6話「異世界五分前仮説」
図書室の一角。窓から差す光が届かず、日陰となっている位置。
靴脱ぎ場を越え、段差を上った先にある、フローリングの読み聞かせスペース。
そこに勇者パーティーの仲間、ネメス・ストリンガーはいた。こちらに背を向け、屈んで何かに手を伸ばしている。
「おーい、ネメス」
ヴィーレは歩み寄りながら声をかけるが、彼女は振り返る素振りを見せない。目の前のものに気を取られているようだ。
が、その様がヴィーレには別の事象によるものと思えたらしい。有り体に言うと、『人違い』である。
(もしかして、俺が見誤っているのか? 彼女、ネメスに似ているだけで、実は悪魔の子だったり……?)
足を止め、数メートル先の少女の背を注視するヴィーレ。彼は口元に手を当てて、指で顎を二度ほど擦った。
(人違いだったら邪魔になってしまうだけだな。ダメ元で、先に調べてみるか)
彼がそう思考するや、両の瞳がさらに鋭く細められた。
二つの朱はネメスの背中を捉えたまま。
ヴィーレは暗闇に立ち尽くした状態で、今度は少女へ聞こえないように、分析の呪文を詠唱する。
「《チェック》」
だが、その瞬間、勇者の体に異変が起こった。
脳を鷲掴みされたような酷い頭痛に襲われ、視界が激しく乱れだしたのだ。テレビの砂嵐が世界の全てに置き換えられたような、気持ちの悪い錯覚だった。
「ガ、ァ……ッ!」
思わずヴィーレも呻き声を漏らす。
頭を押さえて膝から崩れ落ちそうになりながらも、必死に歯を食い縛って堪えた。いきなりの事態に理解が追い付かない。
(な、何だ……これは……ッ!?)
耳鳴りと砂嵐から逃れるように、両目をきつく閉じる。
すると、真っ暗になった視界の中に、ようやく待ち望んでいたものが浮かび上がってきた。チェックの文字列だ。
【レベル404・危険性の高いロジックエラーが発生している】
しかし、その内容はいつにも増して不可解であった。
ヴィーレは瞼を下ろしたまま眉間を狭める。頭痛と耳鳴りは段々と強烈に、深刻化していった。
彼が先の文章を読み終えた頃、続けて複数のメッセージが早送りで羅列され始める。
【魔物の起源と正体を掴め】
【今のうちに盗賊の目的を解明しておくべきだ】
【一刻も早く、『人間の魔物』が存在しない理由を突き止めろ】
雑音が荒々しさを増していく。
とてもじゃないが、ヴィーレはそれらの文章を悠長に読んでいられる状態になかった。
とはいえ、たとえ彼が正常な場合であっても、ハヤテの如く流れていく文字達を目で追う事はできなかっただろうが。
【イズとエルの二人を勇者の仲間として推したのは誰か】
【アルルが『無敵の戦士』と呼ばれている所以は?】
【レイチェルから城の構造や住人の人物関係について、聞き忘れた事は無かったか】
【サタンの最終的な目標は何だ】
【レイヴンがわざわざ側近になるほど、一人の少女へ忠誠を誓っている動機は?】
【ウィッチが『魔法使い』を自称しているのは何故だ】
メッセージは勇者を待ってくれない。サウンドゲームをスキップモードで見られるような高速送りだ。
上下左右、あらゆる方向から視界に侵入してくる疑問符。
そうしてやがて、襲い来る文字列の大群は、その凄まじい文圧だけで、瞑られた瞼の裏に白い闇を作り出すだろう。
【ノエルは一体どうして、これまでの冒険でサタンを助けようとしなかった?】
と、そこで急速に異変が収束する。
ヴィーレが何も理解できていない間に、呪文の暴走はまたも唐突に終わりを迎えたのだ。
勇者は顔をしかめながら頭を振る。どうやら先の異常は一瞬の出来事であったようだ。再発も余波も全く起きない。
ヴィーレは自身の体調不良を疑ったが、呪文が暴走するなどというのは、これまでに体験した事のない未知の現象だった。
(とうとう狂ったか……? 前々から役立たずだとは思っていたが、まさかここまでとは……)
分析の呪文に対して心中で文句を垂れる。
彼が再び前を向くと、そこには先ほどまでと同じ図書室の一角があった。
もうすっかり元の光景である。しかし、やっぱりまだ暗い。
(……しばらく呪文の使用は控えるか)
どうせ使う機会も滅多にないだろうし。そう内心で付け加えて。
ヴィーレは原因と思わしきチェックを自ら封じると、本来の用事へ戻る事にした。
ネメスの真後ろまで近付いてくると、勇者は彼女の傍らに置かれているぬいぐるみと、猫の図鑑を発見するだろう。
(俺のあげた白猫の玩具だ。本当、いつも連れて歩いているな、コイツ)
かつて自分が贈ったぬいぐるみを一瞥するヴィーレ。
ここまで気に入られると、新しい物をプレゼントしづらくなるから、かえって困ってしまうものだ。
(まあ、何はともあれ、今はネメスの確認を優先しよう。……一体何に夢中になっているんだ?)
