Ⅶ.(3)鍵
その日、『J moon』に来ていた奏汰の兄潤を、蓮華が見送った。扉を出るとすぐに、潤が口を開く。
「弟が本当にひどいことを……奏汰のことは、謝っても謝り切れません」
「ああ、そんなのいいのよ。あたしたちの問題なんだし、潤くんが謝ることなんてないのよ」
「そんなわけにはいきません。僕は、奏汰の保険でいいって言いましたよね? いつでも、僕の胸を貸しますから!」
時々そんなことを言っては、潤は蓮華を抱きしめていた。
「ありがとう、潤くん。でも、あたしは大丈夫だから」
そう微笑み、蓮華が潤の胸から離れるまでの時間は、回を増すごとに僅かに延びていたかも知れない。
明日香の結婚パーティーからも月日は経ち、奏汰がニューヨークに行ってから一年が経っていた。
翔が、奏汰とレコーディングを済ませてから初めて『J moon』に顔を見せた。
翔の存在は、奏汰の存在をも同時に思い起こさせる。
そんな翔を、懐かしそうな笑顔で、蓮華は出迎えた。
菜緒とのことを、改めて翔から聞く。
奏汰とニューヨークに立つ日が目前に迫っていたという時、菜緒が盲腸で入院した。両親も兄弟もいない彼女には、翔が付き添っていた。
翔の重荷にはなりたくないからと、菜緒はニューヨーク行きを勧めるが、翔が自分で判断して行かないことにした。
「バカ! 私のためにNYに行かないなんて、翔がそんなバカだったなんて思わなかった!」
「バカは、そっちだろ! この俺が、お前といてやるって言ってんだ!」
「いてもらわなくたって、いいわよ! とっととNYに行きなさいよ! 私のために日本に残って欲しいなんて、誰がいつ頼んだのよ!」
一瞬、怯んだ翔だが、決心は変わらない。
「俺だって、よく考えた結果なんだ。お前にそんなこと言われたくらいで、気持ちが変わるかよ!」
「わかってないのよ、翔は! まだ若いから、チャンスなんていくらでもあるとでも思ってるんでしょう? 甘いわよ! 今しかないのよ!」
「チャンスなんて、これからいくらでも掴んでやる!」
「だから、今私に付き合ってたら、そのチャンスまで……!」
「今まで一緒に住んでた義理なんかじゃない。俺が自分で決めたって何度も言ってんだろ。俺は今、俺の意志でお前といたいんだよ!」
普段は逆らうことのない菜緒が珍しく怒り、大ゲンカにもなったが、翔は、はっきりと宣言した。
「あきらめたわけじゃない。菜緒もチャンスも必ず手に入れる!」
菜緒は唖然とした後、嗚咽しながら顔を覆った。
「私は、蓮華さんのようにあなたを送り出すことが出来なかった……。重荷になりたくなかったのに……ごめんなさい……!」
「謝ることじゃない。菜緒はあのねえちゃんとは違う。俺も奏汰とは違う。違うなら、違うやり方で伸し上がればいいだけだ。NYには行こうと思えばいつでも行ける、俺の努力次第で。だから、もう泣くな」
翔は、菜緒の頭を自分の胸に抱えた。
「━━ってな」
へへっと照れ隠しに笑う翔に、蓮華は感心するように微笑んだ。
「やさしいじゃない、翔くん。菜緒さんのこと、今は大事にしてるのね?」
「ああ。ちゃんと籍も入れたしな」
「おめでとう! 良かった……! ちゃんと菜緒さんのこと考えてくれて……!」
心の底から安心したように、蓮華の瞳は潤んでいた。
それに菜緒の姿を重ねたように、翔は、恥ずかしそうな、なんとも言えない表情で見ていた。
「菜緒の手術が無事終わってしばらくしてからレコーディングに行ったら、肝心なベニーのヤツが旅行中でさ、レコーディングも延びたから、なんとか間に合ったんだぜ」
「そんなことがあったの? 大変だったわね!」
蓮華が目を丸くした。
「レコーディングで一番緊張したのが、楽譜も何もなくて、イメージだけで全員が即興で演奏したヤツかなぁ。一番緊張したけど、一番面白かったな! その直後、俺も奏汰もぐったりだったけどな」
「すごい! そんなことが出来たなんて、本物のアーティストだわ!」
「それ以来、CDもそこそこ売れて、奏汰のヤツ、ベニーのバンドとしてヴィレッジ・ヴァンガードとブルーノートでも演奏したって」
「えっ! すごいっ! とうとうブルーノートに! すぐそこの赤レンガ倉庫のモーションブルー横浜と六本木のブルーノートの本場でライヴを……!」
「俺はレコーディングだけだったからそこまで長く滞在出来なかったけど、奏汰が言うには、今回はベニーの力でそういう体験が出来たけど、いずれは自分たちの力で一緒にNYのブルーノートで演奏しようぜ、ってな」
