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悪意が毒になる世界

作者: 夢野ベル子

直接的な描写ではないものの、性的な描写が含まれますので、ご注意ください。


 10


 今日もまたわたしは死んだ。

 いや、殺されたのか。

 死体のように呼吸しながら、ただ天井を見つめる。

 天井の染みの数をかぞえていれば終わるなんて言葉があるけれども、とうの昔にかぞえ終わっている場合はどうしたらいいのだろう。

 毎日、毎日、飽きもせず、強制的に天井を見つめることになれば、いやでも覚えてしまう。

 星座のように見えたこともあった。

 顔のように見えたこともあった。

 あるいは、ここではないどこかを記した地図のように見えたこともある。


 天井の染みからいろんなことを妄想する。

 初めはたぶん遊びだった。

 最初のときというのは誰にでもある話であって、わたしが初めて天井の染みを視界に捉えるにあたり――、

 ひどく当惑していたから。

 ひどく混乱していたから。

 ひどく怖かったから。


 だから、名も無き天井の染みに意味を付与しようとしたのかもしれない。


『これ』には意味があるんだって。


 この意味という言葉には正しいとか間違っているとかそういう考えは存在しない。

 いいも悪いもない。

 善意も悪意もない。

 つまりはそこにある染みのようなものだ。


 天井にある黒い染み。


 染みは染みに過ぎないが、そこに物語を求めたのは、わたしが意味を定めようとしたから。

 自分の中にある幼い疑問に答えようとした結果だろう。

 いや、本当のところは意味なんてどうでもよく、わたしはわたしを切り離したかったのかもしれない。

 物語の中にわたし自身が溶けていくように願ったのだ。

 要は現実逃避。

 だからどうしたという話。

 そんなこと、生きていればいくらでも遭遇することであるし、多かれ少なかれ誰だってやってる。


 私は特別なんかじゃない。ただの大人になりきれない子どもだ。


 今日もまた現実逃避の時間。

 惰性的に続く日常的な営みの中で、わたしはわたしを切り離す。

 べつに嫌いだとか、怒りを覚えるとか、そういった感情はない。

 そういう感情の志向性がない。


 とぐろを巻いた、もっと粘性の強いどろどろとした感情。


 わたし自身がどろどろに溶けて崩れていくようなそんな感覚。

 あるいは、ただ単純に疲れきってしまって、なにか複雑なことを考える気分ではなかった。

 少しだけ思うのは、肌の裏側にこもってしまった熱と、べたついた肌の感覚。

 それがちょっと面倒。


 ようやく、わたしがおぼろげながらも理解し始めているのは、結局のところ『これ』には意味などないということだった。

 意味などないのであれば、する必要もないのであって、単純にエネルギィの浪費だ。

 手持ち無沙汰のときのように、わたしはここではないどこかを妄想することで、なんとか意味をひねくりだそうとしている。


 せめて本なり読めればよかったのだけれども。


 本当に面倒くさい。


 事は少し前に終わっていて、いまはけだるさに身を任せている。

 そして遠くから聞こえてくるアラート音。飛び交う飛行機の音。

 なにもかもが非現実的でうっとうしいほどに現実的。

 ふと視線を横にやると、四角く切り取られた木造の古臭いアパートの部屋の中を、豆電球の頼りない光が照らしだしていた。

 昏く昏く、狭い空間の中から、男の荒い息が聞こえてくる。


 疲れるならしなきゃいいのに。


 わたしは、ひどく無感動に、いわばお勤めが終わったというような疲労感を覚えていた。

 今日のお勤め終了。

 お疲れ様でした。


 しかし、男はわたしが微動だにしないことに不満を覚えたらしい。


「どうしたアザミ?」


 と聞いてきた。


 アザミというのはわたしの名前だ。

 べつにどこにでもある普通の名前であるが、この名前をつけてくれたのはお母さんである。

 お母さんのことはあまり覚えていない。

