7話「男の温泉回」
カポンッと桶を置く音が小気味よく夜空に響く。
勇者一行は晩御飯を食べ終え、近場にあった温泉へとやってきていた。
夜遅くに訪れたため、男湯の方に人はいない。上空には満天の星に囲まれて煌々と光を放つ青色の満月が浮かんでいた。
「ふぅ~、食った食った。初めは面食らった品もあったが、なかなか美味えな、ニホンの飯もよ!」
「ああ。それに、たらふく食った後の風呂は至高だ」
腹を撫でてホクホク顔なエルの言葉に、真顔ながらも上機嫌で応じるヴィーレ。
ヴィーレ、エル、カズヤの三人は、湯気の立ち込める風呂へ腰まで浅く浸かり、疲れと共に深く息を吐き出した。
高級な料理を食べられて、綺麗な風呂に毎日入れる。農民だったヴィーレにとっては長い冒険生活の中で多幸感を得られる数少ない機会だ。
思えば、この魔王討伐を目的とした旅というのは、イズがいなかったら相当酷いものになってちたんじゃなかろうか。
雑魚寝の宿、味気無い飯、魔王城近くでの移動は馬車がないため徒歩を強いられるだろう。考えるだけでも気が遠くなってくる。
(本来それが普通のはずだったんだが、こんな生活をしていたら、なかなか抜け出せないよな。俺、農民生活に戻れるんだろうか……)
ヴィーレは空を仰ぎ見て、未来の自分に思いを馳せてみた。食いしん坊の彼からすれば甚だ重大な問題である。
かといってネメスと約束した以上、今回もむざむざ死ぬわけにはいかないし、板挟み的でなんとも複雑な心情だ。
「自分で作っておいてなんだけど、まさかあの量を五人で食べきれるだなんて、思ってもみなかったよ」
苦笑気味に告げられたカズヤの言葉で、ふと我に返るヴィーレ。
(そうだったな。あまりの美味さに無我夢中だったが、あの量は普通五人じゃ無理だろう。そのうち二人は若い女の子だったんだから尚更だ)
なにせ十品近くあった料理である。一つの品だけ取って見ても、それなりにボリュームがあった。
事実、ほとんどの品が半分も減っていない段階で、イズとネメス、カズヤの三人は満腹になってしまったようだ。
しかし、彼女達が限界を迎えた後に残ったものは、微塵も残さずヴィーレとエルが平らげたのである。
食事後、「非常に美味であったぞ」などと平気で宣っていた二人だったが、他三人の激しい困惑は感じ取れなかったらしい。
「まあ、俺とヴィーレは普段からエネルギー使う仕事してるからな! 食う量が違うのよ!」
エルは快活に笑ってから力こぶを作ってみせる。
彼は魔物を倒す『ハンター』という職業に就いている。日頃から訓練してるだけあって、逞しい肉体をしていた。元から恵まれた骨格を持っていたのも貢献しているのだろう。
ヴィーレもそんなエルと同じく、適度に日焼けした筋肉質な体つきだ。上半身は勿論、太腿やふくらはぎにも引き締まった筋肉を纏っている。農作業は結構ハードだったらしい。
カズヤは以上の二人といるから、あまり目立たないけれど、明らかに平均的な日本人男子の肉体ではなかった。着痩せするタイプなのだろうか、可愛らしい顔つきからは想像もつかないような妖しい色気を色白な肌から放っている。
しかし、彼らの持っているような鍛え抜かれた身体も、この世界では御守り程度の効力しか持ち得ない。
結局、異世界では他の命を多く殺した者が強くなれるのだ。ただしそれも、呪文という生まれつきの才能を排除した場合の話だけども。
「にしても、お高いだけあって素晴らしい夜景だなァ~……。酒でも飲みてえ気分だぜ」
「いいな。贅沢だからと控えていたが、たまには酒も悪くない。そういえば、カズヤの故郷にも、夜にはこんな景色が広がっていたのか?」
「うん? あぁ、そうだね……。大体は同じかな。日が沈むと空が暗くなって、空気も涼しくなるよ」
「『大体は』ってことは、どこか違うところもあったのか?」
エルに尋ねられたカズヤは青白く照らされた空に故郷のそれを重ねていた。その心中を異世界組の二人が察することはできない。
