Introduction(*)
つかみどころなく
指の間からこぼれていくような
時には、ワルツのように
移り変わるハーモニーの響きとともに
軽やかに
しなやかに
弾み
たゆたう
「すみません、今流れてるこれって、なんて曲ですか?」
カウンターにやってきた青年に、バーテンダーとママが注目した。
『学生の日』——バー『J moon』では、たまに学生のための日を設け、軽音楽部や趣味でバンドを組む若者たちに開放していた。
そんな日は、飲み物は、成人していればビールだが、特別にカクテルを注文したい場合は、カウンターでその場で支払うという、アメリカで見られるスタイルを取っていた。当然、学生証を提示し、年齢を確認してからだ。
彼は、カクテルを注文しに来たというより、店内に流れる曲のタイトルを訊いていた。
ハイテンションな学生たちの声で、かき消されがちなその曲に、取り憑かれでもしたのか、居ても立っても居られない様子だった。
ピアノトリオ——ピアノ、ベース、ドラムの三人で演奏されている、ジャズワルツ。
「ビル・エヴァンスの『Waltz for Debby』よ」
店のママが、親切に応えた。
「不思議な曲ですね、和音の移り変わりが先が読めなくて、どんどん進行して。ワルツなのも始めの方だけだし」
「このアレンジはそうね。一通りピアノとベースがワルツで演奏して、ドラムが加わってからは4 beat——スイングになってるわね」
「珍しくベースがアバレてますね」
「そうね、ちょっとヤンチャかもね」
くすくすと、ママが笑う。
「でも、俺、このベース好きだなぁ」
「あたしも好きよ。きみは、ベース弾きなの?」
「あ、はい」
青年は初めて我に返り、改めてママを見た。
花のように結い上げた茶色の髪、水色のシンプルなワンピースに、派手ではないオパールのネックレスと揃いのイヤリング。目鼻立ちの整った顔に乗った控えめなメイクと笑顔が、ソフトで親しみやすい、人好きのする印象。
バーのママにしては若いと、誰もが思うだろう。
青年の目は、自分よりも少しだけ年上にしか見えない彼女を、いったいいくつなんだろうと、思わず見入っていた。
そんな風に見られることには慣れているというように、構わず、ママが尋ねた。
「この曲に興味を持ったということは、いいセンスしてるわね~。きみ、高校生?」
「いいえ、もう二一です。専門学校出て音響の会社にいましたが、……今月一杯で辞めます」
ママは目を丸くした。
「そう……。辞める事情は人それぞれでしょうけれど……、立ちっぱなしもなんだから、良かったら何か飲む?」
促され、青年は止まり木に腰掛ける。ママも隣にかけた。
メニューを見て、ジントニックを注文する。
財布を出そうとすると、「いいわよ、あたしの奢りで」と止められた。
バーテンダーの差し出した、ライムの添えられた炭酸入りのアルコールを一口啜ると、「なにこれ、美味っ!」とグラスを見直し、ごくごくと飲み干す。
隣で、ママは微笑ましく笑っている。
「ジントニックって、こんなに美味かったっけ?」
驚いた顔で、青年が、ママとバーテンダーを交互に見る。
「いい仕事するでしょう、うちのバーテンダーは」
カウンターの中でにこやかに微笑む、年齢不詳だがおそらく三〇代前後と思える男に、青年はしばらく尊敬の目を向けていた。
ママは黙って微笑み、青年が喋り出すまで見守っている。
「あの……、会社を辞める理由なんですけど……、俺、……音楽の仕事に就きたいと思って。今度は裏方じゃなくて、ベースが演奏出来たらな、って。そのために、貯めておいた金で、音楽学校に入り直そうかと」
「意外とマジメなのね」
からっとした声で言う彼女を、おそるおそる見つめ直した。
「音楽は実力の世界よ。学校もいいけど、もう一度入り直すくらいなら留学しちゃうとか、今すぐ出来るのは、とにかくライヴで経験積むことね。その方が早いわ」
「は、はあ……」
「ライヴっていっても、友達のバンドっていうより、大人のやってるアマチュアバンドとか、プロとかとの方をお勧めするわ」
そんな伝は、彼にあるわけはなかった。
愕然としていると、
「とりあえず、きみのベース聴かせて」
ママは、にっこり笑った。
*
「あの子、蒼井奏汰くんていうのね」
学生たちの帰った後、従業員は片付け、清掃する中、カウンターでは、ママ・水城蓮華が、店の専用SNSに追加したスマートフォン画面を見ながら、丸い氷の入ったロックグラスを傾ける。
「さっきの子ですか?」
バーテンダーの桜木優も、グラスを布で拭き取る手を止めずに、画面に視線を落とした。
蓮華の見ていた動画では、先ほどまでカウンターに座っていた、明るい茶色をした髪と、吊り目気味の大きめな瞳の音楽青年が、バンドの奥でベースを弾いている。
「なかなか上手ですね」
そうコメントした優に、蓮華が頷いた。
「あの雑多な中で、あの曲を聴き取れたなんて、相当音楽好きよね」
「だと思いますよ」
「ちょっと天然ぽいし。音楽やる人の中には、ああいう子っているわよね」
蓮華が、くすくす笑う。
「僕から見たら、蓮華さんも相当天然ですけどね」
「そう? 優ちゃんは、無自覚天然ナントカだけどね」
「なんのことですか?」
二人は、互いを意地悪な目で見合った。