 わたしが数をかぞえるようになる前に死んだそうだ。

 だからといったわけではないが、お母さんはわたしにとって神聖不可侵といった感覚があって、

 わたしはひそかに自分の名前が聖なるものだと感じていた。


 気軽に口にしないでほしかった。

 なんというか、無理やり侵入されていく感覚。

 それがたまらなく嫌で


「べつに」


 と、ぶっきらぼうに答えたわたしは殊勝だろう。

 本当は今すぐにでも、殴り倒したいほどだったのだから。

「お父さんは心配なんだよ」男は言う。「おまえのことを愛しているから」

「そう……」


 ほとんど確信に近い感覚で、この男にはわたしが何を考えているのか理解できないのだと悟った。

 いったいどうして家族という制度があるのか、わたしにはわからない。


 どうして家族であるからという理由だけで、いっしょに暮らさなければならないのか。

 どうして血がつながっているという理由だけで、愛しあわなければならないのか。


 誰か論理的に説明してほしい。


 けれど、わかっている。

 きっと、ほとんどの人間にとって論理的であることは、重要じゃない。

 感情的な事柄のほうが優先される。

 いっしょにいるということは、そういう感情に服属しているからであって、

 それが制度化されているのは、きっと多くの人が正しいと考えているからだ。


 つまり、非常に民主的な理由で、家族は家族であるのであって、わたしはこの男と暮らさなければならないのだった。


 正直に言えば、家を出て暮らそうかと思ったこともあった。

 わたしは客観的に言えば、まだ子どもに分類される年齢であるし、この村にとっては庇護の対象だ。

 この男を感情的に切り捨てることができれば、それも可能なのかもしれない。


 ただ、わたしは論理的に考えた。


 論理的に見て、人間の行動は非論理的だから、きっとわたしが父に犯されていると知られれば、同情する影で穢れたもののように扱われるようになるだろう。


 それに、父はおそらくきっと罰せられる。

 法によってではなく、世間によって。

 この小さな村は、本当に小さく、そして片田舎で、グジュグジュとした得体の知れない風習が、いたるところに偏在している。

 だから、きっと、殺されるだろう。

 私刑によって。

 さすがに、それはどうかなと思ったりもする。


 わたしは父を殺したいほど憎んでいるわけではない。


 内心では、どうしようもないと思うところもあるのだが、粘液のようにまとわりついて取れない情念がある。

 家族という情念が。


 どうしてそういうことをするのかと、口論にならない程度に聞いてみたこともある。

 気持ちいいから。

 というのも、あるらしい。

 正直なところ感覚的なところはわたしにはわからない。

 男と女では感覚が違うかもしれないし、父はわたしではなく、わたしは父ではないのだから。

 父がそう言うのなら、そうなんだろう。

 もうひとつの理由が、

――愛しているから。

 である。


 事あるごとに、父は主張する。

 おまえのことを愛していると。愛しているから愛し合うのは当然だと。

 なんだそれ、と思った。

 まるで菌糸のようにねばついた愛だった。

 わたしはそうは思ってないですけどと言ってみてもよかったが、そう言ったところで、男の中では完結していることであるし、言ったところで無駄だと思った。


 そうしていると、男は自分の主張をわたしが受け入れたと勘違いしたのか、毎日のようにわたしのことを求めてくるようになった。


 べつに承認したわけではないのだけれども。


 黙秘することが受け入れたと勘違いされることも多少は知っていて、わたしは現状を維持しようとしているのかもしれない。


 論理的に。


 そう、とても論理的だ。


 しかし、わたしが父親のことを男と表現することは、

 わたしが父親のことを完全には受け入れていないということなのだ。


「妹が起きる」


 わたしは冷静に事実を告げることにした。

 たいして広くもない家の隣の部屋ではまだ十にもならない妹が寝ている。

