Ⅱ.(11)素顔のままで
須藤と話してから、心に余裕の生まれた奏汰は、優から借りていたDVDを、やっと観る気になった。
『カクテル』を観た後、彼は、無性に、蓮華に会いたくなった。
映画の主人公が、大事なものを失う前に、行動を起こす気になった場面に、感化された、と我ながら思う。
『話があるから』
勇気を出してそうメッセージを送った奏汰に、しばらくして蓮華から返事があった。
『明日、仕事の後、ベイサイド・ホテルのラウンジで。そこなら落ち着いて話せるわ』
翌日、ベース・レッスンの終わった奏汰は、ベイサイド・ホテルのラウンジに向かった。
緊張しながら待つと、約二〇分後に、蓮華が現れた。
カーキ色の皺加工されたワンピースと、粗く編まれた生成りの短いボレロをはおり、茶系のロングブーツを履いている。
ふんわりとしたウェーブの毛先が、胸元で弾んでいた。
私服姿の彼女を見るのは久しぶりだった。そうしていると二〇代前半あたりの女性に見え、バーのママにはとても見えない。
二つ横に並んだ、革張りのウイングバックチェアに腰かける。
赤ワインのグラスが来ると、二人は「お疲れ」とだけ言い合い、黙ってワインを飲んだ。
ベースのレッスンの様子を簡単に報告してから、奏汰は考え考え、蓮華の様子を見ながら、本題を語り始めた。
美砂のことを可愛く思ったのは事実であり、蓮華には甘えず、美砂との等身大の恋愛をするべきなのではないかとも考えた。
そのいきさつは、自分は蓮華に頼られていない、と思っていたことが大きかった。
優や須藤のような、自分よりも年上の、包容力もある男たちの方が、蓮華にもふさわしいのではないか、とも考えてしまった。
「だけど、音楽が第一の俺じゃ、美砂ちゃんが犠牲になってしまうことにも気が付いた。彼女に気付かされたんだ、彼女をただ可愛いいと思うだけじゃだめだって。俺は、自分が蓮華に頼られずに淋しい想いをしているのと同じことを、美砂ちゃんにもさせていたんだ、って」
途切れ途切れになりながらも、なんとか語り続ける。
「美砂ちゃんがどう思ってたかも、ちゃんと見てなかった。結局、俺は、美砂ちゃんを傷付けただけだったのかなって思うと、今でも、ここんとこが、ぎゅーって締め付けられるみたいで」
奏汰が、シャツの胸の辺りを掴む。
「それでも、蓮華には会わなくちゃいけないって、……ちゃんと会って話をしようって思ったから」
俯き加減の蓮華を見つめる。
「美砂ちゃんと対等に付き合うものだと思ってはいても、考えていたのは、いつも蓮華のことだった。今は、……虫が良過ぎるだろうけど、……蓮華と一緒にいたいと思っている。ああ、あっちがだめだったからこっち、ってわけじゃなくて!」
これまで、蓮華は、ずっと彼の話に耳を傾け、時々、相槌を打っていた。
どう話していいか行き詰まった時には、蓮華の方から、彼の言いたいことを引き出せるよう、質問して誘導していただけで、まだ彼女の意見を聞いていない。
二人の間には、再び沈黙が訪れた。
ほんの僅かな間であっても、それが、奏汰にとっては、裁判の判決を待つにも等しい。
「あなたはまだ若いから、もったいなくて。何も、あたし一筋じゃなくてもいいと思って……。ごめんね、もともとはあたしのせいで、奏汰くんにも彼女にも辛い想いさせてたんだね」
ハッとして、奏汰は顔を上げた。
「違うんだ! 他の女の子と恋愛していいって言われたからって、真に受けた俺がバカだったんだから。美砂ちゃんも、俺のためを思ってくれた蓮華も、悪くないよ!」
「美砂ちゃんみたいな健気な子なら、奏汰くんはきっと本気になっていくだろうって。そう思ったら、居たたまれなくなっちゃって……。自分から、奏汰くんに恋愛しろって言っておきながら、本当はやきもきしてたの。まさか、ここまで自分でも動揺するとは思わなかったわ」
