Ⅲ.(1)期間限定講師!?
横浜港町にあるバー『J moon』。
その日、閉店間際に駆け込んできた客は、従業員も良く知る、関係の深い男だった。
「あら、先生、いらしてくれたの?」
まだ三〇歳そこそこであるママ蓮華が、一際嬉しそうに出迎えた。
「ああ、赤レンガ倉庫でライヴやってきたとこなんだ。せっかく近くまで来たからさ。それにしても、蓮ちゃん、仕事の時はいい女だねぇ。いつも道を誤りそうになっちゃうよ」
「またまた~♡ 先生ったら、いつもお上手なんだから。お世辞言っても、代金はサービスしませんよ」
ラスト・オーダーの時間は過ぎていたが、その四〇代ほどの男━━橘のボトルを、チーフ・バーテンダーの優が、ロックグラスと氷とともに差し出す。
橘は、待ち切れなさそうにグラスの氷を溶かしながら、ウイスキーを一口飲んだ。
「先生、おはようございます」
「おう、奏汰! 実は、今日は、お前に話があって来たんだ」
橘は、奏汰を自分の近くへ招いた。
橘が講師を努める音楽学校では、ミュージシャン志望の学生も多く、授業の一環として、学内でコンサートを開催することが必修となっている。
橘が通うようになったのも一年前からであり、今年前期のコンサートでは、演奏よりも、セッティングやリハーサル、本番のトラブルに時間を取られてしまったのだという。
それも含めて学ぶことになっているが、楽器を生演奏する彼らは、裏方の機械に疎いところもあった。
「クラスでコンサートをやるんだが、何人かはかなり上手いんだが、ベースが人数少ない上に下手なヤツばっかでさ。……っていうのも、本来ベース専門じゃないヤツが回されて仕方なくやってるもんだから、そいつらも可哀想なんだけどさ。だから、奏汰、俺の助手ってことで、ベース手伝ってやってくれないか?」
奏汰は笑顔になった。
「やります! 是非!」
「サンキュー! 助かるぜ! それと、その前に、授業で音響の講義を一回だけでいいから頼みたいんだが、どうだ?」
「えっ? 俺が授業するんですか?」
「前にPAの会社にいただろ? あいつら演奏の方が好きで、つい音響をおろそかにしがちだから。もちろん、本来は音響の授業もあって講師もいるんだが、……なんだか最近、その先生が休んでてな。そういうの、よくあるんだよ、本業が忙しかったり、生徒や他の講師と合わないとかで、学校に来なくなることも」
橘の話に再度驚いた奏汰は、開いた口が塞がらなかった。
「そんなんでいいんですか?」
「音楽大学とは違うからかな? 入れ替わりも多いし、長くいる先生でも突然辞めたりするし」
橘は、小さく溜め息をもらした。
普段の彼からは見られない少々困った様子に、彼の役に立つことと自分の勉強にもなると思い、奏汰は講義の依頼も引き受けることにした。
数日後、奏汰は、一回だけの講義のために、橘の努める都内の学校へと向かった。
一部屋に四、五〇人が、テーブル付きの折りたたみ椅子に座り、ガヤガヤとしていた。
「今度のコンサートに向けて、セッティングの説明をしてくれる、蒼井奏汰だ」
橘の紹介の後、奏汰はホワイトボードに配線図を書き、ボーカル用マイクや、楽器の音量等を、バランス良く聞こえさせるために調節するミキサーという機器を前に、説明していく。
基本的な配線の仕方でいいとは言われていたが、トラブル時に考えられる原因や対処の仕方なども伝えた。
音響専門学校時代の教科書も、前の会社で使っていた資料、本等も見直し、どんな質問をされてもいいように準備してある。
「この部分のつまみはイコライザーで、音質を微妙に変えたり出来ますが、基本的なセッティングであれば、いじらなくていいです。コンサート会場がこういった教室なら、リバーブをちょっとだけかけてあげると余韻があって、演奏してると気分いいです。
ただし、かけすぎは、ハウリングを起こしちゃうのと、コンサートホール並みにかけるのは、かえって不自然な感じするから、やめたといた方が無難かな」
学生たちと近い距離で講義をすることは、当然のことながら初めての奏汰であったが、緊張しながらも、なんとか基礎的な説明を終えた。
「説明は以上です。何か質問はありますか?」
「はいっ!」
一番に手を挙げた女子が言った。
「先生、年はいくつですかー?」
それを皮切りに、学生たちはわいわいと質問を浴びせた。
「本職は、何してるんですかー?」
「彼女はいますかー?」
「は?」という顔になってから、奏汰はもう一度尋ねた。