 おそらくはあどけない顔で。

 何も知らずに。


 9


 村の中には小学校がひとつきり存在している。

 そこにわたしは通っている。

 わたしの家からほんの数キロ程度、つまりは三十分ほど歩けば到達するところにある。


 正直遠い。

 クソ田舎という感想しか湧いてこない。


 田んぼの畦道。蛇のようにまがりくねった山道。名前も知らない苔むした道祖神。


 都会から引っ越してきたばかりのときは目新しかったそれらも、何度も見続ければ、ひどくみすぼらしく、つまらないものに見えた。


 本来なら妹もいっしょに通うのだが、妹はからだが弱く、今日も体調を崩して行けなかった。

 まだ小学二年生だ。この道程はきついに違いない。

 それに――、

 季節は夏。

 わたしの足取りは重く、一歩一歩が憂鬱だ。

 夏はあまり好きな季節ではない。

 多くの人はたぶん春や秋のあいまいさが好きなんじゃないだろうか。

 暑さが嫌いなんじゃない。

 ただ、目の中に入ってくる配色があまりにも鮮烈で、ひとつひとつの色の主張がきつすぎる。

 鮮やかすぎて、目が痛い。

 そういう感じ。


「きつそうだね?」


 ふわりと妖精の声が舞い降りた。

 後ろから突然聞こえたので、わたしはほとんど無意識に振り向いた。

 あどけない顔。

 日焼け肌には汗ひとつかいてない。

 この快晴の中、日傘のひとつもささずに、彼女は立っている。

 いつもの服装。

 こんな田舎には不似合いのフワフワとしたファンシィな服装だ。

 袖にもひらひら。

 スカートにもひらひら。

 褐色肌と白いドレスのコントラスト。

 名前も知らない"お洋服"を、妖精のようなかわいらしい少女が見事に着こなしている。

 彼女のことをわたしは知っている。

 名前は、えっと……。

「クロウマだよ」

 そう、クロウマという名前だった。

 どうして今まで忘れていたんだろう。

 わたしが思考をめぐらせていると、クロウマはわたしの腕をとった。

 ふわりとしたやわらかい淡色の空気感。

 ほんとうに、もうどうしようもないほどに無邪気な表情だった。

 どこにいても出くわすような気持ちのいい微笑。

 無個性で透明な、わたしとしてみれば綺麗と評価できる、そんな顔つきだった。

 

「ごめん。忘れてた」

「もうひどいな。みんなわたしのことをすぐに忘れるんだから」

「そうかな」

「そうだよ」

 ぷぅっとほっぺたが膨らんだ。かわいらしい。

「そんなことより。アザミちゃん」

「なに?」

「体調大丈夫?」

「べつにどうってことない」

「そうかな。明日世界が終わりそうな表情だったけど」

「明日世界が終わらないことのほうがつらいかな」

「ふぅん」


 と、クロウマは急に会話に興味をなくしたのか、すぐにわたしの腕を離して空に浮かび上がった。

 こういうところはうらやましい。

 クロウマは空を飛べるのだ。


 わたしがこの世に生を受けて、こんな物理法則を無視した存在はクロウマ以外にいなかった。


 つまり、こいつはわたしの想像の産物という見解も十分にありうる。

 わたしの脳の、レビー小体あたりがイカレていて、こんな儚げな少女が見えているという見解だ。


 あるいは、本当に妖精なのだろうか。

 毎日の"夜のお勤め"の結果、わたしの精神のバランスが破綻し、イマジナリィフレンドという形で、お友達登録されちゃったとか、そういう話なのかもしれない。

 クロウマと友達になったのは、さほど昔でもなく、さりとてごく最近というほどでもなく、微妙な時期。

 ちょうど四年前くらいか。

 わたしが小学二年生にあがった頃。

 つまり、お勤めの開始時期とぴったり一致しているのだ。


 言うまでも無いが、クロウマの声はわたし以外には聞こえないし、誰にも見えない。


 しかし、彼女の言葉は、いつもわたしの想像の埒外にある。

 本当に、クロウマという存在が、他者として存在していて、わたしと会話をしているようなのだ。

 だから、それはわたしにとってはほんの少しの救いでもあった。

 

 