ヴィーレは彼女の隣まで移動し、膝を曲げて目線を合わせた。
やはりそれはネメスだった。
ぬいぐるみを連れている時点でほとんど確定はしていたが、やっぱり図書室の一角にいたのは、ネメス・ストリンガーであった。
勇者は訝しく思いながらも、彼女に話しかけてみる。
「おい、ネメス?」
「んー? あっ、お兄ちゃん。おはよう」
「あぁ、おはよう。こんなところでどうしたんだ? イズ達の遊びに混ぜてもらったら……」
どうだ、と提案しかけたところで、ヴィーレは初めてもう一人の存在に気付いた。
ネメスの正面、彼女が先ほどまで目を向けていた場所で、獣耳を生やした少女が丸まっている。
銀狐の悪魔、フォクシーだ。
自身の尻尾を股の間から体の正面に回し、それを抱き枕にしてスヤスヤ寝息を立てている。随分と気持ち良さそうだ。
「猫さんの図鑑を読んでいたんだけど、突然この子が寄ってきて、わたしの隣でお昼寝しだしたから……」
小声で説明してくれるネメス。
彼女は言い終えたところでハッとしたような顔になり、フォクシーの獣耳へ伸ばしかけていた手を、慌てて胸元まで引き戻した。
「……撫でようとしていたのか?」
けれど、速攻で彼女の働こうとしていた行為を看破していくヴィーレ。敢えて空気を読まないスタイルだ。
対するネメスは、気まずそうに視線を明後日の方向へやっている。
わずかに頬が赤い。フォクシーから近付いてきたとはいえ、見知らぬ相手へ失礼な事をしようとしていた自覚はあるようだ。
「こゃーん」
不意にフォクシーが欠伸を漏らした。瞬間、ヴィーレ達の視線が彼女に集中する。
銀狐はモゾモゾとネメスのもとまで這い寄ると、そのお腹に抱きついて再び眠ってしまった。
温かくて優しい匂いのするものを見つけて安心したのか、冬毛特有の丸太い尻尾だけはご機嫌そうに揺れ動いている。
互いに顔を見合わせるヴィーレ達。
その後、ネメスは恐る恐るといった様子で、フォクシーの頭を撫で始めた。
抵抗はない。銀髪に手櫛を通されようが、獣耳を揉まれようが、フォクシーはネメスの膝枕から頭を上げる事はなかった。むしろ、喉をゴロゴロ鳴らしてじゃれつきを増してくる。
「……ふふっ」
その無邪気な寝顔にネメスは小さく吹き出してしまった。
「可愛いね。見た目はワンちゃんっぽいけど、行動は猫さんみたいに自由気まま」
「ああ。それにしても、尻尾や耳ってのは本物みたいに動かせるものなんだな。系統は……獣型か?」
「狐さんなんだって。さっきちょっと話した時に教えてくれたよ」
ネメスは苦笑してから「それだけ言ったら寝ちゃったけどね」と付け加える。
そこで、ヴィーレもフローリングの上に腰を下ろした。
隣に座ると、フォクシーがわずかに鼻をヒクつかせたが、それだけの変化だ。目覚めはせずに、ネメスから愛でられ続けている。
ヴィーレは緩やかな時間の流れを感じつつ、独りごちるように言葉をこぼした。
「動けなくなってしまったな」
「うん。起こすのも悪いし、わたしはこのまま猫さん図鑑を見ていようかな」
視線だけは爛々と光らせて、フォクシーを見下ろしたまま、片手で傍らの本を掬い取るネメス。
ふと、その橙色の瞳がこちらへと向けられた。
「面白いよ。お兄ちゃんも一緒に見る?」
「……ああ、ちょうど暇を潰していたところだ。見させてもらおう。俺も動物は好きだしな」
魔王城の間取りを覚えるのは急ぎの用事でもない。ヴィーレは密かに今日の予定を塗り替えた。
