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玉座の間に、異形の女が一人たたずむ。
絹糸のようになめらかに流れるストロベリーブロンド。そこからのぞく片方だけ尖った耳と後頭部へと捩れながら伸びる角。背中には金属的に輝く黒い翼が畳まれていた。
その空間は主だった色が黒であるため、照度的に暗いわけではないのに、そこはかとなく陰鬱でおどろおどろしく不気味な印象を拭えない。
空の玉座を見つめる女の後姿からは、何も読み取ることができなかった。
「魔王様ー!」
豪奢な装飾が施された重厚な扉を開いてオークとコボルトが《魔王》と呼ばれた女の元に小走りで向かう。
何がそんなに楽しいのか、お互いを肘で小突き合いながら遠足にでも行くような軽快な足取りだった。
振り向いた女の顔は浅黒く、およそ半分が鈍色の鱗に覆われていた。
「移転は終わったのか?」
女はアメジストを嵌め込んだような瞳をオークたちに向ける。その声はその風体にそぐわない生娘のような少女のそれだった。
「はい! 希望者全てが新大陸へ移転し終わりました!」
胸を張り、誇らしげにやり切った表情のオーク。
「そうか、ではお前らも早く行け」
「えっ、魔王様は?」
きょとんとしたコボルトのその言葉に女は「散々説明しただろう!」と言いたくなるのを呑み込んで溜息をついた。
「私が先に新大陸へ行ってしまったら、誰がこちら側の魔法陣を破壊するのだ……」
「あそっか! じゃあオレ達は先に行きますんで、お見送りしてくださいよ! お見送り!」
「最後特権ってやつで!」
そんな特権はない、と言いかけたところでコボルトにぐいぐいと手を引かれ、オークに背中を押されて移転の魔方陣が展開されている部屋に向かう。
玉座の間ほどではないがそれなりに広い窓一つない部屋。床一杯に展開された七色の魔方陣がオーロラのように揺らめいて神秘的な雰囲気を作り出していた。
「魔王様もなるたけ早く来て下さいね!」
「先に向こうに行った連中も、魔王様が来るのを首を長くして待ってるんですから!」
「わかった、わかったから」
ご主人様にじゃれつく犬のようになっているオークとコボルトをなだめて魔方陣の中心へと背中を押しやる。
「今度うちに子どもが生まれるんです、魔王様が名付け親になってくださいね」
「……ほら、さっさと行け」
コボルトの願いに女は答えず、追い払うように手を振る。
「そんじゃ魔王様、お先です!」
「お疲れちゃんでーす!」
オークとコボルトが手を振りながら光に包まれて姿を消した。
しん、と再び訪れた静寂。
その静寂を破ったのは一人の男の声だった。
「それでいいのかい?」
いつからいたのか、音もなく女の背後に現れたのは『異端のエルフ』サウル・ヴァルディ。
エルフの金髪ともダークエルフの銀髪とも違う漆黒の髪。暗色でまとめられた衣服には草花をモチーフにした装飾が施されていた。
「父さま……」
人や魔族や魔物の体を切り刻んで繋ぎ合わせ、異形を作り出すことを何とも思わない他称マッドサイエンティストな彼も、やはり根本は自然を愛するエルフなのだなと、そんなことを女はぼんやりと思った。
「もう二度と人間達と争う事のないように、魔族に安息の地を――ファルカ、君はそう言い、見事に新しい大陸を発見したね」
女――《魔王》ファルカ・ノーウェの望みを叶えるべく、彼女が見つけた新大陸を覆い隠すようにサウルは空間を捻じ曲げ認識を阻害する広域隠蔽結界をほどこした。
そして一から土地を開き、町を作り、国と呼べるまで大きくし、最後まで戦うことを望んだ者、移住を受け入れなかった者以外の魔族をそこに移住させた。
「いくら君でもあの結界に守られた大陸を見つける事は難しいだろう。本当に君は残るのか? 君にはもう君の居場所がある。いまさらどうしてあちら側へ執着する?」
