Ⅴ.(1)ジャズ・ヴィオラ(*)
奏汰が、バー『J moon』に来てから、一年ほどが経つ。
琳都は就職し、雅人は就職の準備にとりかかっていて、バンド『ワイルド・キャッツ』としては活動を休止していたが、翔と奏汰の二人は練習を続けていた。
ジャズやボサノヴァ、またはジャンルを問わず自由に演奏した、翔のギターと奏汰のベースのデュオは、初期の頃に比べ、息も合い、技術的にも磨きがかかっていった。
一定の水準に達したと判断した蓮華は、演奏データを店のBGMで流し、店を利用する業界人に聴かせることもあった。
翔と奏汰も、ネットで動画を配信していた。
そこそこ再生されてはいるが、一般的に好まれるというよりもマニアックなため、流行るわけではなかった。
それでも、二人は構わなかった。今は、自分たちの思うものを貫くのみと思っていた。
「おい」
不機嫌な顔の翔が、不機嫌な声を出す。
「最近、お前と一緒にいることが多いからって、世間では、こんな誤解されて迷惑なんだよっ!」
リビングで仁王立ちになっている翔が、奏汰にスマートフォンの画面を、押し付けるようにして見せた。
奏汰と翔の隠し撮り写真があり、SNSの片隅で密かに出回っているようだった。
「一部の女子の間で、こんなやり取りまで!」
翔が、奏汰を壁に追い詰めている、所謂『壁ドン』している場面であった。
「これ、どう見ても合成だろ?」
呆れて、奏汰が、画面越しに翔を見た。
「んなこたぁ、俺だってわかってるんだよっ! それと、これも!」
次に翔が見せた画面にあったのは、二人のあやしいやり取りを、イラストで描いたものだった。
「へー、このイラスト、良く描けてるなぁ! 俺たちって、少女漫画風なイラストだと、こんな感じになるんだ?」
奏汰が、ゲラゲラ笑い出した。
「笑い事じゃねぇ!」イライラと、翔が声を荒げる。
「これ、蓮華に送ってみるか。お前も菜緒さんに送ってみろよ」
「やめろ、バカ!」
「みんな勝手に面白がってるだけだろ? そんなの気にしなくても」
「いいや、大迷惑だ!」
翔が、凄んでみせる。
「俺の『クールなイケメン』イメージが崩壊すんだろ!」
「その方がいいんじゃないか?」
「はあ!?」
翔は凄みを利かせ、笑い続ける奏汰に念を押すように何度も言った。
「全部、お前のせいだからなーっ!」
ジャズ・ヴィオリスト香月ゆかり━━
バイオリンよりも一回り大きいヴィオラで、パワフル、エネルギッシュな演奏が人気であった。
バラードでは歌うように、或は泣くように、情緒のある繊細な表現もしてみせる。
彼女の魅力は、演奏だけではなかった。
「翔、見ろよ! 香月ゆかりだって!」
奏汰が見せたスマートフォンの画像には、新宿のバーが映っている。
「オーディションに通った若手ミュージシャンと、セッションしてくれるんだって! 感性の合う人は、ライヴ活動も一緒にやる可能性もあるって書いてある!」
翔も身を乗り出し、画面を見つめる。
「セッションだけでも出られたら嬉しいなぁ! 蓮華も喜ぶし!」
「これまで探してたのとは、格が違うな!」
いつものように、浮かれ気味の奏汰に嫌味を言うでもなく、翔が珍しく、すんなりと同調した。
現時点での、二人の最高技術を盛り込んだものを、オーディションの事前デモテープ審査にぶつけることにし、二人で試行錯誤する日々が続いた。
デモ演奏審査に通った二人は、会場となる新宿のライヴ・バーを訪れると、十数人の奏者が詰めかけていた。
ゆかりの主義で、演奏データでは、あまりにひどいもの以外は一次審査を通し、後は、実際のセッションで決めるため、一週間ほどに渡る審査の、この日が最終日であった。
ゆかりの兄である香月孝司がマネージャーを務め、オーディション参加者たちに説明を始めた。
その間、ドラマーはスネアドラムの調子を整え、ピアニストは指慣らしに弾き始める。
受験者は、ギター、ベースの他、サックス等の管楽器だった。
呼ばれた順に楽器を持ち、演奏スペースに入る。
一曲は、それぞれ自分たちのデモテープの中から選んで演奏し、二曲目は、数曲のCメロ譜(メロディーとコードネームのみの譜面)から選び、実際に、ドラム、ピアノとゆかり本人とセッションをする。
まずは、順番と組み合わせが発表される。
コンビを組んでいた奏汰と翔は、デモテープの中から選択する一曲は二人同時に、二曲目のCメロ譜は、それぞれ単独でセッションに参加するよう指示される。
一番のサックス奏者が準備をしていると、ドアが開いた。
黒いタイトなワンピースに、黒いヒール、赤茶色の毛先が大きく巻かれたロングヘアが、ふわりとなびく。
暗めの照明の中で、一輪の花が咲いたようだった。
颯爽と現れたのは、奏汰と翔が動画で見たイメージ通りの、美しく、華のある人物━━香月ゆかりその人だった。
ゆかりは、二人が思ったよりも小柄で華奢であったが、堂々と自信に満ちあふれていて、小柄さを感じさせなかった。
「お待たせ。準備はもう出来てる? OK! じゃ、始めましょうか!」
カラッとした口振りで、朗らかに笑うと、ケースからヴィオラを取り出し、ピアノの音に合わせてチューニングをする。
さっそくセッションが始まった。
見る者を惹き付ける。
これが、プロの演奏! プロの余裕!