「お前、もう本が読めるようになったのか?」
「そうなのっ! イズお姉ちゃんが文字の読み書きを教えてくれたおかげ! 簡単な内容なら図鑑以外も読めちゃうよ!」
「おお、偉いな。大したもんだ。こんな短期間で字を覚えられるだなんて」
勉強熱心な少女に感心し、素直な気持ちを純粋に伝えてやる。
褒められたネメスは嫌味のない笑みを浮かべて、隣に座るヴィーレの肩へ顔を預けてきた。身長差のせいで腕に寄りかかるような形になる。
(人懐っこい猫みたいな性格してんな、コイツな)
自身へ向けられている淡い恋心など知る由もないヴィーレは、そういった呑気な感想しか抱かないだろう。
しかし、甘えてくる少女を拒否する理由もないため、彼がネメスの行動をわざわざ指摘する事もなかった。
とりあえず視界に入った図鑑を指差し、適当に話題を変えてみる事にする。
「小説は読まないのか? ネメスのオススメする作品なら、俺も楽しめると思うんだが」
何の気なしに投げた質問である。
けれど、ネメスはどういう訳か、「あー……」と言葉を伸ばして返事を迷っていた。
だが、正直に観念する決心ができたのだろう。
ヴィーレから体を離して、再びフォクシーに視線を落としながら、答えを返してくれる。微かに沈み落ちた口調で。
「実はわたし、物語はあまり読まないの。妙に強い苦手意識があって」
「ふぅん……。意外だな。メルヘンな世界のお伽噺なんか、大好物そうなのに」
「えへへ。お兄ちゃん、ウィッチお姉ちゃんと同じ事言ってる」
おかしそうに微笑むネメス。
彼女は目を細め、遠くでイズ達がまだ勝負に明け暮れているのを確認した。
それから、何もない空に視点を固定する。まるで遠く薄れてしまった幼少の記憶を回想するように。
どうやらネメスは『苦手意識』とやらについて詳しく話してくれる気になったようだ。
「本を読み終えるとね、何だか悲しい気分になる事があるでしょ? 寂しいというか、何かが抜け落ちちゃったというか、そんな感覚」
「あぁ、確かに。一種の喪失感みたいなものはあるな」
「でしょ? それってね、わたしは物語の世界が終わったからだと思うんだ」
ネメスは珍しく暗い話を続ける。意味ありげな言い回しと、神妙な面持ちで。
「一つの世界が紙束の上に広がっていて、文字列が途切れた瞬間、わたし達から『世界を覗く権利』は奪われちゃうの」
彼女は難解な事柄を易しい表現に変換するのが上手だった。
おかげで、決して賢くはないヴィーレの脳にも、ネメスの伝えたい事柄はある程度伝わってくるだろう。
「その後の世界がどうなるのかは、作者や読者にしか分からない。ただ確かなのは一つだけ。カミサマにも見捨てられた世界は、存在しないも同然になるという事」
要するに、忘れ去られたものや認知されなくなったものは、消えたも同然になるという話だろう。
関連したものに『人は忘れられたとき、二度目の死を迎える』という格言がある。悪魔の国でも有名な言葉だ。
この説が指し示す現象は、たとえ対象が世界であろうが変わらない、普遍の真実である。
ネメスが語っているのはそういう考えだった。
「幸せな結末を迎えたヒーローも、王子様と結ばれた町娘も、全てが無かった事になっちゃう」
認知できなくなった世界、物語が終わった先には、膨大な数の『死』や『虚無』しか存在しないのではないか。
そして、これこそが漠然とした哀愁を自分達の中に生み出すのではないか。