俯く蓮華の瞳を、黙って奏汰の目が追った。
「優ちゃんには全部見抜かれててね、怒られちゃった。ちゃんと、奏汰くんと話し合えって」
「優さんが……?」
少し前に、蓮華と優が話していた時だろうと、咄嗟に思い出した。
長年付き合いのある蓮華を見ていればわかるってことか。
奏汰は、ふっと、負けを認めたような顔になった。
「……優さんは大人だよな。正直言って、優さんには引け目を感じちゃって、相談する気にもなれなかったんだけど、やっぱり、俺とは器が違うんだな」
蓮華は決心がついたような表情で、奏汰を見上げた。
「あたしも正直に言うとね、……この間、須藤くんにキスしちゃったの。信じてもらえないかも知れないけれど、話すうちに元気をもらえたから、お礼したくなって」
蓮華が動揺していたと知った後では、少し余裕が生まれたのか、不思議にも寛容に受け止めることが出来た。
心配そうな顔の蓮華に反して、奏汰は穏やかな顔つきだった。
「実は、須藤さんからも聞いたよ」
「え……」
「話してくれてありがとう。黙ってた方がアヤシイし、話してくれたってことは、俺を対等に見てくれてるってことだもんね。いつも、蓮華のことではやきもきしてた。だけど、蓮華も、少しは俺のことで……やきもきしてくれてた……ってこと?」
蓮華は少し返答に迷っていたようだったが、そのうち小さく頷いた。
「余裕のある大人の女なんかじゃ、まったくないわね」
困ったような蓮華を見つめるうちに、奏汰の中に抑え切れない想いが湧き出し、思わず椅子から乗り出して蓮華を抱き寄せた。
「今日は一緒にいたい。今すぐにでも……!」
耳元で囁く奏汰の声に、蓮華の瞳が揺れた。
「つまり、その……許してくれたら……なんだけど」
すまなそうに言う彼に、蓮華は微笑し、俯き加減に頷いた。
「あたしこそ……許してもらえるなら」
熱い溜め息の中、固く目を瞑った蓮華が、ベッドに沈み込む。
覆い被さる奏汰は、深く、彼女の唇を塞いだ。
細波は繰り返し大きな波となっていく。
穏やかに移り変わった時の中で、奏汰の胸に下がったドッグタグの文字を、愛おしく、ゆったりと、蓮華の指がなぞっていく。
茶色い短い髪がかかる耳から、首筋を通り、鎖骨、頬へと、唇がやさしく押し当てられていった。
薄化粧の頬を撫でるように進み、ルージュの取れた唇を包みこむ。
見つめ合い、囁き合いながら、相手を思い遣る口づけは、ゆっくり繰り返された。
ガウンを羽織った二人は、冷蔵庫から取り出したミネラル・ウォーターを飲んだ。
「優さんに、『カクテル』のDVDを借りたんだ」
「ああ、昔のトム・クルーズの、あのチャラチャラした映画?」
「ホントだ!」
奏汰が笑い出すのを、蓮華は、きょとんと見ていた。
「優さんが言ってたんだよ、蓮華はそう言って、あの映画を気に入らなかったみたいだって」
「ええ、確かにそうだけど……?」
「軍隊を除隊して、学歴もない、他に職歴のない、トム・クルーズが演じる主人公が、一儲けしようと、まずはバーでバイトする。なんか、俺に似てない?」
「似てないわよ。奏汰くんは、有名になりたいとか、お金儲け出来ると思って、ミュージシャンになろうとしてるわけじゃないじゃない?」
「まあまあ。世間から見たら、同じだと思うからさ」
くすくす笑いながら、奏汰は、続けた。
「バイトしながら、いろいろ仕事を探すけど、結局は、バーの方で才能を発揮していく。――ああ、日本と違って、アメリカでは、カクテル作るのもショーなんだね。バーテンダーも、客を盛り上げるものみたいだったし――スラング多いし、品のない会話も多くて、なんで優さんみたいな上品な人が、そんな映画勧めたんだろうって、思ったら……」
蓮華は、映画を思い出しているのか、だんだん不機嫌な顔になっていく。
