3話「冒険が与えた副作用」
レイヴンと風呂を共にした、その日の夜。
ヴィーレは自室のベッドに入り、今まさに眠りに就こうとしていた。
綿のようにも感じられる低反発マットレス、仄かに洗剤の匂いが香る二つの枕、そして青系統の色で統一された部屋のインテリア。
最高に落ち着く空間だ。もしかすると、自宅のベッドよりも居心地が良いかもしれない。
仰向けに寝転がって、顎下まで掛け布団を持ち上げ、瞳を閉じる。風呂上がりで体温が急降下したからか、猛烈な眠気が襲いかかってきた。
手足が重くなっていく。呼吸で膨張収縮する腹部にだけ集中させていた意識が、徐々に薄れていくのを感じた。
(至福の一言に尽きるな)
毛布の肌触りを楽しみながら、染々とそう思う。人生で最も豊かな時間だ。
彼の魂は急激に夢の中へと落ちていくだろう。
が、そこで、遠慮がちなノック音がヴィーレの体をビクつかせた。何者かが部屋を訪ねてきたのだ。
突然の来客のせいで、ヴィーレは完全に目を覚ましてしまう。
起こされた事に対して少々不機嫌になりつつも、彼は上体を起こした。部屋履き用のスリッパに爪先を通して入り口のドアに近付いていく。
「はいはい。誰だよ、こんな時間に」
もう一度ノックされたところで、ヴィーレはぶっきらぼうな返事を返しつつ、扉を片手で引き開けた。
だが、消灯済みの廊下に誰かの姿は見当たらない。
いいや、実際のところ、来訪者はいたのだ。身長の高い勇者が捉えきれていなかっただけである。
彼はふとその可能性に思い至り、わずかに視線を下げてみた。すると、今度は簡単に発見するだろう。
就寝の妨害をしてきた犯人。
猫耳フードが特徴的な、薄緑のパジャマを纏っている人物。
ショートパンツで太腿が冷えるのか、いじらしくモジモジと身動ぎしている少女。
ネメス・ストリンガーだ。彼女は現在の格好と違わず、借りてきた猫のようにビクビクしている。
「あ、あの……」
こちらが用件を尋ねる前に、ネメスは口を開いてくれた。
「お兄ちゃん、今日、一緒に寝てもいい?」
「ん、別に構わないが……。いきなりどうした? 怖い夢でも見たか?」
「ううん。ただね、何だか……その、寂しくって……」
腰を屈めて目線を合わせてやると、彼女は恥ずかしそうに俯いてしまった。返された声は弱々しい。
皆と絶えず一緒にいたのがかえって災いしたのだろうか。ヴィーレは内心で不安感の原因を推測する。
ネメスは冒険生活の反動で、ちょっとだけ寂しがり屋になってしまったみたいだ。
(アルストフィアで家無しだった頃は、独りでいる方が多かった分、余計に孤独を恐れているのかもしれないな)
過去に幾度となく見せつけられた、ネメスの鬱々とした姿。それがヴィーレの脳裏を一瞬だけ過った。
勇者の顔が微かにしかめられる。嫌な記憶だ。忘れられない分、さらに煩わしい。
彼は重たそうに腰を上げると、顎で室内を指してみせる。
「寒いだろ? 中、入れよ」
「う、うんっ!」
お願いを聞き入れてやると、ネメスは嬉しそうに頷いた。
「お邪魔しまーす」
何故か小声でそう挨拶してから、部屋の扉を閉める彼女。
暗がりでよく足元が不安なのだろう。ヴィーレの背後を頼りにして、覚束ない足取りでついてきた。
どうせまたすぐ寝転がるのに、ネメスはこちらの手を握ってくる。細く短い指先は寒さでほんのり赤く悴んでいた。
(前から感じていたが、二人のときは頻繁に手を握ってくるな、コイツ)
後ろの猫パジャマを横目で観察するヴィーレ。
ネメスはこちらの右手を両手で揉んで暖をとっていた。時たまそれらを擦り合わせて、摩擦熱を作ろうとしている。
「……ん?」
二人仲良くベッドに潜り込んだところで、ヴィーレは今更ながらに疑問を抱いた。
恐らく、彼と同じ立場にあれば、ほとんどの人物が初めに持つであろう至極普通の疑問である。
「ネメスよ。ところで、どうして俺なんだ? イズやサタン、ウィッチの部屋はもっと近いだろうに」
聞くと、ネメスはキョトンとした顔になった。
が、その後、おかしそうに笑ってこちらとの距離を縮めてくる。パジャマのフードが描かれた猫の顔と間近で目が合った。
「イズお姉ちゃんのところには、ぬいぐるみの猫さんをお泊まりに行かせてるよ~。今日はお兄ちゃんに甘えたい気分だったの!」
ネメスは毛布の中の暖気にホクホクしながら、更なる温もりを求めてヴィーレにすり寄ってくる。
ふと彼女の足先がヴィーレの膝に当たった。
一瞬、氷が触れたのかと錯覚してしまう。ネメスはどうも末端冷え性を患っているみたいだ。
「それに、お兄ちゃんも寂しがっているかと思って」
どうでもいい事を考えている間に、ヴィーレの顔はネメスの胸へ抱き寄せられていた。
モコモコな布地に顔から突っ込む勇者。主張の弱い柔らかみが彼を迎えてくれた。控えめな心音が安らかな心地を与えてくれる。
しかしながら、当のヴィーレは面映ゆい感覚に襲われていた。