ファルカがサウルに応えの代わりに向けたのは突き放すような笑みだった。
「……だから君は見つけるだけで開拓には関わらなかったのだね。まったく、エルフが魔族の王とは世も末だとしか言い様がない」
ファルカの意志が覆らないことを悟ると、サウルは自嘲するように溜息をついて肩を竦めた。
「私にだって務まったんです。父さまならもっと良い魔王になれますよ」
「そうだといいけど……。ファルカ――いや、ハルカ。私の娘になってくれてありがとう。君と過ごしたこの数年間、本当に、楽しかった」
心底愛おしそうに、ファルカの額を撫でるように髪に指を梳き入れてから頬へと滑らせる。角度によっては口付けしているように見える距離だが、二人の間に男女の甘さはない。
ファルカは頬に添えられたサウルの手に、鱗におおわれ鋭い爪が剥き出しの五指を重ねた。
「いいえ、私の方こそ感謝しております。私を助けてくれて、私に力をくれて、私を、貴方の娘にしてくれてっ……ありがとう、ございましたっ……」
緊張か恐怖か、ついに待ち望んだ瞬間が訪れることへの歓喜か、ファルカの手が震えていた。
「っ、ファル――」
「さようなら、父さま」
サウルが何かを言ってしまう前に、ファルカはその胸を押した。
七色の光が強まり魔方陣へ吸い込まれるサウルに別れの言葉を告げ、一筋の涙を流しながら見送るファルカの笑顔は、かつて『井上遥』と呼ばれていた、日本のどこにでもいるようなただの女子高生であった頃の彼女を彷彿とさせた。
†
――まるで、霊廟だ。
それは《勇者》星ノ宮清貴が魔王城に足を踏み入れて最初に思ったことだった。
魔法と石で造られた城の中は物音一つせず、今まで戦った魔族から感じていた邪悪で醜悪な気配の抜け殻が、城と言う空間にただこびり付いているだけだった。
廊下を照らす炎もどこか空々しく、死という棺を最奥に頂く霊廟のように、その城は静止していた。
「どうして何もいないのじゃ?」
魔王城でありながら小さい魔物一匹出現せず、自分達の足音や衣擦れ、息遣いだけが耳に入ると言う異常さに、《勇者》御一行の紅一点である王女が耐えかねたように戸惑いを口にした。
王女が誰ではなく何と言った事から魔族を人と同じ知性のある生き物ではなく、少し知恵があるだけの獣だと思っている事がわかる。
そしてそのことに《勇者》御一行が何の反応も示さないということは、それが人間達の共通認識であることを示していた。
廊下に灯る炎にそれとなく導かれているとも知らずに、《勇者》御一行はついに魔王城の玉座の間に辿り着いた。
「お前が《魔王》だな!」
扉を開いた途端の不意打ちを恐れたからか、ボス部屋からの離脱不可を恐れたからか。
乱雑でいて無慈悲に破壊された扉から飛び込んできた矮小な生き物達を、ファルカは腰掛けた玉座から無感動に見下ろしていた。
大盾を持ったガタイの良いフルアーマーの騎士、ローブを纏い杖を掲げつば広の三角帽子を被った魔法使い、腰にレイピアとダガーを帯きドレスアーマーに身を包んだ王女、そして、聖剣を持つ異世界より召喚されし《勇者》。
忘れたくとも忘れることのできなかった、『井上遥』を裏切って死に至らしめたクズ共だった。
燎原の炎のように激しい怒りに身を焦がしたこともあった。
絶望し虚無に飲み込まれそうになったこともあった。
あられもない憎悪に身を委ねそうになることもあった。
それでも遥が《魔王》ファルカであり続けられたのは、《勇者》達に一矢報いたい、嫌がらせをしたい、復讐をしたい、報復をしたい、そんな、どこまでもくだらない望みを抱き続けたからだった。
魔王としては失格かもしれない。だがそれが何だ?
《魔王》も異世界より召喚されし少女も、ただ一点望むのは『カタルシス』であった。