2話「時間遡行のトリック」
魔王城の風呂場は温泉顔負けの規模であった。
百人を裕に利用できる浴場は、一階の西側、東側に男女それぞれの分が配置されている。
そこにはサウナから露天風呂までが新築同然の状態で設けられており、どちらからも異なる絶景が楽しめるようになっていた。
海に沈む夕日が作り出す美しい黄昏と、星空を水面が映し出す宇宙にも似た夜景。
そのうち後者が楽しめる時間帯、男性側の浴場では、勇者が一人まったりと屋内の湯に浸かっていた。
大きなガラスの向こうに映し出される景色を眺めながら、肩までとっぷりと浴槽に入る。
(寒冷な地域では風呂がどうしようもなく心地良いな……。出入りに若干の気力を要するが)
男性風呂の中でも、客人と使用人の入浴時間は明確に区分けされているようだ。
悪魔の方が湯を汚しやすいというのもあるのだろう。客人は使用人よりも早く風呂を済ます事が許されている。
だから、大抵の場合、勇者達は一人で貸し切り風呂を楽しむ事ができていた。
「よう、ヴィーレ」
しかし、今日はどうも違ったらしい。背後から渋い声が投げられる。
振り向くまでもなく、声の主はヴィーレの隣まで来てくれるだろう。腰をゆっくりと落ち着かせ、浴槽の縁に肘を置いてきた。
「……レイヴンか。最近は城にいないのに、偶然だな」
ヴィーレの淡白な返事が広い室内に反響した。赤い瞳が湯気に包まれた相手の姿を捉える。
彼に話しかけてきたのは、魔王の側近であり、前代勇者でもあるレイヴン・ファーガスであった。
あれから、二人は良くも悪くもない状態の関係性、距離感を維持している。
特にヴィーレからすると、いつかの戦闘が脳裏にちらついて、どうにも相手へ近付く気になれなかったのだ。
それがここに来て、向こうから話しかけてくれた。
僥倖である。レイヴンとの仲を改善したいなら、今が絶好のチャンスだろう。
(ついでだから、雑談でもしておこう。ずっと無言でいるのもかえって変だしな)
ヴィーレは自身へ言い訳を述べるように外の景色へ視線を戻した。前髪から垂れた滴が水面に落ちる。
(前から気になっていた事でも聞いてみようか。別に聞きたい話もあるけれど、それは長くなる案件だし、またの機会でいいだろう)
彼はわずかに居住まいを正した後、顔は前方に向けたままポツリと呟いた。
「分析の呪文……」
そして、ようやく隣のレイヴンを横目で窺う。
「あんたもアレの使い手だったよな?」
「ああ。それがどうかしたか?」
レイヴンは先日のような警戒を向けてはこなかった。至って普通に返答を寄越してくる。
連日の調査で疲れていたからか、それとも勇者一行の事情も把握したからか。理由は本人しか知り得ない。
「大した事じゃない。同じ呪文使いとして、何か有効な扱い方を教えてもらえないかと思っただけだよ」
「ふぅん。なるほどね……」
レイヴンは意味深に相槌を打つと、白いタイルの天井を仰ぎ見た。
そうしてしばらく考え込む。長い髪を片手で掻き上げるだけで、彼はいつものオールバックを取り戻した。
「そりゃあ言わずもがな、対象を調べる呪文だろ。魔力量のレベルと、意味不明なメッセージが出てくるっていう」
側近は答えながら浴槽にもたれ掛かる。
熟考した割には浅い答えしか返ってこなかった。弱い呪文については深く掘り下げていないあたり、彼の短絡的な性格が見て取れる。
(やはり他にチェックを扱う奴も、俺と似たような認識なのか……)
レイヴンの返事によって、自身も気付かずうちに落ち込んでしまうヴィーレ。心底では唯一扱える呪文に対する期待もあったみたいだ。
けれど、それはそれでしょうがない。予想はしていた事である。
ヴィーレは次の質問へ移る事にした。
「アレって……チェックを唱えたときに出現する文章って、誰目線の言葉なんだろうな」
それはヴィーレが半ば諦め、放置していた疑問であった。