「ねえ。なんでアザミちゃんは"わたし"にならないのかな」

「わたしはわたしで、あなたはあなたでしょう」

「そうだけど。クロウマとアザミちゃんはそんなに変わらないと思うよ」

「そもそも、あなたがどんな存在なのかわからないんだけど」

「妖精だよ」

「ふぅん。じゃあ、人間が妖精になるとどうなるの?」

「人間が妖精になると、空を飛べるようになるよ。ふぃひひ。うらやましいでしょ」

「羽ついてないじゃない」

「心の羽で飛んでいるのよ。で、どうですかね? このふわりティ」

「正直なところ――うらやましくはある」

「そうでしょそうでしょ。だったらいいじゃない。なっちゃお? 妖精さんになっちゃお?」

「それはやめとこうかな」

「えー、どうして?」


 クロウマは明らかにガッカリしているようだった。

 でも、わたしはそんなに簡単に現実を捨てきることはできなかった。

「わたしは死ぬのが怖いよ」

 クロウマに向かって、わたしは正直な気持ちを吐露する。

「死ぬのが怖いのは、死んだら自分が違う存在になるかもしれないからだよ。だから人間は死ぬのも妖精になるのも怖いんだよ」

「恐怖がバリアになってるのかな」

「たぶんそう」


 わたしも、現状を維持したいから。


 だから家を出ることができない。


「本当は怖くなんかないのにね」


 クロウマは微笑を浮かべている。

 それは妖精だからこそ言えることだ。

 わたしは人間で、だから怖かった。


 現にわたしは父親との関係を誰にも言えなかった。


 怖かったからだ。

 自分がどういうふうに見られるかわからず。

 父がどうなるかわからず。

 未来がどうなるかわからず。

 たとえようもなく、今このときの現状が壊れるのが怖かった。


 だから、わたしは黙秘した。


 もうこのまま抱えてしまおうと思った。

 いつか風船のように、抱えすぎた想いでわたしという存在がはじけとんだとしても、それはそれでいいと思った。今でもそう思っている。

 だから、今がある。


「人間だって妖精になれるんだよ」とクロウマ。


「どうやって?」


 なりたいと思って、なれる存在なんかじゃない。

 それに、妖精になったところで、わたしのこのなんともいえない閉塞感がなくなるわけじゃないと思った。

 妖精になれば、宙に浮ける。

 けれど、妖精だって腹はすくかもしれないじゃないか。

 妖精がいくら人間とは異なる無意識を生きていたって、手があり、足があり、顔がある、物理的な機械としての構造はそんなに変わらない。


 妖精だって現実原則には屈する。


 たとえ、宙を浮いていようとも。


――いつかは落下するかもしれないじゃないか。


 人間が妖精になれない理由の大半が、この予期不安にあるといえるだろう。

 人間の神経症的な性質が、妖精になったって苦しいかもしれないじゃないかと警鐘を鳴らす。

 だから、人間は妖精になれない。

 要するに、わたしはわたしに自信がなかった。

 妖精のように自由にひとりで生きていくことなんて、できっこないと心の一番奥深くで思ってしまっている。

 それを恐怖というのなら、そうなんだろう。


 だって、ひとりになるのは誰だって怖い。


 それとも妖精になれば、そういった想いでさえも幻想へと変えてしまうのだろうか。


「たいしたことじゃないんだけどな」クロウマは歌うように言った。「人間も妖精もたいした違いはないよ」

「じゃあ、具体的にはどうすれば人間は妖精になれるのかな。怪しい儀式でもすればいいの?」

「べつに行為なんて必要ないよ。もちろん、素質のようなものは必要だけどね。大事なことは行為ではなく、自分自身の内なる意識に眼を向けること。えっと、つまり……わたし自身が無になることだ!」