翔が活き活きと話すのを、蓮華は懐かしそうな表情になり、次第に煌めいた瞳は尊敬の眼差しに変わっていった。
閉店が近付き、客は翔だけになった。
その前から隣に座る蓮華を、翔はちらっと見た。
「奏汰のこと、訊かないんだな」
「レコーディングやライヴのことなら、さっき聞かせてもらったじゃない?」
「プライベートなこととか訊いてこないんだな、ってことだよ」
「別に、あたしは知らなくていいし」
「蓮華さんは、今誰かいないの? 特定のヤツじゃなくてもさ」
「行きずりの人と? そんな人いるわけないでしょ」
蓮華が呆れて笑った。
「だってさ、カラダは淋しがってるんじゃない? 俺が慰めてやろうか?」
「新婚さんが何を言ってるの。冗談でもだめでしょう、そんなこと言ったら! 生憎、あたしはそんなにおヒマじゃないのよ。ここでやるライヴの打ち合わせや新メニュー考えたりで忙しいんだから」
笑っている翔に、蓮華が言い聞かせた。
「それにね、キミに慰めてもらうくらいなら、奏汰くんのお兄さんに慰めてもらうから」
翔が目を見開いた。
「奏汰のヤツは、自分の兄貴にだけは譲りたくなさそうだったけど?」
「奏汰くんに似てるから、たまにだし、あたしも、まあいいかって甘えさせてもらっちゃって」
「そんなことで一般人を巻き込むなよ。いたいけな青年を弄ぶ魔性の女みたいなのは、蓮華さんには似合わないぜ。なあ、マジで俺が慰めてやるから」
蓮華は両手を腰に当てた。
「も~、なんで皆あたしのこと淋しい女扱いするのよ? あたしはね、奏汰くんと別れたのを、そこまで淋しく思ってはいないわよ。そんなに彼が頑張ってるんだって聞いたら、こんなに嬉しいことはないわ!」
「……ま、そんだけ元気がありゃ、大丈夫か」
「一応、お礼を言っておくわ。ありがと、翔くん、心配してくれて。でも、要らぬ心配だからね!」
強調して言うと、蓮華は笑ってみせた。
*
翔が帰っていき、片付け終わった従業員も帰った後、蓮華がカウンターで一人でウィスキーのロックを傾けていると、私服に着替えた優と目が合った。
「僕も一杯飲んでいいかな?」
「どうぞ。ちょうど優ちゃんと飲みたいと思ってたとこよ」
「偶然だね。僕もだよ」
仕事の後、蓮華が一人で一杯だけ、カクテルではなくウィスキーを飲んでいることが多くなったのを、優は知っていた。
奏汰がニューヨークに旅立ってからだ。
優自身が一人でウィスキーを飲むのは、味を好んで飲むこともあったが、自分ではどうしようもない想いに駆られた時もあった。普段気軽に飲むジンではなく、長い年月をかけて熟成された味わい深さを、ゆっくりと感じながら、黙って自分の想いに向き合う。
ウィスキーを飲む時の蓮華は、そんな時の自分と重なって見える。
あえて声はかけないで来たが、その日は違った。
蓮華の反応も、優を受け入れていた。
「さっき、翔くんに口説かれてたね」
他愛ない話の後で、優が静かに切り出した。
「ああ、冗談でね」
大して気に留めてはいないように、蓮華は返事をしていた。
「この間は、潤くんと抱き合ってた」
「知ってたの?」
「潤くん本人が言ってたよ。時々ハグしてるって」
「あたしは別に誘ってなんかいないわよ。あたしが淋しがってると思って、勝手にハグしてきたのよ。まあ、彼なりの思いやりなんだろうけど」
蓮華が困ったように笑った。
「弟のことで蓮ちゃんを傷付けたって、気にしてるみたいだね。でも、潤くんを好きなら別だけど、彼を奏汰くんに見立てて、疑似恋愛に浸るのはどうかと思う」
「わかってるわ。気持ちがないのに、潤くんに変に期待持たせるのも良くないし」
「それだけじゃない」
優は、改めて、蓮華を見つめた。
「僕にとっても、良くない」
蓮華が瞬きをした。
どういう意味か問うように、すぐ隣にいる優を見上げる。
「奏汰くんだから良かったんだよ。彼と蓮ちゃんなら似合ってた。だけど、手頃な人で間に合わせるなんて、蓮ちゃんらしくない。蓮ちゃんらしくないのは、いやなんだ。翔くんに口説かれてるのを見てるだけでも……」
「翔くんのは冗談に決まってるじゃない」
「冗談でも、彼は、奏汰くんと一番近い」
「……優ちゃん……?」
「ごめん。……酔ってるかも知れないな」
「優ちゃんが酔うなんて、珍しいわね」
「酔ってるなら、勢いで言っても構わないかな?」
すぐ近くにある優の顔を、蓮華は見つめた。
「僕が、一回りも下の翔くんに妬くのは、おかしいかな?」
蓮華の瞳が動揺したように揺れるのを確認してから、優の唇が続けて動いた。
「そろそろ、友達、越えてみる?」




