Ⅰ.(4)解放(*)
ドラムなしで、二人で同じテンポで弾く━━それだけでも、精一杯だ。
幸いなことに、琳都のリズムは狂わず、正確だった。
始め、ジャズのベースラインがわからなかった奏汰に、ジャズオルガンの下鍵盤に低音を加え、琳都がベースパターンを弾いてみせた。
他の楽器とセッションをする時でベーシストが不在の場合は、ジャズオルガンの下鍵盤を弾く左手がベースの役割を果たす。そんな共通点があったことも初めて知ると、ジャズオルガンという楽器が親戚のようにも思えてくる。
奏汰が、なんとなくベースラインの感覚を掴んだ頃、何気なくセッションがスタートしていた。
遠慮しながらの二人の演奏であったが、続けるほど、少しずつ自分を見せていく。
言葉はなくても、相手の音を気にかけながら弾くだけでも伝わる、少しずつ、自分にも、自分の音にも、相手が興味を持ち始めたことが。
相手の音からは、秘められた芯の強さのようなものが感じられる。クールな表情の下に隠れた、おそらく幼い頃からある純粋な「音楽好きな一面」が。
琳都の姉蓮華から話に聞いていたように、人と合わせたことのない緊張感を差し引いたとしても、正確過ぎるリズムからも、彼の演奏は固いかも知れない、と奏汰は思った。
それが、もったいないことに、純粋な音楽好きの一面を覆っている、とも。
ジャズオルガンには二段の鍵盤と足鍵盤がある。右手でメロディー、伴奏にあたる和音を刻むバッキングは左手、足はベースパートをこなす。一台でオーケストラを表現出来るピアノと同じく、一台でも演奏出来てしまう楽器であり、他人に合わせることなく一人でも楽しめてしまう。
反対に、ベースは、他の楽器があってこそ本領を発揮する。
大抵はドラムと同じく、そのバックでの役割、通称『リズム隊』となる。
奏汰の親友雅人が通う大学の軽音楽部は人数が多く、それぞれのバンドに別れて活動していた。大学生ではない奏汰を、ベーシストが見つかるまでという口実で、雅人が声をかけた。
ベース・テクニックを上げようとあがいていると、バンドのメンバーから、「ベースなんだから目立つな」と言われたことがあった。
カッコいいと思って入れた『合いの手』と呼ばれる動きのあるフレーズも、タイミングがわからなくなるから入れないで欲しいとも言われた。
ドラムの雅人とは高校から一緒に組んでいて気が合い、演奏でも息が合っていたが、ボーカルとギターが、常に奏汰に文句を言い、抑えこもうとする。
入れてもらったという遠慮もあり、奏汰は、彼らの言われた通りに、定番のベース・パターンでリズムを刻み、音を鳴らすだけになっていた。
合わせるのは楽しい……はずだった。
雅人のドラムと合わせるのは楽しい。
けれど、今のバンドでは、自分を抑えなくてはならない。
ベースというのは、そんな宿命を背負った楽器なのか。
「そんなことはない!」と、店で聴いた『ワルツ・フォー・デビー』が教えてくれた。
今までにない衝撃だった。
自由に演奏して、冒険して、主張していいと。あのベースに救われた。
抑えようとする彼らより、素っ気ない琳都との方が、よほど気が楽に思えてきていた。
琳都の淡々とした真面目なジャズオルガンに、奏汰は、ちょっとだけ仕掛けてみることにした。
少しだけ、オルガンのフレーズの隙間に、『合いの手』を入れてみたのだった。
琳都は、まったくペースを変えず、淡々と弾いている。
ありがたかった。
『合いの手』を増やしていく奏汰に、さすがに気付いたのか、琳都がちらっと視線を向けた。
アドリブで何かを入れるわけでもなく、冷静な演奏を続ける琳都に安心したように、奏汰は、自分を勝手に解放していった。
演奏に代わり映えのなかった琳都にも、少しだけ微笑みが加わっていたことに、奏汰は気付かないでいた。
「なんとなく、ジャズのノリになってたわね」
いつの間にか従業員は全員帰り、蓮華だけが残っていたことに、二人は気が付いた。
「ジャズのノリ……ですか?」
「奏汰くん、ジャズ弾いたことないって言ってたよね? ジャズは独自のノリがあって、楽譜に忠実に弾くだけじゃつまらないの。琳都も、あともうちょっとノれるといいんだけどね」
「そうですか? 俺、琳都の演奏で、なんとなくドラムが聴こえた気がするんです」
琳都も奏汰に注目した。初めて、彼に目を留めていた。
「だから、こんな感じかなーって、ベースも少し弾んでみただけで」
琳都よりも、蓮華の表情が輝いていく。
「やっぱり? 良かったじゃない、琳都! 奏汰くんには伝わってくれてたみたいで!」
奏汰のすぐ近くで、蓮華が見上げた。
「ありがとうね! 奏汰くんが琳都と合わせてくれて良かったわ!」
「あ、いいえ、そんな……俺の方こそ、楽しかったです。ありがとうございました」
感謝を全身に現している蓮華には、それだけ言うのが精一杯だった。
以来、奏汰は、蓮華の勧めで、彼女が昔ボーカルやジャズオルガンを習っていたジャズの恩師である橘に、本格的にベースを習うことになった。『J moon』の常連である年齢層の高いジャズバンドにも、紹介された。
「学生とか素人にも親切な人たちだから、まずは、そういうところと一緒にライヴ経験させてもらうといいと思うの」
蓮華が、そう説明した。
「何から何まですみません。ありがとうございます!」
頬を紅潮させ、興奮気味に頭を下げる奏汰を見て、蓮華が笑った。
「琳都のお礼ってわけじゃないの。ただ、琳都とのセッション見てて、奏汰くん、もっと上手くなるんじゃないかと思って。本当に上手くなるかは、もちろん、きみ次第よ」
「はい! 頑張ります!」
拳を握ってみせる奏汰に、蓮華の表情は、これまで以上に柔らかい。
心なしか、奏汰には、少し、蓮華との距離が縮まった気がした。
だが、すぐに、そんなことは有り得ないと打ち消した。
奏汰は定期的に吉祥寺のスタジオまで通うことになった。
蓮華の恩師である橘は、親しみやすさが感じられる。四〇代ほどでノリが良く若く見えた。
橘のスタジオでは、さっそくコテコテのジャズから新しく斬新なものまで、レコードを散々聴かされる。
知らなかったベースの動きに、耳も心も奪われっぱなしだった。
「今のところ、もう一回聴かせてください」と、奏汰の方から何度か頼むと、橘はウッドベースを抱え、解説したくてたまらない様子で、弾きながら解説した。
帰り道でも、奏汰の頭の中では、聴いていた曲が流れていた。
付き添った蓮華に「いつかアメリカで、本場のジャズを聴いてみたいなぁ」と呟くと、彼女は直ちに賛同した。
「奏汰くんの年なら、向こうで本格的にジャズを学んで来ることも出来るし、何でも挑戦してみたら? 応援するから!」
嬉しかった。
自分にだけかけられた言葉であったなら、もっと嬉しかった。
バーで働く従業員たちの中にも、彼と同じように、プロミュージシャンになることを夢見ている者はいる。
きっと、彼女は、そんな音楽青年たちのことも同じように励まし、言葉をかけるのだろう。
嬉しくても、自分だけが特別ではないのだと、気を引き締めた。
数週間後、蓮華が店を休んだ。