「月は黄色かったよ。夜景の材料も星じゃなかった」
「ていうと……星が無かったのか? だとしたら代わりに何があったんだよ?」
「残業した社畜達のいるビル群だね」
カズヤはヴィーレの問いに即答する。
ヴィーレはエルと目を合わせて困り顔をした後、もう一度質問を投げてみた。
「『シャチク』って何だ?」
「夜遅くまで働いてる人のことだよ」
「何だ、それならこっちにもいるぜ。ギルドや酒屋で働く奴らだ。夕方から夜まで勤務してる」
「違う、違うよ、エル。社畜は朝から深夜まで働いているんだ。一日のほとんどを机に向かって過ごすんだよ」
「おおぅ……。ファッキンクレイジー……!」
エルが露骨に顔をしかめる。表情筋だけでも「イカれてやがるぜ」と語れそうな顔だ。
「こっちの世界に生んでくれた母さんに感謝だな……」
「そうか? 俺から見れば、どっちもどっちな気がするけどな」
顔を洗うエルに応えている途中で、ヴィーレは大きな欠伸が漏らす。
(湯船にずっと浸かっているからか、だんだん眠たくなってきたな。帰ったらすぐに眠れそうだ)
心地よい眠気が脳の働きを阻害し始める。
けれどそれはエルの話題転換で一旦吹き飛ぶことになった。
「にしてもよォ、ネメスちゃんがあんな事を言い出すなんてな……」
「僕もあれには驚いたよ。ヴィーレ、待ってる間に君達は二人で何をしていたの?」
「特に何もしていない。ただの人生相談だよ」
カズヤとエルから向けられる視線から逃れるようにヴィーレはお湯で顔を洗った。
そう、彼は何もしていない。初めてネメスに会った時もそうだったように、いつだって変わる勇気は彼女が一人で生み出してきたのだ。
ヴィーレ達が風呂から出ても、イズとネメスはまだ入浴中なようだった。
男達は他に客がいないのを良いことに、こちらの世界の遊びをしたりしてバカ騒ぎしていたのだけど、それよりも遅いとなると相当な長風呂派なのだろう。逆上せていないといいが。
「そういえばカズヤよ、お前って森の中で気絶してたのを発見されたんだろ?」
どんどん大きくなる睡魔に耐え兼ねたヴィーレが椅子に腰かけた状態でうつらうつらとしていると、エルが思い出したようにカズヤへ尋ねる。
「うん。僕の感覚では、ある日眠って起きたら全然違うベッドの上にいたって感じだったよ」
「そうそう。その件について、知らせときたい事があるんだ。この前よ、勉強会した時に俺がイズから借りるって言ってた本があっただろ? これまで発見された呪文の種類が載ってる本だよ。あれ真剣に読んでたらさ、ある呪文を見つけたんだ」
大袈裟に身振り手振りを交えて話す。勉強苦手なのに律儀に熟読してるあたり、彼もイズとの距離を縮めたいと思っていることが窺える。
「呪文? なんか珍しいものでもあったの?」
「まあ、そうとも言えるな。呪文一覧の中によ、『サモン』ってのがあったんだ。召喚の呪文だよ。説明文には、『異世界から術者に遣える何らかの生物をこの世界へ呼び出します~』みたいなことが書いてあった」
「召還だって……? という事は、僕もその呪文によってここに……?」
ヴィーレの眠気は限界まできていた。
カズヤ達の困惑したような声が遠くなっていくような錯覚にとらわれる。二人が話に熱中しているせいで彼の様子を察知する者は誰もいない。
「その可能性は大いにあるってことだな。問題はその呪文の主だが――――」
意識は闇に沈んでいき、深淵に辿り着く前に途絶える。
結局、ヴィーレは彼らの会話を最後まで聞き終えることはできなかった。
ふっと、ヴィーレは暗闇にて目覚めた。
だが、妙におかしい事がある。両目を薄く開いているのに何も見えないのだ。
手探りで辺りを探ってみると、手足にベッドのシーツや毛布の感触が伝わってきた。ヴィーレはそこで全身をを震わせ、反射的に体を縮こまらせる。
「うっ……さ、寒い……」
顔や身体の末端、肌の露出している部分がひどく冷えている。どうやら風邪を引きそうな状況で眠ってしまっていたらしい。
