29話「時間稼ぎ」
東雲と呼ばれる時間帯は、朝日の黄金と夜空の暗黒が美しいグラデーションを描く、何とも神秘的な瞬間である。
西方にはまだ海月のような月が顔を覗かせているが、決戦前最後の夜はもう明けてしまったらしい。
不意に、梟の鳴き声が静寂を弾けさせた。
それを待っていたかのように、宿の一室にて腕を組んでいる勇者は、決意に満ちた面持ちで開眼する。
「時間だ。みんな、準備はいいか?」
懐中時計を一瞥するヴィーレ。彼はもたれかかっていた壁から背を離し、仲間の三人へ最終確認を取った。
本日、いよいよ彼らは魔王城へと乗り込む。
ヴィーレを含め、それぞれが緊張で顔を強ばらせているけれど、恐怖や不安は無いようだった。気持ちの整理はついているらしい。
「ああ、いいぜ。行こう!」
皆が荷物を持って立ち上がったのを確認すると、エルが気合いの入った声で答える。
やはり最も精神的に安定しているのはこの男らしい。まだぎこちないイズ達を引っ張るように、率先して強気に振る舞っている。
四人は言葉少なに宿を出た。会話がしょっちゅう途切れるのは眠気が覚めていないから、という訳ではないのだろう。
まだ数えるほどの音色しかない通りを抜け、数百段もある階段を下っていく。
町の入り口近くで預けていた馬を引き取ると、トリスの外まで行ってから、それらの鞍に腰を乗せた。
早速走らせてみるが、ネメスは乗馬のコツを既に掴んだらしい。先行するヴィーレ達にもしっかりとついてくる。この調子だと、昼過ぎには魔王城へと辿り着けそうだ。
目的地へと一歩、また一歩と近付く度に、ヴィーレを言い様のない焦燥感が襲う。
果たしてやり残した事は無いか。本当に自分の下した決断は正しかったのか。
それらの自問が浮かぶと同時に、心臓を締め付けられるような錯覚に陥るのだ。
(大丈夫、大丈夫だ。前回みたいに冷静を欠かなければ失敗はしない。暴走を抑えて、慎重に行くんだ。自分の弱さは打ち負かせ)
まるで死刑台へ上っていく囚人みたいな気分だった。
ロケットを握り締め、精神の安定を図る。ヴィーレの勇気はそうする毎に逞しく燃え上がっていった。
それから勇者達は馬のために数回の休憩を挟みつつ、三時間にも及ぶ移動をすることになる。
三時間、案外短いものだ。端から見ればそう思えるかもしれない。
しかしながら、ヴィーレ、イズ、エル、ネメスの四人にとっては、これまでの旅と変わらぬほど長く感じられた。そんな、拷問にも似た三時間だったのだ。
凍えるような空気を体全体で切り分けながら、馬を走らせる勇者一行。なぞる道順は先日に和也達を追った線と同じだ。
すると当然、あの時迷い込んだ樹海にも入ることになる。
寒冷な地方にも拘わらず、広大な新緑を湛えている不自然な自然地形。
通称『迷いの森』と呼ばれるその森は、陸から魔王城へ向かうためには必ず通らなければならない場所であり、強力な魔物が多く棲家としている。
緑が生い茂っているのはその魔物のおかげだ。レベルの高い彼らがそこで命を落とすことで、通常よりも生命力に溢れる木々が育っているのである。
「まずはこの森を抜ける! はぐれないように注意しろよ!」
ヴィーレは林立する大樹の列の前で、後方を振り返らずに、仲間へ指示を出した。
「おう!」
エルの声が一際大きく返ってくる。「ええ」や「うんっ」という返事も聞こえたから、イズ達にも言葉は届いているだろう。
「次の休憩は二十分後だ。それまで頑張れ!」
ヴィーレは定期的に声をかけておく。
自分のためというのもあるが、口数の少ない仲間を気遣って、というのがやはり大きい。
緊張が恐怖や不安に変わるのはできるだけ避けたいところだ。魔力量が減少する上に、嫌な感情は他者にも伝播する恐れがあるからである。
枯れ葉のカーペットが敷かれた、曲がりくねった道を無理のない速度で駆け抜ける四人。
そうしてしばらく進むと、彼らは妙に開けた場所へ出た。誰からとも知れずに皆が歩を止める。
周囲を見渡してみても、まだ辺りは樹木しかない光景なので、森の中というのに変わりはないようだ。
まだ高度の低い朝日が枝葉の間から顔を覗かせている。その眩い光にやられぬよう、勇者達は目を細めた。
そして、自ずと鋭くなった視線が広場の中央へ集中する。そこには一人の人間がいた。
「あいつは……」
ヴィーレの呟きと同じタイミングでエル、ネメス、イズが彼の横に並ぶ。四人とも馬に乗ったまま、前方に佇む人物へと注意を向けていた。
待ち受けていた相手はこちらにその背を向けている。緑の中にポツンと落ちたような『紅色』は、朝日に煌めいて、とても映えて見えた。長い髪が風になびいている。