「バイト先のオーナーと仲違いすると、それぞれ別の人生を歩んでいって、再会して。挫折や、いろんな困難を乗り越えていって、主人公は、本当の愛を見つける――あれって、ラブストーリーだったんだね」
不機嫌そうな蓮華を、奏汰が、面白そうに見た。
「ホントに嫌いなんだね? あの映画、今の俺には、面白かったけどなぁ」
「そう? だって、結局は、主人公は、同年代くらいの、純粋で可愛い女の子を選ぶじゃないの。結局は、みんな、年上のしたたかな女より、可愛い女の子なのよ。確かに、エリザベス・シューは可愛かったから、いいけど」
「なんだ、それが気に入らなかったの? ……わかった! 蓮華、トム・クルーズ、めっちゃ好きだったんじゃないの? だから、大筋よりも、イチャイチャにばっかり目が行って、ヤキモチ妬いてたんじゃ?」
「違うわよ」
蓮華の顔は、眉間に皺を浮かべながらも、本気で腹を立てている様子はない。
ホテルの有線から流れる曲は、ビリー・ジョエルの『素顔のままで』に変わった。
奏汰も、バンド仲間から勧められ、聴いたことがある。
良い曲は、気分転換をするには、最も効果的だ。
眉間の皺はなくなり、思わず口ずさむ蓮華を見つめ、その変わりように笑いたいのを堪えた奏汰が、「いい曲だよね」と言った。
「この曲みたいに、素直に、素顔のままでいれば良かったんだわ」
二、三人がけの、ヨーロッパの家具調ソファに腰かけ、蓮華は、肩を竦めた。
「トム・クルーズが好きなのも、素直に認めていれば、ね!」
「やっぱり!」
奏汰が笑った。
蓮華も、今度は笑って、ちらっと舌を覗かせた。
「美砂ちゃんにフラレた後、あの映画を見て、これでも真面目に考えたんだ、恋と愛の違いを」
言ってしまってから、急に恥ずかしさにおそわれた奏汰が、すぐに黙った。
「それは、興味深いわね」
彼女が、笑い飛ばしてからかうような性格ではなかったため、奏汰は安心して話を続けられる。
「恋愛的な欲求は蓮華で、癒し的なものを美砂ちゃんに求めていたんだと思ってたけど、そういうことじゃなかったのかも。美砂ちゃんには、恋だったんだと思う。蓮華にも、最初のうちは恋で━━」
黙って微笑む蓮華を、照れ臭そうに見つめ直した。
「蓮華のことをいろいろ知っていくうちに、気が付いたら、もっと好きになってた。いつも気になってて、いつの間にか考えてて、……蓮華が側にいないことが不自然になってた」
なんとも言えない表情で、彼女を見る。
「何気ないことかも知れないけど、こういうのが愛なのかな? 俺には、そう思えたんだ」
「奏汰くん……」
彼を見つめていた蓮華が、視線を反らした。
「……困ったわ」
奏汰が不安そうな目で、覗き込んだ。
「俺が、蓮華を……愛してたら、困るの?」
ハッとした蓮華は、慌てて「ごめんね、違うの!」と言った。
「どう反応していいかわからなくて、困ってるだけ。そんな風に、『愛』だなんて言われたこと、あんまりなかったから、なんか……感動しちゃって……」
「蓮華でも、そんなことあるんだ? 意外と不器用なんだね」
「なによ」
拗ねた顔になった蓮華を、奏汰が抱きしめた。
「蓮華のこと、わかってたつもりになってただけで全然わかってなかった。男並みに不器用で、意外とヤキモチ妬いてて……」
何か反論したそうな蓮華だが、奏汰の腕の中でおとなしくする。
「今度こそはっきりわかった。俺は蓮華がいい。例え、蓮華の心の中に、他の誰かがいたとしても……今でも、今後でも」
「……そんなこと、言ってくれるの?」
奏汰の髪をかきあげる蓮華の仕草は、愛しさに満ちていた。
「あたしは、奏汰くんのものなの」
潤んでいる蓮華の瞳を、愛おしそうに、そして、せつなそうに見つめてから、奏汰は柔らかく抱きしめた。
蓮華の頬を伝っていったものは、控えめに光っていた。