彼女はそういった疑問をぶつけるように台詞を紡ぐ。
対して、ヴィーレは目の前をチョロチョロ動くフォクシーの尻尾を眺めていた。
が、頭はしっかり働かせている。彼はネメスの話が一段落した事を悟ると、すぐに本音を返すだろう。
「変わった考え方だ」
「あはは。だよね……」
こぼされたのは乾いた笑いだった。
歯に衣着せぬ評価を受け、ネメスは肩を落としている。
どうやら『変な子だ』と告げられたように感じてしまったらしい。自身の好感度が下がるのを恐れているようにも見える。
だからだろうか。次にネメスが白状したのは、どこか言い訳じみた、昔の秘密話であった。
「これね、わたしが小さい頃に、とっても偉い人から教えてもらったの。それが誰かは忘れちゃったけど、さっきの言葉を聞いてからは、素直にお話を楽しめなくなっちゃったな……」
彼女の話は責任の擦り付けに思えなくもなかったが、それでも嘘は吐いていないみたいだ。
トランプのババ抜きや、ダウトが弱いタイプの女の子だから、確信を持って言える。ネメスは過去を捏造していない。
そうなると、どうやら先ほど語られた思想は、ネメスが考えついたものではないようだ。
むしろ、件の思想には彼女自身も苦しめられているらしい。そのせいで純粋に物語を楽しめない呪いにかかっているのだから。
(微妙に否定しづらい説なのが厄介だな。教えたの、絶対子どもじゃないだろ。ろくでもない大人もいたものだ)
思わず掘り出してしまった地雷にヴィーレはウンザリしてしまう。
ともかく、正体不明の誰かについて考えるくらいなら、目の前のネメスに立ち直ってもらうべきだ。
ヴィーレは腰を上げると、自分の胸を叩いてみせた。
ネメスと目が合う。と、絶好のタイミングを逃さず、全身全霊で頼もしそうに振る舞ってから、ヴィーレはこう告げた。
「それなら、俺が見つけてやるよ。お前が夢中になれる物語を」
迷わずに言えたのは、彼自身もできると信じていたからに違いない。
ヴィーレの言葉に意表を突かれ、困惑していたネメスだったが、しばらくすると瞳を揺らしながら尋ね返してきた。
「いいの……?」
「勿論さ」
ヴィーレは即答する。
「これだけ数があるんだ。きっとあるだろ。ネメスの悩みを解決してくれるような作品が」
そうして、後ろにある本の山を指し示した。
人間の価値観を変えるのは難しいようで案外容易い。それこそ、一冊のお伽噺でも十分可能なくらいに。
ヴィーレは下した決断を疑わななかった。両腕をゆっくり組むと、その場から辺りを見渡していく。
「ふむ……」
数えきれないほどにある蔵書も、律儀にジャンルごとで分けられているらしい。
文芸書、実用書、児童書から専門書まで。また、それらの中でも要素や項目で細かく分類されている。
ヴィーレは数多ある本棚の一つに目をつけると、そちらの方角を指差した。
「よし、決めた。ネメスでも読めるように、まずは絵本から探してみよう」
「えっ。でも絵本って、子ども向けの本でしょ? ヴィーレお兄ちゃんは楽しめないかもしれないよ?」
「傑作の絵本は大人が読んでも楽しめるものなんだよ。『子ども向け』と『子ども騙し』は違うんだ」
そう応えると、ヴィーレはネメスに背を向けて歩を進めだした。
「それじゃあ、適当に見繕ってくるよ。期待して待ってろ」
肩越しに伝えて去っていく勇者。
「……うんっ」
ネメスの返事が聞こえる頃には、彼は既に暗闇から抜け出していた。