「待ちくたびれましたわ」
こちらの気配に反応したのか、独りごちて踵を返す女性。振り向く動作でロングスカートがふわりと膨らむ。
その一挙手一投足が華麗で無駄なく、自信に満ち溢れていた。彼女とはつい二日前に知り合ったばかりだ。
「私はウィッチ。魔法使いのウィッチ・ランドルフです。さあ、ここで会ったが百年目! 私といざ尋常に勝負! ですわっ!」
一人で勝手に宣って、ウィッチはこちらにビシィッと人差し指を向けてきた。
対するヴィーレ達はシラケた表情でその様を眺めている。
さっきまでの緊張は完全に消失した。というより、むしろ決戦前のドキドキを返してほしいくらいの気分になっている。
ヴィーレは周りを見回して、ウィッチの他に伏兵がいないのを確認すると、もう一度彼女へ視線を戻した。
(待ち受けられているのはまだ良いとして、どうして一人きりなんだ……。それでいきなり勝負を挑まれるってことは、もしかして俺達、魔王におちょくられているのか?)
トリス付近で先日遭遇した以上、何らかの対策を取られることは覚悟していたヴィーレ。しかし、これはあまりにも杜撰過ぎではないだろうか。
イズも同じ事を考えたのか、わざとらしく溜め息を吐いている。
「あんた、他の仲間はどうしたのよ」
「他の仲間……あぁ、レイチェルや和也、レイヴンのことですか。それなら安心なさい。みんな、貴方達を待っていますわよ。私と同じように、一人一人ね」
クスクスと笑ってみせるウィッチ。その言葉にエルは呆れて、ツッコまずにはいられなかった。
「いやいや、何故に一人ずつ待っているんだよ。奴らはお馬鹿さんなのか?」
誰にでもなくそう問うて、彼は「まるで理解ができない」といった風に帽子を押さえた。ヴィーレやネメスも怪訝そうにウィッチの様子を窺っている。
相手の不可解な行動に彼らが戸惑っていると、イズが不意に前へと歩み出て、神妙な面持ちで口を開いた。
「三人とも、先に魔王城へ向かいなさい」
「なに……? どうしてだ、イズ」
唐突に渡された不可解な命令に、しかめ面で応じるヴィーレ。
イズの背へ向けて言葉を投げると、求めている答えはすぐに返ってきた。
「エルの言うとおり、一人ずつ出てくるなんて、どう考えてもおかしいわ。そうなると、裏に隠された目的があるはず……。これはあくまで私の推測だけど、彼女達は何かを成すために、時間を稼いでいるんじゃないかしら」
「イズお姉ちゃん、その『何か』って?」
「……恐らく、魔王の逃走」
「おいおい、マジかよ。それがビンゴだったらかなりマズイ事になるぜ。どっかに隠れられたりしたら、もう一度捜しだすのは難しいはずだ」
「そうよ、エル。だから、あんた達は先に行きなさいって言っているの! ここは私に任せて!」
イズは本気のようだ。空色の目は真っ直ぐにウィッチを見据えている。
今の会話で弛緩していた空気が再び張りつめた。事態は予期していたよりもずっと悪いのかもしれない。
決定権を握る勇者のもとへ、またも選択の時が訪れる。
だが、イズの仮説が正しいのだとしたら、こうして次の行動を考えている間も惜しいところだ。
ヴィーレは数秒間だけ悩んだ後、確かめるようにイズへと問いかけた。
「一人で大丈夫なのか?」
「心配なら無用よ。私を誰だと思っているの。大賢者イズ・ローウェルよ。あんた達こそ、私がいない間は回復できなくなるんだから、油断をしないことね」
「……そうか」
返事の後、小声で分析の呪文を唱えるヴィーレ。
対象はウィッチだ。彼女の頭上に発光色の文字が浮き上がってくる。
【レベル642・魔法使いはあなた達の行動を優雅に待ってくれている】
やはり魔力レベルの高い生物が多く存在する地域にいただけあって、相応の魔力量はあるようだ。
しかし、文章を読み終えたヴィーレは渋い顔ながらも、安心したように頷いていた。同時に朱の瞳へ希望が宿る。
(イケる。このレベルなら、十分に勝ちの目があるはずだ。相手がどんな呪文を使うか分からない以上、危険である事に違いはないが、今はイズを信じよう)
思考を終えると、彼はサッと方向を転換する。
「分かった。イズ、ここは頼む」
休憩は無しだ。馬にはもう少しだけ頑張ってもらわないといけないらしい。
「エル、ネメス、俺達は魔王を追うぞ! ついてこいッ!」
腹の底から地を揺らすような声を出してみせると、ヴィーレは再び馬を走らせた。他の二人もイズへ激励の言葉を投げかけてから勇者に続く。
(魔王め……! 部下だけを置いて、直前で逃亡を図るとは……なんて肝の小さい奴だッ!)