「魔力量を表す数値はまだ分かる。だが、あのメッセージ……あれは一体何なんだ? たまに意味の分からない文も出てくるし」
そう。レベルの後に毎回紡がれる、何者かの言葉。ヴィーレにはあの正体が気になって仕方なかった。
自分の意識していない本音だろうか。
そう考えると、特殊装備の効果を判定できる説明がつかない。それに、時々ヴィーレですら驚くようなとんでもない内容が書かれるのだから、この説は高確率で外れているはずだ。
では、誰か特定の人物による伝心だろうか。
非現実的すぎる話だ。だとすると、チェックを唱える度に誰かが使い手へ干渉しているはずだから。万能の存在でもいない限り、実現不可能な現象である。
ヴィーレは過去に一度、先ほどと同じ質問をイズへ尋ねてみた事があった。
けれど、『分析の呪文についてのデータが少な過ぎて、答えは全て推測の域を出ないわ』と返されるばかり。
そこで今回の問いかけである。
ヴィーレは冷め始めた肩に湯をかけて、静かにレイヴンの返事を待った。
「さあな。俺にもよく分からん」
二度目の長考の後、返ってきた言葉はやはり粗末で素っ気ないものだった。
だけど、流石にあんまりな返答を寄越してしまったと思い直したのだろう。レイヴンはすぐに付け加えてくれる。
「そもそも、魔力や呪文ってものも、正体は詳しく判明していないんだ。科学力のある悪魔の国でも、それは言える事さ。まあ、魔力や呪文の領域については、人間側のが研究を進めているかもしれないが」
「あぁ……。そういえば、悪魔達は呪文や魔力に頼っていないんだったな」
落胆を隠さずに溜め息を吐くヴィーレ。彼は続けて浴場を照らすライトへ目をやった。
「一から全まで説明がつく分、理論的な『科学』の方がよっぽど信頼できそうだ」
「そうか? 持ってる者からすれば、超常的な力も乙なものだが」
自然に煽ってくるレイヴンへ、自称『持たざる者』なヴィーレは非難的な視線を浴びせる。台詞として出さないだけで『ぶん殴るぞ』とでも言いたげだ。
すると、側近はおどけた身振りだけで、悪意がない事を示してきた。ここでも主導権は握られっぱなしのようだ。
「……まあ、どうだっていいさ。」
吐き捨てるようにそう言って、ヴィーレは質問を切り替える。
「じゃあ、セーブとロードはどんな呪文なんだ? 具体的に聞いておきたい」
当然問われると思われた事柄だった。
だがそこで、レイヴンは口を半開きにしたまま、悩ましげに唸り始める。どうやら回答に窮しているようだ。
前例よりも心持ち長めの熟考を経て、側近はまず前置きから話を始めた。
「教えるのはいいが、他の奴らには内緒にしてくれよ? 巻き戻る前の記憶ってのは大抵ろくな事がないからな」
そう言って、彼は伸ばしていた自身の足をおもむろに引き寄せる。
レイヴンが胡座をかいたのと、ヴィーレが「約束する」と応えたのは、ほぼ同時の出来事であった。
「実を言うと、記録の呪文の方がより重要なんだ」
こちらが首肯したのを確認して、レイヴンは日常会話でもするような口調で語りだす。
「お前には『唱えた瞬間より過去を決定する呪文』と教えたけれど、あの呪文の真価はそこじゃない。自分が死ぬとき、最後にセーブした時間まで戻れるってところなのさ」
そこでヴィーレはようやくレイヴンが何故『人類至上最強』とまで呼ばれていたのかを理解した。
できるか否かは置いておくとして、レイヴンを倒す方法はヴィーレにも考えつく。
相手に時間遡行をさせなければ良いのだ。ロードの呪文を唱えさせず、彼を完封してしまえばいい。
しかし、それじゃあ駄目なのだ。たとえ一時的にレイヴンを倒せても、彼が死ぬか呪文を唱えるかしたら、時は巻き戻ってしまう。
殺せない。詠唱させられない。捕らえようにも、それができる人物自体、滅多に現れてはくれない。