けれど、彼がそれを表に出す事はないだろう。ネメスの前では格好つけたがるのが勇者の悪い癖だ。
「まさか、お前から子ども扱いされるとは……」
ヴィーレは無表情のまま、相手の台詞を茶化そうとした。分かりにくい照れ隠しである。
だが、彼の本性についてはネメスの方が熟知していたらしい。
少女は反抗期の子どもを落ち着けるような慎重さで、ヴィーレの背中を優しく撫でた。その表情は慈しみに満ちている。
「お兄ちゃん、寝ぼけてて覚えてないかもだけど、結構甘えたさんだよ? 冒険中にお泊まりした時も、誰かと一緒に眠っていないと、いつも苦しそうに魘されていたし」
頭の上で囁くネメスの声に、ヴィーレは何も言い返せなかった。
実は、彼自身も薄々自覚していた事である。
長く苦しい冒険生活。あの日々を生き延びられたのは、他でもない、仲間達の存在があったからだ。
魔物の王を倒すこの旅。それが与えた副作用は、勇者にも多大な影響を及ぼしているのであった。
「ほら、我慢しなくていいんだよ? わたしはどんなお兄ちゃんでも受け入れてあげるから。それに、今なら誰も見ていないから。わたしに目一杯甘えてみて」
抗いがたい誘惑がヴィーレの首筋を這い上がる。顔面に伝わるパジャマの感触は、まるで雲のような気持ち良さだ。
気が付けば、彼はネメスの腰に手を回そうとしてしまっていた。眠気も重なって、正常なら働く理性が削れているようだ。
(だ、駄目だ……! 気を確かに持て、俺! 相手はあのネメスだぞ!?)
抱き締め返すのを何とか寸前で思いとどまるヴィーレ。
彼は保護者としての義務感のみで踏ん張りながら、ネメスの匂いにクラクラしている頭をフル回転させた。
(マズイ……! このままじゃ、コイツに落とされる……! ダメ人間にされてしまう……!)
咄嗟にネメスの肩を掴み、彼女の拘束から抜け出す。
ストレートな愛情表現が勇者の弱点らしい。
そういう点で、ネメスは本当に最悪の相手であった。
せめて別の出会い方をしていたら、彼女を妹や娘としてではなく、一人の女として見てやれただろうに。
ヴィーレは疑問符を浮かべているネメスへ慌てて言葉を投げかける。
「そ、そういえばこの前、ふと思ったんだが……!」
耳奥に残る魅惑的な残響を払いのけるようにして、話題を変える事にした。
「魔力って『何にでも変化し得る何か』なんだろ? だったら、変形の呪文で氷雪の呪文や火炎の呪文みたいな現象も再現できるんじゃないか?」
思いつきで放った、頭の悪い質問だった。
「え、えーっと……」
ネメスも話の流れを切られた事で、若干の戸惑いを表している。
だが、そこは流石、純粋無垢を地で行く少女。
離れられた事に対しても特に不満は抱かず、素直に悩み考えた末に、できるだけ正解に近い回答を寄越してくれるだろう。
「多分だけど、できないと思うよ。変形の呪文は集めた魔力の塊を武器の形に練っているだけだもん。密度を調整しているっていうか、水蒸気を水に変化させている感じ……?」
クネクネと体を捻って、毛布の中に口元まで潜りながら、ネメスは眠たそうに欠伸を漏らす。
「だから、魔力を火や氷に変えたりするのは、別の呪文を介してからじゃないと、不可能なんじゃないかな」
そして、こう結論付けた。イズから詳しい原理を聞いたりはしていないらしい。
目尻に溜まった涙の雫を指で掬うネメスを眺めて、「ほう」と息をこぼすヴィーレ。彼は改めてネメスの才能に感心していた。
(イズの教育のおかげか、元々の素養かは分からんが、頭良いな、この子。魔力や呪文についても、ちゃんと理解しようとしているのか。俺にとっては『よく分からんもの』程度の認識しかなかった)
いや、これについては、自分の教養が無さすぎるのではないか。ヴィーレはそこまで考えたところで、ネメス同様に大きく欠伸した。
いずれにせよ、この短期間での少女の成長は凄まじい。努力している者には定期的に飴を与えてあげるべきだろう。
「要するに、形は変えられても性質までは変えられないって感じなのか。ネメスは賢いな~」
今度はこちらから彼女を引き寄せ、手触りの良い髪を撫でてやる。
すると、ネメスは幸せそうにじゃれついてきた。さっきの図とは正反対である。形勢逆転だ。
いつもの体勢で調子を取り戻すヴィーレ。彼は誰に言うでもなく不意に独りごちた。
「甘やかしてきたと思えば、突然甘えてきたり……。のほほんとしているようで、実はずば抜けた天才だったり……。イズもそうだが、女って生き物は、とことん複雑な奴らだよな……」
「そうでもないよ? 複雑に見せているだけ」
ネメスに返されるが、ヴィーレは「そんなもんか」と適当な相槌を打つ。段々と眠気がぶり返してきた。
目を閉じる前に、もう一度だけ少女の姿を確認する。
(……やっぱり、こっちの方が俺達らしいよな。うん)
腕枕の感触を楽しんでいるネメスに、ヴィーレは自然と安堵する。
彼はネメスが寝付くまでの間、その小さな体躯を抱き締め、温めてあげていた。今日は互いにぐっすり眠れそうだ。