33話「相手を一切攻撃せずに勝利せよ」
敵意ゼロの構えを見せつけるエル。
場所は魔王城の正面庭園。時刻は午前の八時半。
昇る朝日から差す陽光が、二人の金色を煌めかせる。生き別れた兄妹の数年ぶりの再会だった。
(レイチェルの呪文は一つだけだったはずだ。『鈍重の呪文』。慣性等の物理法則をそのままに、動きだけを遅くする能力……。単純だから使いやすい。しかしその分、対策も打ちやすいという難点がある)
レイチェルはともかく、エルは対戦相手の情報を詳細に覚えている。
呪文は生まれつきの才能だ。小さい頃に使えなかった呪文が新たに扱えるようになっているなどという可能性は、基本的にないと考えていいだろう。
つまり、何の事はない。難しい事ではないのだ。
(あちらが速く動くなら、こちらはさらに速く動けばいい)
たったそれだけの単純な対策である。
無論、実行が考察より遥かに難儀である事は、エルも承知の上だろうが。
(レイをどれだけ迅速にギブアップさせられるかが勝負の要だな。なら、先に相手を戦意喪失させた者勝ちだ。攻撃を空振りさせまくって、あっという間にバテさせてやるぜ!)
早めに片を付け、呪文を使わず、相手に怪我は絶対負わせない。エルは初志を貫徹するつもりでいた。
構えを深め、三十メートル離れた位置に佇む少女の観察に集中する。
レイチェルは大鎌を携えたまま、しばらく瞑目して何事かを考え込んでいたようだった。
しかし、エルが思考を整理し終わった頃、ちょうど彼女の瞳もおもむろに開かれる。そして――――
「行きます」
冷たく短く宣言し、床石を踏み砕く勢いで飛び込んできた。武器を振り上げ、エルの太腿を狙ってフルスイングしてくる。
エルはその刃を片足で踏みつけ押さえながら、流れるように柄の部分をもう片方の足で蹴り上げてやった。
同時にレイチェルの手が弾かれる。空に浮いた鎌は回転しながらエルの方へ。
「可愛いメイド服だな、おい。すげえ似合ってるぞ」
大鎌をキャッチして肩に担ぐと、エルは適当に会話を始めた。足は適当に歩かせて、ナンパでもするみたいに軽く声をかける。
けれど、褒められたレイチェルに照れている様子はない。どうも機嫌が悪いようだ。
以前より表情の硬くなっている家族をエルが不思議に思っていると、不意にレイチェルが両手を差し出してきた。
「返してください」
「ん?」
何の事かと聞き返したエルだったが、彼女の視線を追えば答えはあっさり見つかった。
「あぁ、武器の話か……。ほれっ」
肩に乗せていた大鎌に目をやると、彼は迷う間もなくそれをレイチェルへ優しく放り投げた。
直後、間をあけず、鎌の柄が下から突き上げるようにして顎へ飛んでくる。エルは上を向きながらバク転して距離を取るも、着地した頃には眼前で次撃の用意が整っていた。
こちらの腕を切り落とさんと振るわれた鎌を掴み、そのまま引き寄せるエル。バランスを崩して体が前傾したレイチェルと至近距離で目が合った。
「元気そうで何よりだが、運動不足なんじゃねえか? 肌が白すぎだぜ。外出ろよな」
顔を撫でようと手を伸ばした瞬間、顔面に蹴りが放たれる。
仕方なく鎌を持っていない方の手でレイチェルの攻撃をガードすると、凄まじい勢いで彼女の頭が顔面に迫ってきた。
エルは咄嗟にその頭突きもかわしてみせるが、後退してしまったため、鎌は再び相手の手の中だ。
「それに身体もちっこいな。もっと背が高くて、ナイスバディーの、凛々しい女になると思っていたのによ。ちゃんと飯もたっぷり食えよなー」
エルは一方的に話しかけ続けている。
レイチェルが応じる事はない。返ってくるのは、空を斬る音と止めどない暴力だけだ。
けれど、それらは全てエルにとって危険の領域に入るものでは無かった。
理由はシンプルである。レイチェルがまだ本気で戦っていないからだ。
彼女は一体どういう訳か、自分で勝負を挑んでおきながら、こちらへ無意識的に手加減してくれている。
「……そろそろ止めにしようぜ」
エルは最初からレイチェルの躊躇を見抜いていた。
だから、二人の距離がまたも開かれた時、早々に停戦を申し出たのだ。
「どうして無理して戦いたがるんだ? 俺達とお前らの間で何か重大な誤解があるんなら教えてくれ。俺は頭が悪いから、わざわざ説明してもらわなきゃ、何も分からねえんだよ」
心底困ったように告げるエルへ、返ってくる言葉はやはり無かった。
エルは溜め息を吐きながら「どうしたものか」と歩き出す。戦闘の最中にも拘わらず、庭に敷かれている床石から離れ、その脇にある植木の一つにもたれかかった。
レイチェルは身動ぎすらせずに、ジッと彼の様子を窺っている。
朝日が段々と魔王城の敷地内を侵略してきた。けれど、その程度の要因では、この地域に慣れていないエルの感じる肌寒さは解消されない。
二人の兄妹はぎこちない空気に包まれながら、ただただ互いの距離感を推し量っている。
「《スロウ》」
しかし、それは唐突に終わりを迎えた。
エルの眼前に現れたレイチェルが、目にも止まらぬ速度で前蹴りを仕掛けてきたのだ。
今の今まで寄りかかっていた木の上体が派手に折れ曲がり、地面に鈍い音を立てて倒れるのを見たエルは、彼女の魔力量が上がっている事を瞬時に理解するだろう。
(今の動きは明らかにおかしい。レイめ、ようやく呪文を使いやがったのかよ。これまでのは様子見ってことか?)
