Ⅱ.(7)上司と同級生
その日、美砂の仕事が終わったのは、定時を大幅に過ぎた頃であった。
「ここのところ、残業続きで大変だったね。お詫びに、晩ご飯、ご馳走させてくれる?」
上司である須藤は、社内でも若手のやり手として評価され、洒落たスーツとネクタイ、端正な顔立ちで、女子社員からも人気がある。
その須藤が、美砂に声をかけた。
「そんな、気を遣わないで下さい」
須藤は真面目な顔から一変して、親しみ易い笑顔になった。
「じゃあ、お詫びじゃなくて、ついでってことなら、ご一緒してくれるかな? 俺、一人暮らしだから今からメシ作るの面倒で」
須藤が美砂を案内したのは、カジュアルなイタリアン・レストランで、あたたかみのある珪藻土の内装が、女性受けがいい。
「ここ、素敵なお店ですね。須藤さんがこんなところ知ってたなんて、意外です」
彼の誰とでもすぐに打ち解ける明るいキャラクターから、入社以来、親しみを感じていた美砂は、上司といっても緊張しない相手だった。
「ひどいなぁ、これでも二八だぜ? 女の子と食事くらいはしたことあるんだから」
須藤が冗談めかして言うと、美砂も笑った。
「彼氏、出来たんだって?」
美砂は、恥ずかしそうに俯いた。
「めぐちゃん、声大きいから、やっぱり聞こえてましたか。彼氏っていうのとは違うかも知れないけど……。同級生なんです。高三の時から片想いしていて。今はバーでアルバイトしてるんですけど、プロのミュージシャン目指して勉強中で。時々ライヴに出たりして経験積んで、頑張ってるところなんです」
須藤は頷きながら、何かを考えている。
「その彼がバイトしてるバーって、どこにあるの?」
「横浜ですけど……?」
バー『J moon』に着くと、美砂を見つけた蓮華が、笑顔で出迎えた。
この日の蓮華は、生成りの、ふわりとした服装だった。彼女の緩いウェーブがかったアップの髪にも、似合って見えた。
仕事帰りの美砂は、水色のブラウスに、紺色のタイトスカートだ。
隣にいる、チャコール・グレーのスーツに目立つ柄のネクタイをした須藤を、紹介した。
「会社の上司の須藤さんです。こちらの話をしたら、突然行きたいって」
「こんばんはー。いやあ、バーのママが、こんなに若くてきれいな人とは思わなかったなぁ!」
はしゃいでいる須藤に、蓮華は、にこやかに「それは、どうも」と返した。
「奏汰くんには、内緒なの?」
蓮華が、小声で美砂に尋ねる。
「ああ、本当にただの上司ですから、どうぞお気遣いなく」
美砂が答える前に、割り込むようにして須藤が答えた。
「席は、テーブルでいいかしら?」
「せっかくですから、カウンターで。僕、あんまりバーに来たことないもので」
次々と代わりに答える須藤を、驚いて美砂が見上げる。
蓮華も目を丸くするが、面白そうに須藤を見た。
須藤の服の腕を、美砂が引っ張った。
「もう、須藤さんたら! わざわざカウンターにしなくてもいいじゃないですか」
「カウンターの方がバーテンダーと話が出来るから、面白いじゃないか。バーに来たら、カウンターに座るもんだよ」
「で、でも……」
尻込みする美砂に構わず、須藤は、「ママ、ここ、いい?」と蓮華に尋ねてから、さっさとカウンターに腰かける。
蓮華は笑うと、おろおろしている美砂に、「大丈夫よ。どうぞ」と須藤の隣を勧めてから、テーブル席で飲む年配客の方へ向かった。
「いらっしゃいませ。こちらがメニューになります。メニュー以外のものでも、ご希望があればご用意いたします」
と、カウンターの中から、優がメニューをテーブルに置いた。
須藤はメニューには触れず、即答した。
「じゃあ、『カナタくん』を」
隣の美砂は、髪が逆立つかと思うほど驚いた。
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
優が、にっこり笑う。
「どっ、どういうつもりなんですか? わざわざ呼ばなくても……!」
「あのバーテンダーの人、いい人だね」
「そっ、そうですけど……!」
美砂があたふたするうちに、奏汰が現れた。
「いらっしゃいませ。あれ?」
Yシャツにベストとネクタイの制服姿で、意外そうに美砂を見る。
おどおどと上目遣い気味に、美砂は小さい声で「こ、こんばんは」と言った。
そんな美砂をちらっと見てから、須藤が顔を上げた。
「美砂ちゃんの上司の、須藤晃と申します」
須藤は、彼よりも明らかに年下の奏汰に対しても、感じの良い会釈をした。
「同級生の蒼井奏汰です。よろしくお願いします」
奏汰が、にこやかに返す。
「カクテルってよく知らないんですけど、とりあえず、辛口でロックのもの、お願いします。ああ、酒は強い方だし、カンパリ以外は、焼酎でも日本酒でも何でもOKなんで。なんなら、きみの好きなものにしてくれる?」
そう楽しそうに喋り出した須藤の横で、美砂は呆気に取られていた。
一瞬、目を丸くしながらも、奏汰は笑顔になった。
「では、ジンライムはいかがでしょう?」
「ああ、じゃあ、それお願い」
「かしこまりました」
「美砂ちゃんは? どうしましょうか?」
「えーっと……」
「彼女のイメージで」
「ちょっ……、須藤さんっ、そんなっ……!」
恥ずかしそうに慌てる美砂であったが、奏汰は、「かしこまりました」と笑った。
しばらくして、奏汰が差し出したのは、ジンライムと、ピーチ・フィズだった。
「美味しいね! 結構辛いし、酸味も強いけど」
「ありがとうございます。ここでは、ちゃんとライムを絞ってお出ししていますが、家で作る時は楽してライムジュース使っちゃいます。だから、もう少し甘いですよ」
奏汰が笑い、須藤も笑った。
「この氷って透明なんだね。普通の氷みたいに白っぽいところがないんだね」
「空気や、水道水に含まれるミネラル分が白くなるんです。純粋な水で作られた氷だと、カクテルの味の邪魔もしないし、透明で溶けにくいので、バーでは氷屋さんから氷を買って、使い易い大きさにアイスピックで削るんです」
須藤が感心し、さらに質問を続ける横で、美砂も少しずつ笑顔になっていった。
「すみません、夕食だけじゃなく、ここの分までご馳走になっちゃって」
「ああ、いいの、いいの、誘ったの俺なんだし」
須藤が軽く笑い飛ばした。
「結局、ウイスキー、ボトル・キープしちゃったよ」
「須藤さんて、知らない場所でも、あんまり物怖じしないんですね」
「まあね。仕事で営業してると、知らないところに飛び込むのは慣れてるから」
笑った後で、須藤が向き直った。
「仕事してるところしか見てないけど、二一歳にしては落ち着いてるよね、彼。まあ、ああいう仕事では、そういう対応しないといけないんだろうけど。ちゃんとカクテルも勉強してるみたいだし、根は真面目そうだね」
「そうなんです。仕事とベース練習以外の普段の彼は、普通の男子ですよ。遊園地で遊ぶの好きだったり、すごく食べたりとか」
美砂が、くすくす笑った。
「彼、茶髪でイケメンだけど、チャラチャラした感じはないし、いいんじゃない?」
「須藤さんも、そう思いますか!」
「今度は、彼の演奏も聴いてみたいなぁ」
「是非!」
美砂の嬉しそうな笑顔に、須藤は微笑んだ。




