Ⅰ.(8)みなとみらいデート(*)
※2018.9.25 すみません、デートの舞台と描写変えました。
※2018.10.7 観覧車イラストも追加しました。
初ライヴを無事終えた後から、奏汰がベースを抱える時間は長くなった。
教わった基礎練習でウォーミングアップしてから曲に入ると、指の動きが違う。単調な音の羅列で、面白いものではなかったが、欠かせないと身に染みていた。
単調な練習中に、ふと彼女のことを考えていた。
ライヴが終わってもそこで演奏したバラードを弾いていると、ますます彼女のこと、特に、途切れた国際電話のことを思い出し、切なくなってくる。
それが、音にも現れてる?
あっさり、さわやかではない、『ねばる』って、もしかしたら、こういうこと?
大事な人を想うように、音を大事にしながら弦を弾く━━そう弾きたい。
音の入り方、切り方も、無意識ではいられない。
ミュージシャンは常に恋をしていた方がいいとは、こういうことなのか?
恋愛してると楽しいから演奏も楽しくなる、それだけじゃなく、表現にもかかわることなのか。
少しだけ、大人たちの言っていたことが理解出来た気になった。
「ただいまー。みんな、ご苦労様!」
明るい女性の声━━待ち焦がれていた主の声に、奏汰も従業員も振り返った。
蓮華は、仕事用のシックな服装で現れた。
従業員たちは、口々に「お帰りなさい!」と、嬉しそうに出迎えた。
「いいんですか? お疲れでしょう? 今日までお休みになっても良かったのに」
「ううん、いいの。どうせ明日定休日なんだから大丈夫よ」
気遣うバーテンダーの優に、蓮華は普段の笑顔で手を振ってみせる。
笑顔も、表情も、全身から現れる元気な様子も、旅行前と変わらない彼女に、奏汰はホッとした。
蓮華が誰かを探しているように店内を見回していると、初老の男性客たちから、「帰ってきたばかりなの? 元気だなぁ!」と、さっそく声がかかる。
「せっかくいらして下さったお客様に、一刻も早くお会いしたくて」
蓮華は彼らの間に座ると、満面の笑みで応えた。
その一角が一気に華やぎ、バーボンが追加された。
にこやかに話に相槌を打ちながら、客のほろ酔い具合によって濃さを調節した琥珀色のオン・ザ・ロックを新しく作る。交互に飲むための水も添えて。
奥まったテーブルのグラスを片付けていて、挨拶をしそびれた奏汰も、早く蓮華と話したかったが、仕事中は諦めるしかなさそうだった。
閉店時には、蓮華を迎えるちょっとしたパーティーが従業員とだけで行われ、土産と、蓮華の土産話に花が咲いた。
本場のシンガポール・スリングは、赤と透明のグラデーションではなく、混ぜてあったと言うと、優もシンガポールには学生時代に行き、本場のシンガポール・スリングを飲んだと言う。
シンガポールに行く前に、蓮華も優も『ラッフルズホテル』の映画をレンタルで見て、小説も読んだと話すと、「研究熱心ですね」と従業員たちが感心していた。
パーティーがお開きになると、奏汰のカクテル作りの課題を、優と蓮華で審査する。
優の「お世辞を使う」アドバイスが功を奏したのか、ブランデー、チョコレート・フレーバーのクレーム・ド・カカオ、フレッシュクリームを使った、イギリス国王妃アレキサンドラに献上されたと言われる『アレキサンダー』を、カクテルグラスごとプレゼントすると、蓮華は一際嬉しそうだ。
試飲後、「シェイクも充分されてるね」と優が言い、蓮華も頷いて「男子は、こういうの上手に作るわよね」と、二人の評価は合格で一致した。
これで、奏汰も、ヘルプとして、正式にカウンター内に入ることが許された。
まずは、ひとつ、緊張が解かれた。
優が帰りがけに、奏汰の出演したライヴの入ったレコーダーを、カウンターに置いていった。
「これ聴くの楽しみにしてたんだから!」
翌日ネットに上げた動画は、彼女も旅先で見たと言う。
レコーダーから店のスピーカーに流し、蓮華はカウンターで、指でリズムを刻みながら聴いていた。
奏汰は、恥ずかしさと、どんなダメ出しをされるか少し怖かったのを紛らわすため、カウンターから離れたテーブルを拭いていた。
「ベース、良くなってきたじゃない」
上機嫌な蓮華の声に、パッと顔を上げる。
