8話「女の温泉回」
晩御飯を済ませた後、イズ達は近所の温泉に来ていた。女湯からもヴィーレ達が見たものと変わらない景色が見られる。だがあちらと違ってこちらには数人の女性が既に入浴していた。
(私の家の浴場よりは狭いけれど、客が少ないのは良いことね。まあ、たとえ客が多かろうと、あの不気味な館でお風呂になんか入りたくないけど)
うんざりしたように空を見上げるイズ。その両手は丁寧にネメスの頭を洗ってあげていた。ネメスは洗髪用の石鹸泡が目に入らないよう瞳をぎゅっと閉じている。
「お湯かけるわよ~」
「はーい」
すっかり気の抜けた返事に微笑みながらイズは泡を流す。無関係の人間から見れば本物の姉妹だと勘違いされるだろう仲良しっぷりだ。
それから二人とも体を洗い終え、地球よりも遥かに大きい月が描かれた水面にその身をゆっくり沈めていく。肩までお湯に浸かると、意図せず二人が出した吐息の音が合わさった。
「良いお湯ね、ネメス」
「そうだね、イズお姉ちゃんっ!」
ネメスが元気よく返事をしてくる。彼女はお風呂が大好きらしい。足をパタパタとバタつかせてご機嫌だ。よくよく耳を澄ませてみると鼻歌まで奏でているのが分かる。
そんなネメスとは反対に、イズの表情は浮かなかった。原因は先ほどの食事中に起きた違和感にある。
(この子、本当にどうしたのかしら、突然『敬語をやめる』なんて言い出して。呼び方も名前にお兄ちゃんかお姉ちゃんをつけるようなものになってるし……)
チラリと横目でネメスを眺める。彼女は同じ湯から出るところだった熟年女性へ律儀に挨拶していた。その様子だけ見れば特に今朝のネメスと変わりない。
(それにしても、エルがこの子に『エルお兄ちゃん』と言われて悶絶していたのは気持ち悪かったわね。変なものに目覚めなきゃいいけど)
別の心配事も発生してくるが、今は彼女の唐突な心境の変化の方が気がかりだった。
あの時ネメスと一緒にいたのはヴィーレだ。彼が何かやらかしたのではないか。不意にそんな思考が過る。またもやイズの過保護が悪い方向へと向かっていた。
「ネメス。ヴィーレと何かあったの? その話し方、強要されたりしたんじゃない? 変なこと言われたんならちゃんと相談なさいよ」
そう言うと、尋ねられた彼女は見るからに不機嫌になった。つり上がった眉とムッと結ばれた唇がそれを物語っている。
「ヴィーレお兄ちゃんはそんな事しないよっ!」
「えっ……。えっと……ご、ごめんなさい。そうね……」
思わず謝ってしまう。ネメスに叱られることなんて今まで無かったからたじろいでしまった。
「わ、わたしこそ強く言い過ぎたよ。ごめんね……」
ネメスは呆気にとられているイズを見て我に返ったようだ。反省して俯いている。浴槽の水面を見つめ、他の客からの視線から逃れようと体を縮こまらせた。
(……きっとこれは成長なんでしょうね。何があったのかは分からないけど、今までならこの子がこんなに強くものを言うことなんてなかったもの)
それを促したのが自分ではないのが悔しかったが、イズはひとまず納得した。
「聞かせてくれないかしら。あなた達が何をしていたのか」
「えっ……。う、うーん……」
ネメスはしばらく迷っていた。罪悪感か何かによってその顔は暗かったが、イズが手を握ってあげると、覚悟を決めたようで静かに語り始める。「大事なことだから」と、前置きを置いて。
それからイズは全てを知った。ネメスの矛盾した想い、過去の呪縛を。そして、それらから解き放ってくれたヴィーレの誠実さを。
(身分が低いというだけで下に見ていた。でも、彼は少なくとも私よりはずっと立派だったんだわ……)
全てが語り終えられた後、イズは答えなかった。否、答えられなかったのだ。
