しい状況です。そもそも兄自身が仕事が忙しいことを言い訳にして結婚を先延ばしにしてきましたから、妹としてはそろそろ本気で侯爵家のために腹を括ってもらいたいんですけれど」
「容姿や身分が揃っていても、結婚は大変なんですね」
12歳で政略結婚した私は、そういう悩みとはよくも悪くも無縁だ。
あと5年もすればエリオットの結婚話が浮上するのかもしれないけれど、こちらもまたまったく想像がつかない。
「ま、しょせん兄妹と言いましても別の人間ですから。自分でがんばってもらうしかありませんね」
「ですね」
2階の廊下を歩いて行くと、最奥から2つ目の扉が衣装室だ。
ダンスレッスンができてしまうような広々とした空間で、そこには煌びやかなドレスやワンピースなどの衣装がずらりと並んでいる。
ここには私の衣装だけでなく、亡き奥様の衣装もある。
お義父様が「ソアリスが気に入れば着てもらいたい」と言ってくれて、こうして着られる状態に整えられていた。
「お披露目のドレスをご覧になるのは初めてですよね?」
「はい。お義父様にお任せしていたので、私は何も」
本当なら一週間前には試着しなくてはいけないけれど、領地でのお披露目だったから確認するのがこんなに遅くなってしまった。後ろで紐を縛るタイプなら、少々のサイズ調整は可能だから……とは聞いている。
そう、少々。
ええ、少々ですよ?
「ふぅ」
「そう緊張なさらずに。太ったと申しましても、見た目でわかるほどではないですよ?」
ユンさんは励ましてくれるが、コルセットのサイズが違うのでやっぱり服は正直だ。
「素敵に着こなせるといいんだけれど」
苦笑いする私を見て、ユンさんは言った。
「私は朝に一度拝見いたしましたが、とても美しいドレスでした。きっと気に入られると思いますよ?」
「ふふっ、楽しみだわ」
衣装室のさらに奥の扉を開けると、そこはアイボリーの無地の壁紙が張られただけのフィッティングスペースがある。
お披露目用だから、きっと華やかな装飾がたくさんついたドレスなんだろうな。
結婚式はまだ先だけれど、お披露目はその前舞台のような感じがしてドキドキする。
――カチャ……。
「こちらです」
広い部屋の中央に、衣装を着たトルソーがあった。
それは私が想像していたどんなドレスとも違い、思わず息を呑んで立ちすくむ。
「これ……」
呆気にとられる、とはこういうことを言うんだろう。
ユンさんがそっと背中に手を添えてくれて、それでようやく我に返る。
きっと今、びっくりしすぎて間抜けな顔になっているに違いない。
「嘘……」
お披露目のためのドレスは、お義父様が用意してくれているはずだった。
けれど、目の前にあるのはどう見ても……。
「これは、アレンが?」
輝くような、純白のドレス。
シンプルなAラインのスカートは、真珠がたくさん散りばめられていてキラキラしていた。銀糸の刺繍が上品で、首元のレースは繊細すぎて着るのが怖くなるほど。
「はい。アレン様が、真白いドレスを着たソアリス様を見たいと」
ユンさんは穏やかな笑顔で頷いた。
「アレンが、これを」
デビュー用の派手でかわいらしいデザインではなく、貴婦人が好んで着るような大人っぽいデザインではあるけれど、どう見ても真っ白だ。
「どうか、お近くでご覧になってください」
ユンさんに促され、私は恐る恐るドレスに近づく。
雪のように白い生地は、見たこともないほど美しく、そっと触れると柔らかで心地いい肌触りだった。
「どうして」
唖然としてしまい、言葉らしい言葉が出てこない。
「なんで」
手に取って確かめると、ますます混乱した。
ユンさんはくすりと笑う。
「ニーナ様のデビュー用のドレスを見に、ドレスサロンへ行かれましたよね?あのとき、アレン様は妹君のドレスだけでなくソアリス様のドレスも依頼したそうなんです。アルノー様のお姉様に、純白のドレスを作って欲しいと」
「エフィーリア様に?」
ニーナのデビュー用衣装は、仮縫いまで完成した時点で一度ドレスサロンへ確認しに行った。
それは覚えている。
そういえば、帰り際にエフィーリア様とアレンが何か話していたような。
「まさかあのときに」
2人が密かに言葉を交わすのを見て、私はちょっとだけ嫉妬したんだっけ。
何か内緒で頼んだんだなとは思っていたけれど、あれからしばらく経ったのですっかり忘れていた。
「アレン様のお父様は、水色のドレスを用意していたそうなんです。けれどアレン様が、どうしても純白のドレスをソアリス様に着せてみたいと。ふふっ、本当にどこまでも奥様がお好きなようで……。それならば、お披露目の際にデビューを模してみてはどうかという話になったそうですよ」
こんな短期間で、これほど豪華なドレスを仕立てるのはどれほど大変だっただろう。
エフィーリア様は、とんでもない無理を聞いてくださったんだわ。