「ジャズのノリが、ちゃんと出てるわよ」
「ホントですか!? よっしゃ!」
ガッツポーズを取る。
「今度は、もっとねばれるといいわね」
「ですね! 今聴くと、自分でもそう思います。不思議なんですけど、ライヴの後の方が上達してる気がするんです。まだ二日しか経ってないのに。『ねばり』も少しわかった気がして」
「感じが掴めたの? 良かったね! ライヴの後って、確かに上手くなってるのよね。終わって、どっと疲れるっていうより、もっと上手くなりたいって気持ちになるわよね!」
「はい。ライヴが終わっても同じ曲練習してました。でも、『ねばり』がわかったのは、それだけじゃなくて……」
思い切ったように奏汰が、蓮華に向き直った。
「ライヴの後に電話で話した時、俺が言いかけたことって、聞こえました?」
蓮華は、まばたきをした。
「電話……ああ、途中で電池切れちゃったのよね。ごめん、ごめん! 何か話の途中だったの?」
切られたわけじゃなかったと知って、大きく安堵した。
「明日の定休日、何か予定って、あります?」
「ううん。旅行後ゆっくり休もうと思ってたから」
「あ、すいません……」
そうだよな。旅行から帰ってきて疲れてるだろうし。
相手の都合を考えなかったことが、すぐに後悔された。
「いいわよ。なあに? 言ってみて」
彼女が、いやいや訊いているようには見えない。
言ってもいいのかも知れない。
思い切って、口を開く━━
「明日、良かったら、一緒に出かけませんか?」
ふんわりとしたロングの毛先が、胸元で大きくカールされ、揺れている。髪を下ろしているだけでも、蓮華の印象は仕事の時と違う。
膝で裾が波打つワンピース、太めのヒールのサンダルに、装飾品は少ない。ナチュラルなメイクでより一層若く、せいぜい奏汰の二、三歳上にしか見えない。
雲の少ない青空の下、海と遊園地を見渡しながら、横浜みなと博物館を見た後、蓮華の希望で目の前の帆船日本丸を見学する。
「子供から社会人を対象とした海洋教室も開催されてて、船の中に宿泊することも出来るんですってね。甲板みがき、ロープの結び方を教わったり、カッターという訓練用ボートを漕ぐ練習などもあり、他の施設では出来ない体験をすることが出来るって聞いたことがあるわ」
帆が張られず畳まれていたのは残念に思ったが、舵輪という船特有の丸い操縦桿も、その下にある巨大なコンパスには、奏汰もわくわくしてくる。
「船の中って、狭いのね。船員さんたちの二段ベッドも狭くて、背の高い人とか大柄な人には窮屈で大変そう」
「だよね。あれじゃ、寝返りも打てないよな」
真鍮があしらわれた階段、艶のある木の階段など、レトロな洋館を思わせる内装が施された船内には、白いロープで作った船が壁にかけられ、蓮華も奏汰も感心して眺めていた。
調理室には大型の鍋やオーブンが見える。長机と長いベンチの並ぶ広い教室があり、黒板と、アップライトのピアノもあった。
赤い絨毯の敷かれた廊下を通ると高級感のある船長室、風呂、サロン、船医室と続いていく。
船を堪能した後は、メモリアルパークの緑地を通り、ショッピングモールでお茶にする。
今組んでいるバンドや友人の話、ライヴで演奏オヤジバンドでの練習風景など話すと、彼女は興味津々の反応をする。
くるくるとよく喋る瞳と、度々こぼれる自然な笑顔は、仕事から離れた素の姿だろう。
夕方、長蛇の列だった観覧車に乗る。
シースルーのゴンドラから見える青い海の上を飾るきらびやかなみなとみらい のネオンは徐々に下方へ小さくなり、遠くに残るオレンジ色の空を見ながら、紫色の空に近付いていく。
待った甲斐があったと思わせてくれるほどの、幻想的な景色だった。
「綺麗!」と言いながら、スマートフォンで蓮華が写真を撮る。
奏汰も、数枚撮ってから、向かいに座る蓮華に、なるべくさらっとを心がけて切り出した。
「蓮華さんは、誰か付き合ってる人とか、いるんですか?」
デート中は『ママ』とは呼ばず、ずっと『蓮華さん』と呼んでいる。
自然に訊けたと、奏汰は思った。
景色を楽しそうに見下ろしていた蓮華が、視線を奏汰へ向けた。
「いないって答えたら、どうするの?」
しまった! 単純過ぎたか!