「無ってなに?」

「むむ?」

「だから無ってなに?」

「むむむ?」


 クロウマはすごくうれしそうにはしゃいでいる。

 自分勝手で、なにも考えてなくて、話が通じない。

 というか、クロウマは特にその傾向が強い。村の誰よりも自由奔放だ。

 けれど、べつにそれでいいと思った。

 なんというか、人と会話をするのは疲れる。それこそ父との行為といっしょだ。


 会話をすることが気持ち悪い。


 人と分かり合おうとすることが気持ち悪い。


 だから、クロウマとの会話ではない会話は、どこかわたしを安心させた。

 いわば、独り言をしているような気分。

 ひとしきりはしゃいだ後、クロウマはいつもの軽く微笑みを浮かべたテンションに戻る。

「妖精になるのなんかカンタンだよ!」

「どうすればいいの?」

「人間やーめたって思えばいいんだよ。簡単でしょ?」

「そんな簡単に妖精になってたら、今ごろ、この国は妖精だらけになっちゃうんじゃない?」

「まーね。だから素質だよ。そ・し・つ。アザミちゃんには素質あると思うけどな」


 妖精になる素質ね……。


「人を殺せば妖精になれるの?」

「それも厳密には違うと思う。べつに人間を殺さなくても妖精さんになれちゃうよ!」


 ぴょんぴょんと跳ねるクロウマちゃんだった。


「でも、頭の中でいろいろ考えてるだけじゃ妖精にはなれないんじゃないかな」

「それはたぶんそう。言葉の力だけでその人間の精神構造ストラクチャを破壊するのは結構大変そう。言わば、自分の手で首を絞めて殺せるかって問題だけど、結構難しいよね」

「それはそうかも」

「さっき、アザミちゃんがなにかの儀式が必要じゃないかって言ってたことも、たぶんあながち間違いじゃなくて、そういうきっかけがあったほうが妖精になりやすいだろうね」

「やっぱり行為が必要?」

「さあね。行為というよりは……決意かな」

 恐怖。

 人間とは異なる存在に対する本能的な恐怖に抗いながら、わたしは聞く。

「決意ってなに?」

「切り離そう。この世界から、自分を」


 8


 とはいえ、である。

 わたしは人間であるという今の状態に甘んじているところがあることを自分自身よく知っているのであった。

 つまり、それは予期不安から来る現状維持の精神であり――、

 どうなるかわからない不確定要素を抱え込むくらいなら、今のかなり面倒な状況でも、いいかなと思うような、一種の選択だった。

 人間には選択する能力がある。

 妖精にはないのかといわれれば、それはわからないけれども。

 あの子が、わたしのことを妖精になる『見込み』があると考えていたとしても、

 どう考えても、わたし自身は妖精になるなんて思えないのだ。

 こんなにも、いろいろなことを考えて、いろいろなことにおびえているのに。

 しかし、ただ……、なんというか妖精であることに一種の憧れのようなものがあることも否定できない。

 妖精らしく、自由であれたらどんなにかいいだろう。

 その自由が、一種のまやかしであったとしても、こんなふうに言葉の檻に閉じ込められているよりかはよっぽどマシかもしれない。


「今日は遅刻か。年長者がそれでは示しがつかないぞ」


 先生には少し怒られた。

 先生が男であることの嫌悪感はさほどない。

 わたしは自分の中で、あの行為をそこまでトラウマとして認識していないということなのか。

 それとも、案外、わたしはこの先生のことが好きなのかもしれない。

 客観的に見れば、いい先生といえた。

 まだ二十代らしく、村の中でもかなりの若者として認識されている。

 この学校で、校長を除けばただひとりの先生であり、要するにこの小学校では、学年なんて関係なく、みんないっしょの教室で授業を受けているのである。


 べつに遅れるつもりはなかったのだが、あのかわいい妖精の女の子と話をしているうちに時間が過ぎ去っていたのだ。


 とうの本人はいつのまにやらどこかにいってしまっており、叱責を受けるのはわたしひとりという状況。

 これはこれで面倒くさい。

 とはいえ、先生の瞳の奥には、叱責というよりは心配が色濃く見えた。


「ごめんなさい先生」

「熱中症には気をつけなさい」

「はい」

 

 教室の中で、幾人かの生徒たちが各々のペースで授業を受けていた。


 こうした状況をわたしは一番後ろの席から眺めている。


 ふと思ったのは、

 この教室のもしかすると誰かが人間のふりをした妖精なのかもしれない。

 ということだ。


 人と妖精の違いってなんだろう。

 クロウマを基準に考えれば、妖精は自分勝手、自侭で、本能に忠実で、抑えがきかない。

 といったような属性があるように思える。

 しかし、それは人間だって少なからず持っている性質だ。

 人間だからという理由で、そういうよくわからない無意識の衝動を押しとどめておく力があるとしても、ほんの些細な力のように思える。


 違うのかな。


 例えば、そう……、こんな学びの場ですら、少し見渡すだけで違和感はいくらでもある。

 かすかな違和感の正体。

 それはわたしの前ふたつめの席に座っている小さな女の子だった。

 年のころは妹と同じぐらい。

 八歳になるかならないか。

 前髪をぱっつんと切りそろえた。気の弱そうな子。

 実際に黙っていることが多くて、日本人形のようだと思っている。


 名前は確か、レンゲちゃん。


 べつに彼女の容姿が変というわけではなかった。


 彼女は一心不乱に鉛筆を研いでいた。

 彼女の小さな手のひらに納まる程度の小刀で鉛筆を削る。

 鉛筆の質量なんてたかが知れているから、その用途通りに使用するつもりなら、そこまで削る必要はない。

 まるで切っ先をキリのように、刺すという行為に特化しようとしているようだった。


 鬼気迫る様子だったのだ。


 正直なところ、彼女がどういう動機でそういった行為におよんでいるかは興味をひかれもしたが、

 しかし同時に詮索しようという気もおきなかった。


 わたしは他人に興味がない。


 そこらの机や椅子と同様に、他人も物のように感じてしまう。


 いや、物のほうがまだマシかもしれない。

 物のほうがだいたい、どういうふうに動作するか予測がたてられる。


 けれど、人間は予測がたたない。

 次の一瞬には何をするのか、本当にわからない。

 思いこみとして、人間だったらこうするだろうという予測はたつかもしれないが、

 しかし、そんなものにはなんら保証はない。


 たとえ、八歳児であっても、である。


 なんのことはなかった。

 わたしは彼女のことが怖かったのだ。

 どうしてそんな奇異な行為をするのだろう。

 先ほど思い描いたように、隣の誰かを刺し殺すつもりなのだろうか。

 刺し殺す誰かとはもしかするとわたしかもしれない。

 言い知れず、からだの裏側から震えがこみあがってきた。

 たとえ彼女の脳みそが謎の宇宙生物に寄生されていたとしても、他人からはその様子はうかがえないのだから。


 それから授業が終わったあと。

 不意に先生から職員室に来るよう言われた。

 今朝の遅刻の件かもしれない。

 みんなが思い思いに帰っていくなか、わたしは職員室に向かう。


「わざわざ悪かったな」

「いえ、なんでしょう」

 