イズの推測が当たっていれば、ウィッチや和也などを見捨てて置いてきたという事になる。
いくら相手が少女だとはいえ、そのような外道は許しておけないのがヴィーレ・キャンベルという男だった。
(待ってろよ、サタン。決して逃がすものか……ッ!)
勇者の中に燻っていた勇気は、義憤と共に大きく爆発していた。
吹きとおる風のほとんどが木々によって遮断されている森の中。
そこでは日向に入っていても、肌寒い空気は和らぐことがない。ユーダンクやアルストフィア村に常時あった暑苦しさが恋しくなるほどの寒冷地帯だ。
イズは慣れない気温に身を縮こませたくなる気持ちをグッと抑え、クールを気取りながらこう言った。
「邪魔、しないのね」
知っての通り、イズと相対するのはウィッチのみである。必然、先の言葉は彼女に宛てたものだ。
ついさっき、ヴィーレ、エル、ネメスの三人が真横を通り過ぎて行ったというのに、ウィッチと名乗った赤髪の女性は全く妨害しなかった。
現在に至っても、薄い微笑みを湛えてこちらを見つめているだけだ。その不敵さにプライドの高いイズは嫌悪感を覚える。
「たった一人でも足止めできれば十分ですわ」
想定通りといった調子で返事が寄越される。
語気が安定していて、瞳が泳いだりしていない事から判断するに、本当に相手方にとっては問題が無いみたいだ。
彼女はそのままの流れで無駄話を続ける。
「それより、確かに聞きましたわよ。貴方が賢者だとか? うふふ、随分と冗談がお上手ですのね」
途端にウィッチの表情が嘲笑のそれに変わった。どこか挑発しているような、小馬鹿にした笑いだ。
イズの愛想笑いが固まる。イラッときたけれど、この程度の牽制には引っ掛からない。ここは抑えて相手の意を探る。
「どういう事?」
「何も真実を知らないくせに、『賢者』を名乗るなんて片腹痛いってことですわ」
ウィッチは「オーホッホッホ!」とお嬢様笑いをしている。
(癪に障る笑い方だわ。舐められたものね。でも、面白いわ。私を嘲笑ったこと、後悔させてやろうじゃない……!)
どうやらイズに我慢は無理があったようだ。髪の毛一本分の強度すらないであろう堪忍袋の緒が早くも切れてしまう。
「祝ってあげるわ。この私に喧嘩を売ったのは、あんたが史上で初めてよ。謝罪の泣き声と一緒に、その『真実』とやらを吐かせてあげようじゃない!」
馬から飛び降り、氷雪の呪文を唱えるイズ。氷の結晶で馬を保護するための囲いを作ると、彼女は戦闘態勢に入った。
ウィッチ、レイチェル、和也、レイヴン。相手の言を信じるならば、待ち伏せしている敵は少なくとも四人いる。
一人一人と戦うことになるのなら、誰かが早く相手を負かさないと、魔王には逃げられてしまうだろう。
(だから、口喧嘩に時間を割くのはもう終いよ)
イズの敵意満々な睨みを涼しげな顔で受け止めて、ウィッチは横髪を耳にかけた。
「あら、野蛮なこと」
そうして彼女は妖艶に手招きしてみせる。
「やってごらんなさい。大賢者さんとやらに己の無力さを教えて差し上げますわ」
「言われずとも」
即答するイズは、音が漏れそうなくらいに強く歯を軋ませている。怒りで体が熱くなるのは初めてだった。
「さあ……」
胸元に震えた右手をやる。イズは片手だけで上着のボタンを外していくと、女子とは思えないほど野太い声で啖呵を切った。
「行くわよッ!」
言うや否や、勢いよくマントコートを脱ぎ捨てる。
軽装になったイズと余裕を崩さないウィッチの間に火花が散った。決戦の始まりだ。