頬がかあっと熱くなるが、にっこり微笑む彼女を見つめるうち、取り繕うのを諦めたように笑った。
「蓮華さんには敵わないな。全部わかっちゃうんですね」
「観念した?」
蓮華が笑う。
「俺が、なんで今日誘ったのかも、全部お見通しなんだ?」
「さあ、それは聞いてみないとわからないわ。あなたの口から」
「いや、もう絶対わかってるでしょ?」
小首をかしげて微笑む彼女を、ちょっとだけ憎たらしく思う。
「じゃあ、改めて訊くけど、どうして誘ってくれたの? 雇い主で、きみよりずっと年上の、あたしを」
「……ずっと?」
「そう。奏汰くんの十コ上」
「そんなに!?」
信じられない思いで、蓮華を見つめ直す。
どう見ても、そこまで年上には見えない。
「あたしは、どうしたら気に入られるか知っていて振る舞っているのかも? からかってるのかも知れない。きみは、そんな気にさせられてるだけかも知れないんだよ」
茫然としている彼に構わず、静かな笑顔は続けた。
「だから、慎重にね、考えてから、言おうとしていたことを、言うか言わないか決めた方がいいわ。今なら何も聞かなかったことにするから」
見透かされている。
この人には、なんとなくとか、雰囲気だとかは通用しない?
覚悟を決めないと、カウンターを食らうハメに!?
おかげで、何かが吹っ切れた気もする。
少しの沈黙から、奏汰が顔を上げた。
「年がわかったからって、引こうとは思いません。プロミュージシャン目指してるバイトの俺なんか、取るに足りない相手だとは思いますが、……俺は、蓮華さんが好きです」
蓮華が目を見張った。
「若い子は、大抵、あたしの年言ったら引くわよ?」
「年なんか関係ないです。あなたがいいんです」
決め台詞のつもりだった。
だが、相手は頬をポッと染めるわけではなく、面白そうな目をして「ふうん」と小さく笑った。
「引くに引けなくなったんでしょー?」
「そっ、そんなこと、ありませんって!」
ムキになってから、奏汰は少し冷静さを取り戻した。
なんだか、自分ばかりが焦らされているのも癪に思えて来た。
「蓮華さんこそ、俺が引かないのは、誤算だったんじゃないですか?」
「そうねぇ、気の迷いだと思ったんだけど」
「そんなんじゃないってば」
立ち上がり、一歩で蓮華の隣に移ると、透明なゴンドラが大きく揺れた。
「ちょっと! 危ないじゃな……!」
言いかけた蓮華の肩を、守るように抱きしめた。
行き過ぎた行動だとはわかっている。
彼女の予想外なことをしてやりたかった。
だが、自分も、予想外の感覚に陥り、戸惑ってもいた。
思いの外、心地良い。
離れられない。
「旅行中、ずっと会いたかった」
素直な感情が、口から滑り出す。
蓮華の腕が、やさしく背に回された。
「あたしもよ」
そんな囁きを聞いてしまったら、余計に抱きしめずにいられなくなる。
激しく鳴る鼓動に気付かれても、もう構わなかった。
「いいんですか? 俺が、蓮華さんを好きでも」
「ダメなら、そもそも今日ここに来てないわ。来て良かった。すごく楽しかったから」
「そんなこと言われたら、……真に受けます」
それに応えるように、蓮華の腕が、奏汰の首に絡められた。
瞳が閉じられると同時に、艶のある、デザートのように甘く柔らかそうな唇に、引き寄せられていった。