 この小学校の中では、年長者に属することから、わたしは落ち着いた声を出すように努めた。

 先生は少し悩むように視線を空中へと漂わせたが、すぐにわたしを見据えて言った。

「なあ。畦倉は授業中にレンゲのことをずっと見ていただろ」

 畦倉はわたしの苗字だ。

「ええ。それがなにか?」

「なにか気づいて、だから見てたのか?」

「目の前にいたから視界に入っただけですけど」

「レンゲがいじめられていることは知っているか?」

 なぜか観念したかのように先生は肩を落としていた。

 きっと、本当はわたしから言わせたかったのだろう。

 しかし、いじめね……。

 いじめ。

 多数者による少数者の迫害。

 べつにそれがいいか悪いかなんてことは、わたしにはわからない。

 客観的に見て、いじめる側にとってはおそらくそれは快感なのだろうし、いじめられる側にとっては不快でしかない。

 両者の価値観は乖離しているのであって、わかりあえるということはない。

 つまり、いじめというのは価値観の相違なのだ。

 だから、わたしは考える。

 観察者であるわたしから見て、『いじめか否か』そんなことはわかりようがないと。


「いじめなんてありませんよ?」

「確かに、暴力沙汰はない。ただ、視線が変じゃないか」

「視線?」

「レンゲの存在価値すら認めようとしない、そんな視線だ」

「仮にそうだとして」わたしの声は揺らいでなんかいない。「その視線を向ける側はどう考えているんでしょうね? べつにたいしたことだと思ってないかもしれませんよ。だって、他人のことなんてみんなわりとどうでもいいと思っているし、いじめてやるぞなんて思っていじめてるほうが珍しいと思うんですけど」

「客観的な事実として、誰かの誇りを傷つけるような視線はいじめだと思う。畦倉。おまえが言ってることは、加害者がそう思っていなければ許されるというふうに聞こえる」

「最初に『加害者』と規定するから、そう思うだけです。最初から加害者も被害者も存在しないのかもしれませんよ。ふたりは仲良しかもしれません。誰かが勝手にいじめていじめられているなんて、仲良しじゃないなんて、そういうふうに決めるほうが間違ってると思います」

「じゃあこういう話はどうだ」

 先生の顔に夕焼けがかかり、影がさしたように見えた。


「都会には通勤時間に電車の中が満員になったりする。その中で人がひしめきあい、目的地につくまで息を殺してじっと時が過ぎ去るのを待つ。そんな空間。その中で、時々、奇妙なことが起こる」

「奇妙なこと?」

「そうだ。ありていに言えば、男が、女の……そのなんだ。いかがわしい行為をすることがニュースになったりするじゃないか」

「はぁ。そうですか」

「反応が薄いな。できれば嫌悪感で共感してほしかったんだが……」


 嫌悪感。

 つまり、先生はわたしに生理的な嫌悪感を抱いてほしかったのだ。

 痴漢された被害者女性の気持ちになってみろ、と。

 同じように、いじめられた側の気持ちになってみろといいたいのだ。

 とても気持ちの悪い考え方だと思う。

 そんな妄想で人の心を推し量るなんて、気が狂っているとしかいいようがない。

 けれど、それが、大多数の人の考えた方だ。


――心は見えないけれど、心づかいは見える。


 というようなことを本気で信じているのが、大多数の世界なんだ。


 先生は頬をぽりぽりとかきながら言う。


「女性としてはそういういかがわしい行為をされたら、もちろん主張したいよな。この男は痴漢だと」

「それはまあそうでしょうね」

「おまえの先ほどの論理は、このときに女性側がどう考えているかわからないから、黙って見ておけと、そういっているように聞こえたんだよ」

「それだけではありません。男の方だって、たまたま手が触れたとか、そういうふうなことだってあるんじゃないですか? 人が近くにいるということ自体がなにかの摩擦を生んで当然だと思います。軽々しく人の心を決めるべきじゃない」


 わたしの心はわたしだけが知っていればいい。

 誰かに何かを伝達しようなんて、そんな考え方自体が、気持ち悪い。

 だって、それは、ねばついている。


 先生は、はっきりいって、理想が高すぎなんだと思う。

 幼すぎるとも言えるのかもしれない。

 それは――、まあ悪い考えではないのだろうけれども。


「先生はな。いじめをやめさせたいんだ」

「どうしてわたしなんです?」

「畦倉は、しっかりしているから」

「それは先生のお仕事だと思いますが」

「それは……そうだが。クラスの中にいじめがあったら、なくしたくないか?」

「だから、わたしには、レンゲちゃんがいじめられているかどうかなんてわからないって言ったはずです」

「いじめられているよ。見ればわかるだろ!」


 少し、身体的な反応がでてしまった。

 つまり、先生が身体を傾けて、やや近づいた。

 それだけで、わたしの身体は電撃を受けたようにビクっと跳ねた。

 先生の顔に罪悪感がにじむ。

「す。すまんな。驚かせるつもりはなかった」

「いいんです」


 そう、本当にそれはどうでもいい。

 先生のことは嫌いじゃないし、いい人だと思ってるし、他人の心のうちを考えられなくても、他人の気持ちをなにひとつわからなくても、先生の行動原理は愛に裏打ちされているから。