怪訝な面持ちで樹木の切断面を眺めるエル。
と、そこへ、久しぶりにレイチェルの声が投げられる。
「兄に関して、一つだけ思い出した事があるんです」
風にその髪を揺らしながら、彼女は語りを始めた。
短い言葉だが、初めてレイチェルが家族について言及したのだ。エルは口の端が一瞬痙攣しそうになるのを感じた。
「ほう? 何だ、それは。言ってみたまえよ」
笑顔を取り繕って続きを促してみる。軽口を叩いてはいるが、エルの心臓はうるさいくらいに暴れていた。
レイチェルがエルと瞳を合わせる。十メートルは離れているはずなのに、二人は互いの双眼の奥を覗けそうな気がしていた。
エルが口を閉じて、何十秒が経ったろうか。
いつも通り、レイチェルが言葉を寄越してくるのは突然の事だった。
「彼は……兄は私より、ずっとずっと強かったという事」
刹那、エルは大きく両目を見開いた。
そこで彼は思い出す。小さい頃、エルとレイチェルは互いに勝負を仕掛けあっていて、何かある度に様々な実力を競いあっていたという事を。
加えて、当時エルがレイチェルに負けた経験は、一度たりとも無かったという事を。
彼女は、おぼろげにそれを覚えていたのだ。
頭では何もかも忘れていても、体が、魂が、決して記憶を手放しはしなかった。
「レイ……」
呆然と口を開きっぱなしにして、遠い過去の思い出に浸っていたエル。
が、その表情は頬から次第に綻びだす。そして、やがて彼は、自然と柔らかい笑みをこぼしていた。
「……ハハッ。なるほどな、不器用なのは変わらないみたいだ」
心が踊る。鳥肌が立つ。エルの中にあった不安や緊張といった感情が、一気に吹き飛んでいった。
レイチェルもエルと同じ気持ちだったのだ。相手が自分の本当の兄妹なのか、確信を抱けずにいた。どう接していいか分からずにいた。
だから、滅茶苦茶な方法だけど、唯一の手掛かりを頼りにして安心を得ようとしている。
葛藤と混乱。それが少なからずレイチェルの中にもあったのである。
「いいぜ。冗談抜きでやってやる。圧勝してやりゃいいんだろ?」
エルは両手を広げてそう言った。
レイチェルは短く首肯する。とうとう二人の感情がわずかに触れあい始めたようだ。
不思議とエルの気持ちは晴れ晴れとしていた。先ほどにも増して、まるで負ける気がしない。
「こちらから攻撃はせず、呪文も使わず、速攻でケリをつける。おまけにお前からは本気を引き出しつつ、それに俺は余裕で勝たなければならない」
独りごちながら初めの位置へゆっくりと戻っていくエル。
レイチェルもこちらを見ながらではあるが、彼の正面まで歩いてきていた。第二ラウンドを始める用意はあちらも既にできているらしい。
「ヘヘヘッ。面白くなってきやがったぜ!」
腕の骨を鳴らし、首を回しつつテンションを上げる。魔力が沸々と体の内側から湧き上がってくるような気がした。
そんなエルに対して、レイチェルは深く腰を落とし、武器を構えて臨戦態勢に入っている。静かな様ではあるものの、彼女の中でも同じ現象が起こり始めていた。
「上等……ッ!」
親指でピッと鼻をかき、跳ねるようにして両足を前後に二度入れ換えるエル。
「かかってきな!」
片手で大きくジェスチャーをかましてみせた後、彼は庭全体へ戦闘再開の言葉を響かせた。