食い入るように、奏汰と翔、受験者たちは、ゆかりの演奏を観ていた。
「あ、ごめんなさい。早く合わせてみたくて!」
演奏が終わると、ゆかりが笑って舌を出した。
「まったく、ゆかぽん、セッション好きだからなぁ!」
むっつり顔で叩いていたドラムの男が、そう言って破顔した。ピアニストも笑い、ゆかりの兄も笑っている。
「申し遅れました、香月ゆかりです。『ゆかり』って呼んでね。『香月さん』だと、兄のことになるから気を付けて」
笑いが起こり、親しみやすい口調に、緊迫していたその場の雰囲気が一気に和んだ。
「いきなりで悪かったわ。緊張したでしょう? でも、今のセッション、とっても良かったわよ! 順番が逆になっちゃったけど、今度はあなたの持ち曲を聴かせて」
「は、はい!」
緊張を無理矢理解きほぐすこととなったサックス奏者は、ゆかりに促され、マイナスワンCDをバックに演奏する。
ゆかりはソファに腰掛け、脚を組み、リラックスした様子で、リズムを取りながら楽しそうに聴いていた。
演奏が終わると、ゆかりが笑顔で「ありがと!」と言い、奏者と握手をした。
次々と演奏はこなされていき、終わりに近付いた頃、奏汰と翔の出番になった。
二人は呼吸を整えてから、持ち曲の中から選んだ、ゆったりしたボサノヴァの曲を弾き始めた。
選曲には、事前に、蓮華からアドバイスをされていた。
若い者は、このような時には、技巧に走った曲を選びがちだが、気負って失敗するケースもある。オーディションには、あえてリラックスして楽しめる曲を選んだ方が、本来の実力を発揮出来るだろう、と。
さらに、香月ゆかりがこれまで演奏した曲の中では、ボサノヴァは少なく、あっても、テンポの速いアレンジになっていたという。
奏汰と翔は、ゆったりしたテンポのボサノヴァを弾き決めた。
少し意外そうな面持ちのヴィオリストは、わずかに指を動かし、リズムに乗るが、楽しむというより、何かを考えているようであった。
二人の演奏が終わり、少し遅れてから、「はい、ありがとう」と言って立ち上がる。
翔がその場に残る。
「いいなぁ、先にセッション出来て」
奏汰が下がる時に翔を羨むが、翔の方は、学生とのバンドと違い、大人たちと合わせるのは初めてで、緊張しているのか、いつものように悪態をついて返そうともしなかった。
かつては、自分もそうだった。翔のプレッシャーがどれほどのものか想像がつく。
奏汰は、「頑張れよ」と、翔の肩を叩いた。
翔は、奏汰の顔を見て我に返ったようだったが、押し黙って、コード譜を譜面台に置いた。
ゆかりを交えたセッションが開始された。
翔が選んだのは、テンポの速いジャズだった。
ゆかりのアドリブが1コーラス、次に翔のアドリブが1コーラスの予定が、ゆかりがもう一度アドリブをやりたいと演奏中に合図し、それからテーマに戻り、演奏は終了した。
「はい、ありがとう! あなた上手いわねぇ! 楽しかったわ!」
ゆかりが満面の笑みで翔と握手をする。翔は珍しく緊張した表情のまま、頭を下げた。
早くセッションをしてみたかった奏汰は、出番が回ってきたのを嬉しそうに、消音ベースを持って、翔と入れ替わった。
「あら、あなた、ウッドベースも出来るの?」
「はい。まだまだ修行中ですけど」
少し興味を持った彼女に、奏汰は嬉しそうに答えた。
彼が選んだのも、テンポの速い曲だった。
ゆったりしたボサノヴァと対照的な、速いジャズだ。
ゆかりは面白そうに奏汰のアドリブを聴き、もう一度、自分のアドリブを追加してから、曲を終わらせた。
「とても弾きやすかったわ。ジャズのセッション、経験あるの?」
ゆかりに尋ねられた奏汰は、笑顔で答えた。
「はい。ここ一年くらいですけど、ちょこちょこライヴに出てて」
「やっぱり? なんか慣れてると思ったら」
感心した笑顔のゆかりは奏汰の手を握り、「ありがと! 楽しかったわ!」と言った。
※まだ蓮華と優は、香月ゆかりとは対面していませんが。