 つまり、一般的にいって、先生は善人なのだ。


 はてしなく、ソリは合わないだろうけれども。


 7


 ああいう気まずい状況になったので、わたしは何事も無く家に帰ることになった。


「アザミちゃん。超クールだね」

「べつに」


 帰り道。

 また、クロウマと会った。

 なぜか、クロウマは事情をすべて知っていて、わたしの行動と心のうちを見透かしてくる。


「アザミちゃん。クール。だって、アザミちゃん自身は思っちゃってるじゃん。考えちゃってるじゃん。あの子、あのレンゲちゃんって子のこと」

「やめてよ」

「いじめられてるってさ。きゃは」


 さすが妖精。

 容赦ない。

 けれど、まあ――、真実だ。

 わたし、畦倉アザミの心のうちに生じた真実として、レンゲはいじめられている。

 というか、正確には忌避されているのかもしれない。


 レンゲは、母親と二人暮らしをしていて、その母親は風俗店で働いていた。


 誰から伝わったのかわからないけれど、狭い村の中、そんな他愛もない事実は、こんな小学校のうちでも広まっていて、クラスの二十名かそこらの中でも、伝わりきっている。


 だから――、彼女は……、レンゲは穢れた存在だった。


 たった、八歳の少女に向けて、クラスの大半は『キタナイ』と考えている。


 そして、つまり、それはわたしもそうであるということだ。

 もちろん、知られたらの話だが。


 そういえば、クロウマはわたしと父の関係について直接言及したことはない。

 わたしが、そういった話題を避けているのもあるが、きっと彼女は知っていて、あえて言っていないように思える。クロウマはズケズケとあけすけに物を言うが、しかし、わたしの心の最後の最後だけは決して破かない。

 だから、友達でいられるのかな。

 友達だと思っているのは、わたしだけかもしれないけれど。


「レンゲちゃんのこと放っておくの?」

「そうするしかないじゃない」

「そっかー。そうだね。クロウマはレンゲちゃんの選択を支持します!」

 ドヤ顔で告げられても困るんだけど……。

 ただ、実際そうなのだ。

 わたしがレンゲのことをかばったとして、その結果なにかしらのアクシデントが起こって、わたしとあの男との関係を知られてしまっては、レンゲの比ではないと推測できる。

 いじめどころではなく、迫害レベルに達するかもしれない。

 だから、黙っておくしかない。


 べつに、男との関係を許容したわけではない。

 ただ、論理的に考えて、肌の不快感とはべつに、わたしは生きたいと願っている。


 どうしてだろう。

 正直なところ、死にたいと思ったこともあった。

 村の中には高い建物がない。唯一それなりの高さがあるのが、小学校の屋上で、そこからフェンスをよじのぼって、身を乗り出せばどれだけ楽になれるだろうと考えたこともあった。


 でも死ねないと思った。

 妹がいるからというのもあるかもしれない。

 しかし、ただ単純に、死ぬのが怖かったのだ。


 5


 それはある日のことだった。

 久しぶりに、父親がどこかに遅くまで出かけていて、わたしは妹の様子を見ながら、何か音が欲しくてテレビをつけた。そうしたら、ニュースをやっていて、この国にミサイルが飛んできたらしかった。

 そんなのぜんぜん珍しいことでもなかったので、他のチャンネルに変えたら、そこでも同じことを言っていた。

 その次のチャンネルも、そのまた次のチャンネルも同じニュースを垂れ流している。

 あきらめて、チャンネルを放り投げ、そのままぼーっと見つめる。


 ミサイルで死ぬのと学校から飛び降りるのはどっちが楽なんだろう。


 そんなことを考えて、自分の頬の筋肉がかすかに笑いを伴ったものに変わるのを感じたが、しかし、今日の様子は少し違う感じがした。


 本当に落ちたらしい。


 それはこの村からはずいぶんと離れた場所ではあったが、しっかりとこの国を標的にしたものであり、確実に爪あとを残していたようだ。大人たちがまるで子どものように騒いでいる。