「そういうことじゃなくて、PAのことは皆もうわかったの?」
「ええ~? わかんなーい!」
きゃっきゃ笑う女子の声が、室内に充満した。
それを適当に切り上げてから、ケーブル巻きの練習に移る。
「そうじゃないよ、さっき、教えたでしょう? 八の字巻きだって」
「えー?」
「だめだよ、それだと、ケーブルに巻いた跡が付いちゃうから、ここで手首を返して……もっと丁寧に扱って!」
床中に敷き詰められた長いケーブルを、きゃっきゃ騒ぎながら、生徒たちは巻き取っていた。それを、奏汰がチェックして回り、あまりにひどいものは巻き直させた。
「たかが道具だと思わないで。コンサートは演奏するだけじゃなくて、後片付けだって大事なんだから!」
そう言って回る奏汰だった。
校内にある、学生たちの利用する多目的ラウンジでは、缶コーヒーを飲む橘と奏汰がいた。
「生徒たちって、いつもあんな感じなんですか?」
奏汰が、橘に尋ねる。
「そうだよ。年々、アタマが低年齢化していくみたいだ」
「せっかく音楽が勉強出来る環境にあるのに、なんだかもったいないよなぁ」
そう言う奏汰に、橘は力なく笑った。
「最初の頃、俺も『結婚してますかー?』とか『子供は何人いますかー?』とか、そんなのばっかりだったもん。専門学校っていったって、お前とは勉強する姿勢が違うんだよ」
奏汰は信じられないような顔のままだった。
「講義内容練ってわかりやすく説明したつもりだったのに、『わかんない』なんて言われて、がっかりですよ。コンサートには裏方だって大事なのに」
橘が微笑んだ。
「中には真面目な子たちもいるからさ、そう落ち込むな」
奏汰が溜め息をついていると、「あの、蒼井さん……」
先程の教室にいたと思われる、二人の女子が、そこに立っていた。
「クラスコンサートとは関係ないんですが、私たち、今度スタジオ借りて練習してみることにしたんです。蒼井さんの授業参考に、その配線を考えてみたんですが見ていただけますか?」
「いいよ、ちょっと見せて」
微笑んだ奏汰は、図面を受け取った。
「奏汰、教えてあげてて。俺は授業に行ってくるから」
橘は微笑むと、席を立った。
「今日は、どうだった?」
仕事の後、アパートの奏汰の部屋を、私服に着替えた蓮華が訪れた。
「もー、ひどいんだよー」
奏汰が、その日の出来事を話す間、蓮華はおかしそうに聞いていた。
「橘先生が言うように、中には真面目な子たちもいてさ、俺の授業聞いて、その後、自分たちで配線考えてくれたりってのもあったけど、その子たちにじっくり教える時間もなく、他の子たちに邪魔されて……」
愚痴を言うと、奏汰は蓮華を抱きしめた。
「ああ、こうすると落ち着く」
奏汰の腕の中で、蓮華は微笑んだ。
「ハグすると、ストレスが減るんですって」
「やっぱり?」
笑ってから、奏汰は、さらに彼女を抱きすくめた。
蓮華の手も、彼の背に回る。
「あたしも、嫌なお客がいても、こうしてると気が紛れるわ」
「何か嫌なことあったの?」
「ううん。あっても平気。奏汰くんがいるから」
奏汰は、蓮華を強く抱きしめた。
「俺も、蓮華がいるから、大丈夫だ」
実技テストの日も無事に終えると、次に学校を訪れた時はコンサートのリハーサルと本番であった。
ベースが必要なグループには奏汰が助っ人となり、出番のない時は音響機材のところで控え、順番にグループで生徒たちがミキサーをいじるのを見守る。
なんとかコンサートが終了した時、見に来ていた学年主任の講師が奏汰に声をかけた。
「きみが、橘先生のとこの?」
PAのトラブル対処が手慣れていたのと片付けている様子から、機材の扱いもわかっているところに、注目したという。
「なるほど、音響会社で働いていたのか。実は、この学校の音響担当の講師が、しばらく休んでいた上に、一身上の都合で辞めてしまったから困っててね。後任が決まるまでの間だけ、良かったら、きみ、教えに来てくれないか?」
「えっ?」
奏汰が呆気に取られている横で、橘が口を添えた。
「やればいいじゃないか、奏汰! 夕方には授業は終わるから、蓮ちゃんとこのバーのバイトにも間に合うし、両立出来るだろ? 俺、学園長と仲良いから、講師の話進めてきてやるよ」
「えっ、ええっ!? ちょっと待って! そんな簡単に?」
奏汰が戸惑っている間に、音響担当の講師の手続きは進められた。
後任が決まるまでの間、週に一、二度のアルバイトのような、音楽学校の非常勤講師となってしまえたことに、一番驚いたのは奏汰自身であった。