自身の体を抱くようにして困惑していると、だんだん暗闇に目が慣れてきた。そこでようやく彼も自らの現状を把握できるだろう。
(あぁ、毛布の上に乗って眠っていたのか。この様子だと、屋敷に帰ってきてから、速攻でベッドにダイブしたらしい。昼は暖かいが、やはり夜は冷えるな)
毛虫のように動いて毛布を被りなおし、再び睡魔に身を委ねる。彼は食欲と睡眠欲には恐ろしいほど素直な男であった。
段々と体も温まってくる。心地の良い、闇に落ちていくような感覚だけに意識を向けていた、その時――――
ガチャ、キィ……カチャ。
突然、そんな音が間近から聞こえた。
ヴィーレは静かに息を飲む。そして同時に一つの可能性が思い至った。
(もしかして俺、部屋の鍵をかけ忘れていたのか? 就寝する前後の記憶が無いくらいに疲れていたんだ。可能性としては十分あり得るぞ。まったく、みんなには閉めるように言っておいて、当の本人がこのザマとはな……)
静かに溜め息を吐く。勇気パーティーのリーダーとして、非常に恥ずかしい失態である。
だが、考えようによっては、事態はそれほど悪くも思えなかった。
(何はともあれ、これはチャンスだ。部屋に入ってきたのが幽霊とやらの正体ならば、今ここで俺が決着をつける。そしてさっさと寝る!)
彼はどうやら寝起きの悪い男らしい。
安眠を妨げる邪魔者に私怨たっぷりの苛立ちを覚えながら、できるだけ自然な寝息っぽい吐息を漏らすことに集中した。
対象は確かに部屋に侵入しているようだ。「カツ……カツ……」と足音を立てながら、ゆっくりとベッドへ近付いてくる。
ヴィーレが集中して耳を澄ませ始めた頃、『それ』はもう既に彼の枕元に立っていた。
(薄目だとバレる恐れがある。気配で距離を察知するしかない。最悪、何かが触れた段階で相手の体を掴むんだ……!)
計画は頭の中で素早く構築されていくものの、未知への恐怖と緊張で鼓動がだんだん早くなる。
そっと『それ』がヴィーレの肩に触れた。人の手だ。
「……っ!」
手の主が何か仕掛けてくる前に反撃に出るため、その手を掴む。ヴィーレの分厚い皮に包まれた手のひらが『それ』の細腕を捕獲した。
「きゃっ!」
瞬間、『それ』が短い悲鳴をあげる。「随分可愛らしい声を出す幽霊だな」と、ヴィーレが視線を向けた先には――――
「な、何よ……。起きていたのね……」
涙目で顔面蒼白になっているイズがいた。
いつもと違って声にも覇気がない。手も震えているし、様子が明らかにおかしかった。
「イズ? どうしてここに?」
「えっ……えと、あの、その……っ!」
「落ち着け、落ち着け。とりあえず……そうだな、ここに座れよ」
軽くパニックに陥ってる彼女を宥めるヴィーレ。体を起こして足だけをベッドから下ろすと、自分の隣をポンポンと叩いた。
「あ、あんたが突然掴んでくるからビックリしたじゃない! 平民は驚かし方まで下品なの!?」
「いや上品な驚かし方って何だよ。驚かせたのは謝るけども、いつにも増して言動が変だぞ、今のお前」
「……いえ、私も冷静じゃなかったとはいえ、酷いこと言っちゃったわね。身分は関係無かったわ」
「謝るポイントは俺が下品って部分だと思うんですけど」
ヴィーレのささやかな抗議も聞く余裕がないようで、イズは彼の隣に腰かけると深く前傾して息を吐いた。
「……どうしたんだ? 何があった」
「私の部屋でさっき、変なことが起きたわ。誰かのイタズラかもしれないけど、でも、その……怖くて」
「なるほど。ゆっくりでいいから初めから話してくれるか? 何なら今からネメス達を集めるぞ」
「……いいえ、そこまでしなくてもいいわ。あんたに話せば頭も冷えるかもしれないし」
彼女は数秒の逡巡の後、わずかにヴィーレとの距離を縮めると、まだ少し揺れている声で事の顛末を語り出した。
「私が屋敷の部屋に帰ってきた後から話すわ。実は――――」