それにアレンだって、私に何も言わずにこんなドレスを贈ってくれるなんて。
うれしい気持ちと、今さら白いドレスなんて着てもいいのかという戸惑いが混ざり合い、胸がいっぱいになって喉が詰まった。
「アレンったら、何も教えてくれないんだから……」
目尻に涙が滲む。
息を大きく吸い込んでどうにか泣くのを堪えるけれど、喉がじわじわと痛んだ。
「アレン様には『一緒に奥様の喜ぶ顔を見ませんか』って提案したんですよ?でも、『余計なことだと思われたら』とか『俺の前だからといって無理に喜ばせるのも』とか言って……。おほほほ、ヘタレですわね」
ユンさんがうれしそうだ。
「余計なことだなんて、思うはずがないのに」
純白のドレスなんて、一生着ることはないんだと思っていた。
理想を思い描く前に、そんな余裕はないっていう現実がどんと目の前にあったから。
私の10代後半は、生活のためにお金を稼ぐことがすべてで、着飾ることは二の次だった。私服3着の没落令嬢に、デビューを夢見る暇はない。
だから、ニーナのデビューをこの目で見られただけで、それだけで十分だった。
自分には縁がなさすぎて、羨ましいという気持ちすら湧いてこなかったのに。
いざ自分のために用意された衣装を見ると、こんなにもうれしいなんて。
「素敵ね」
ありきたりな言葉をぽつりと漏らす。
「ソアリス様の白い肌と髪によく映える、美しい生地だと思います」
ぼんやりとドレスを眺めて、放心してしまった。いつまででも見ていられそうだわ。
「いいのかしら、今さらこんな素敵なドレスを着ても」
既婚者なのに。
お披露目で純白のドレスなんて着てもいいのかしら。
素直じゃない私は、ついそんな疑問を口にした。
「いいに決まっているじゃないですか!すでに招待客の皆さんには、そのように伝えてありますよ」
「何から何まで、もう」
手際のよさに、思わず笑ってしまった。
はらりと落ちる涙の雫。
ドレスに落とすわけにはいかないので、私は少し離れ、ユンさんに向かって言った。
「アレンにお礼が言いたいです。こんなに素晴らしい衣装を用意してもらって、本当に、うれしいから」
瞬きと共に落ちる涙を指で拭い、私は微笑む。
「はい、では西館へ参りましょうか」
ユンさんの提案に、私は静かに首を振る。
「これを着たところを、アレンに一番に見てもらいたいの。準備にはしばらくかかるけれど、アレンがここに来られる時間を聞いてきてくれないかしら?」
今からリルティアにメイクをしてもらって、着付けをしてもらったら一時間はかかる。
けれど、どうしてもアレンに一番に見せたかった。
宰相様たちと話があると言っていたし、ジェイデン様のこともあるからきっと忙しい。
それはわかっているけれど、アレンにお礼が言いたくなってしまった。
ユンさんは「かしこまりました」と言い、すぐにアレンの時間を確保するために部屋を出る。
控えていたリルティアや使用人たちは、すでにメイク道具やパニエ、装飾品などを手にしてやる気満々だ。
「奥様、急いで仕上げますよ!」
「はい。よろしくお願いします」
うん、手にしているコルセットが見るからに細いのは恐ろしいけれど、ここはもう覚悟を決めるしかない。
ワンピースを脱ぎ、肌に保湿液や香油を擦りこまれ、あっという間に着替えが始まる。
「奥様!いち、にー、さん、っで息を止めてくださいね!」
「は、はい!」
背後に立ち、コルセットの紐を手にしたリルティアが気合を入れる。
私はゴクリと唾を飲み込み、覚悟を決めた。
「いち、にー、さん!」
「ひぅっ!?」
壁に手を付き、必死で締め付けに耐える私。
一瞬、意識が白くなり、気づいたときにはがっちりとコルセットが装着されていた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
浅い呼吸を繰り返すだけで、大きく息が吸えない。
生理現象なのか、あまりの息苦しさに目からポロポロと涙が零れる。
これ、大丈夫?この状態で何時間もパーティーに参加できる?
うれしいのに太ってしまった己が情けなくて、さらに追加で涙がこぼれ落ちる。
「奥様、その、幸せ太りって、太っても幸せですから」
リルティアが苦笑いしつつ、謎のフォローをしてくれる。
「そ、そうね……。幸せだから、仕方ないわよね」
「はい!」
私は、ぎこちない動きで振り返った。
リルティアは満面笑みを浮かべている。
「ばっちりです!完璧なスタイルですよ!」
満足げなリルティアには悪いけれど、とてもばっちりな状態ではない。
余分なお肉が胸に寄せられて、スタイルがよく見えることはうれしいけれど、今にも倒れそうなくらい苦しい。
一口でも何か食べたら、絶対にその場で吐くと思う。
「さぁ!お着替えとメイクはまだ続きますよ!がんばってください!」
「は、はい……」
アレンが来るまで、私と使用人たちの奮闘は続いた。