(卑怯なまでに強力な性能だな、それ。なんで俺は仮にも勇者なのに、こんなショボショボの呪文しか使えないんだ……)
ヴィーレは自己嫌悪に陥っている。
分かりきっていた事だが、彼と前代勇者の実力には雲泥の差があった。逆立ちしても到底届かないような、圧倒的な差が。
才能とはこうも明確に残酷だったのかと実感せざるを得ないシチュエーションだ。
が、天才とは得てして、他者を無意識に劣等感で押し潰してしまうものである。
レイヴンはこちらの消沈っぷりに気付かず、一人で話を進めていた。
「読込の呪文は、その過去に戻る行為が死ぬ瞬間以外でも可能になるってだけの、いわばオマケ的な立ち位置だよ。『なんで二つに分かれてんだ』って思うけど、それも考えるだけ無駄なのかもな」
またも投げやりな言い方で話を締める側近。
と、そこで、レイヴンの台詞に違和感を感じたらしい。ヴィーレがピクリと眉を動かした。
「ん? でもそれ、逆に死ねなくないか? セーブを扱える奴がこの世に一人でも存在したら、世界はずっと繰り返す羽目になるんじゃ?」
勇者の疑問は至極普通に湧き出たものだった。
死ねないという事。それは他人だけでなく、本人には何のデメリットも生じさせないのか、と。
年をとって最期を迎えるとき、記録の呪文があったら、無闇に終わりのない終焉を受け入れ続けなければならないのでは、と。
「いや、ちょっとお前は勘違いしているぞ」
しかし、それはレイヴンの返事で一刀両断された。
「記録の呪文で過去に戻るのは、死ぬ直前に発生する事象なんだ。そこでセーブの効果が自動的に発現してくれる。だから、十分な魔力量が俺の体内に無いと戻れないし、遡行という行為自体にもかなり多くの魔力を必要とする」
「ふむ……。ていう事は……つまり、魔力レベルが低くなっている状態で使い手が死ねば、世界は繰り返さないのか?」
「ああ。寿命を迎える頃には、体と共に魂も弱りきっている。それに比例して、魔力量も減少しているはずだ。俺もジジイになったら時間を巻き戻せなくなっているだろうよ」
「ほう」
長文の説明に息を吐くだけで相槌を打つヴィーレ。口元に手を当てて情報を整理し直している。
そこに追撃を加えるように、レイヴンはニヤニヤ笑いながら補足を入れてきた。
「ちなみに、俺は自分以外に記録の呪文を使える奴は見た事がない。多分、これは俺だけの呪文だ。よしんば他に使い手が存在したとしても、相当のきっかけが無ければ、セーブを扱えるレベルには達し得ないだろう」
彼の含蓄ある笑顔には、どうやら自慢も含まれているらしい。ヴィーレもそれについては無視を貫いた。
(なるほど。要するに、この世界はまだまだ続いていくって事か。てっきり袋小路に陥っているのかと思ってしまったぞ)
ホッと胸を撫で下ろす。全部とまではいかないが、半分くらいの謎は消化できたかもしれない。
勇者は隣の大男へ、軽く頭を下げて礼を述べた。
「ありがとう。参考になった」
「そう畏まるなよ。サタンや他の使用人から、お前らの評判は聞いているぜ。敵意が無いんなら、前も言ったとおり、俺は歓迎するだけさ」
こちらの感謝に対してもレイヴンは態度を変えずに、堀の深い笑顔で応えてくる。とらえどころのない人物だ。
相手の言葉に毒気を抜かれてしまったヴィーレは、前方の景色へと視線をやった。照れ隠しなのか、そのまま隣を見ずに言葉を紡ぐ。
「まだまだ気になる事があるんだ。もしかしたら、今度あんたの部屋を訪ねるかもしれない」
「……おう、分かった。お前には良くしといてやるよ。同じ勇者のよしみでな!」
レイヴンはそう言って豪快に笑ったが、すぐにむせ出してしまった。偉大な前代勇者も積もりいく年齢には敵わないようだ。
そうして、ヴィーレはレイヴンとの戦闘中に起こった体の変化や、魔物の王についての調査状況等へ質問を移していくのだった。