自分の歪んだ顔を見られたくなかったから。自身が上手く言葉を紡げない様を悟られたくなかったから。
(だって私は、この子の話を聞いても、泣いてあげることしかできないから。彼のように、自分の弱さを強引に隠してでも、彼女に安心を与えてあげることができなかったから)
小さな音を立てて一つの水滴がイズの目から水面に落ちた。ネメスは何も言わなかったが、そこで初めて彼女が泣いているのを察したらしい。
(私はきっと彼と違って、ネメスに『正しい言葉』を投げかけることはできたはず。でも、自分に嘘をついて必死に逃げようとしている彼女の意思を汲み取り、強引に繋ぎ止めるだなんてことは……恐らくできなかった)
嗚咽が聞こえる。しかしそれはイズのものではなかった。彼女がおかしく思って顔を上げると、なんとネメスまで泣き始めてしまっているではないか。
「どうしてネメスまで泣いてんのよ」と言って、再び手を繋いであげる。
(反省するべきね。肩書きだけで人を見ていた自分が途端に恥ずかしくなってきた。本当に大事なのは、そんな事じゃなかったんだわ。彼は真の意味で優しい人だった)
握られた手はどちらからともなく固く結ばれていく。
「あいつ、実は勇者向いてるのかもね……」
イズはネメスに聞こえないようにそう呟き、もう一方の手でお湯を掬い、涙を洗い流した。
あれからイズが泣くのを見てネメスが泣き、ネメスが泣くのを見てまたイズが泣くという悪循環に陥ってしまっていたが、なんとか無事それからも脱することができ、今は脱衣場で着替えをしているところだ。
「お風呂で泣いちゃったから、すごく目立っちゃったね……」
ネメスはふかふかのタオルで体を拭きつつ苦笑していた。
「……ええ」
人前で泣くことなんて滅多にないイズは恥ずかしくて思い出したくないようである。短く答えてからネメスに下着のドロワーズを手渡す。
ふと、礼を言って服を受け取る彼女の体に目が行った。回復呪文のおかげで痛々しい傷や痣はもう消えてしまったものの、まだ肉付きは悪い。
(家無しの子にしてはまだ良い方だけど、栄養はやはり足りてなかったみたいね)
そう考えながら、ネメスの胸囲と自分の貧相なそれを見比べる。ここだけはあらゆる本の知識を試しても全然成長が見込めない。
「ネメスはその調子だと私のものと同じくらいね」
「ん? 何が?」
彼女は何のことだと言いたげな表情だ。同情した声色で「なんでもないわ」と頭を振る。
(あなたはそのまま純粋に育てばいいのよ……)
眩しそうに両目を薄めて純真無垢な少女を見る。余計で失礼極まりない思考であった。
「そういえば、ネメスはあの館の幽霊とかいうやつ、怖くないの?」
「ううん、全然。魔物の方がよっぽど怖いよ」
コンプレックスの話から適当に話題をはぐらかしてみると、純粋なネメスはあっさり答えを返してきた。
「意外……でもないか。毎日公園で過ごしてたら、そのくらい図太くもなるわよね」
「そうだよ~。イズお姉ちゃんは幽霊怖いの?」
「あ、アハハ! そ、そんなわけないでしょ、馬鹿馬鹿しい。私は自分で見たものしか信じないわ!」
返された質問に一瞬心臓が跳ねる。腰に手を当てて胸を張り、大人の余裕を装ったが、声が上擦ってしまっていた。
「ふぅん、そうなんだ。……あっ! あそこで牛乳売ってるよ、飲も~」
興奮した様子のネメスがイズの手を取り、番台の方を指差す。
(どうやらバレてないみたいね。完璧な姉のイメージはまだ崩れていないようだわ)
ホッと胸を撫で下ろして、落ち着きのないネメスから自分達の荷物に視線を移す。
「はいはい。ちょっと待ってね」
イズは返事をしながら忘れ物がないか確認する。そしてその後、隣で駆け足をしているネメスの手を引いて脱衣場を出た。