 再び笑みがこぼれているのを感じる。


 だって、こんな世界に、なんの意味があるんだろう。


 わたしの中にあるどろどろとした名前をつけられない感情が、

 初めて不特定多数の誰かに伝わったかのように感じて、

 呪いが成就したかのように感じて、

 世界に無数にある不幸と少しだけ釣り合った気がして、

 わたしはいい気味だと思った。


 そして次の瞬間――、


 わたしは胃の中のものをいきなり吐き出した。


「おヴぉあっ」


 口を押さえる手の隙間から、吐瀉物が容赦なく零れ落ちる。

 気持ち悪い。

 なにこれ。気持ち悪い。

 吐きそう。いや。吐いた。頭をハンマーか何かで殴られたかのように、ガンガンと不協和音が鳴り響き、耳鳴りに近い音が脳にまで達したかのようだ。

 視界がまわる。

 ぐにゃりとゆがむ。

 気持ちワルイ。

 まるで、消しゴムとまちがって食べたときのような、身体中をミミズが這いずりまわるような、そんな得体の知れない気持ち悪さを体中で感じた。

 わたしは死ぬのかもしれない。

 そんなふうに思った。

 そんなふうに感じた。

 実際には単に気絶しただけだったが。


 あとになって知ったのだが、それこそがこの国に落ちたミサイルの正体だった。

 わたしたちの悪意が『毒』になる。

 そういう細菌だかウイルスだかを積んでいたらしい。

 それは、この国中に広まって、当然わたしの住んでいる村も汚染されたらしかった。

 わたしはまた、得体の知れない何かに侵入され、殺される運命なのだろうか。


 6


 先生の話によると、悪意が毒になるとしても、誰かを嫌いになったりする程度では死なないらしい。

 少し気持ち悪くなるくらいで、せいぜいひどくても吐くくらいだ。


「先生は、みんなには心を強くもってほしい。みんなが誰のことも悪く思わず、助け合っていければ、ウイルスなんて怖くないぞ!」


 そういう先生が一番怖がってるように見えたけれど。


 しかし、ある意味、悪意が毒になるということは、公平な世界なのかもしれない。

 みんな悪意を抱いた瞬間に、それが毒になる。

 だから、この国の犯罪率は目に見えて減っている。

 例えば、泥棒をしようと思ったら、その他人の財物を盗もうという悪意で、地面をのたうちまわることになる。


 けれど、ひとりだけ、そのレベルを超えている子がいた。

 レンゲだ。

 レンゲは眼を血走らせ、よだれをだらだらと垂れ流し、冷や汗で服がびっしょりと濡れるくらいに、毒に犯されているようだった。

 それだけ悪意が強いらしい。

 彼女の中の悪意だ。

 わずか八歳くらいの子どもが、こんなにもみんなに対して悪意を抱いていたことに、誰もが戦慄していた。


「おまえ、帰れよ!」

 クラスの男の子が声をあげた。レンゲは机にかじりついているかのように動かない。

「いやだ」

「なんで帰られねーんだよ。迷惑なんだよ」

「そうだよ……、迷惑なんだよ。前からずっとそうだった。私は迷惑な存在なんだよ! だから帰らない!」


 むちゃくちゃな論法。

 非論理的な言説。

 しかし、その感情には奇妙なことに共感できた。

 レンゲは結局のところ、自身の憎悪で焼かれるようにして、気絶してしまい、その日は早退することになった。

 耳と目から血が吹き出て、机と床を穢している。

 誰がそれを掃除するかで少し揉めた。

 最後はじゃんけんで決めることになって、わたしがその係になった。


 5


 フツーだったら先生がやるもんじゃないだろうか。

 なんてことも思ったが、この行為はあくまでも『掃除』の一環らしい。

 つまり、学校のみんながやっている帰り際の掃除の時間。

 だから、たまたま自分だけが嫌なところに振り分けられたからといって、断ってはいけない。

 ということらしい。

 先生の言葉を聴いたときに、さすがに嫌な気分になり、胸のあたりが毒素で満ち溢れてくるのを感じたが、しかし、今一歩のところで耐えた。


 夕暮れ時。

 教室の中はオレンジ色に満たされて、誰もいない。

 妖精以外は――。


「さすがに掃除だから生徒がやれって理論はないよねー」

「クロウマ……いたの」

「いたよ。ずっと。で、今も気持ち悪くてムカムカしてるんでしょ」

「考えないようにしてるんだから、余計なこと言わないで」

「アザミちゃん。考えないようにっていっても限界あるでしょ。だって、こんな不合理なことってないじゃない。クラスの汚物を処理するとかさー。フツーだったら先生がやるもんだろうし、そうじゃなくてもクラス全員で片付けるのが筋じゃないかな」

「クロウマの言ってることは正しいよ。でも、人間は多数決が大好きだから。みんながじゃんけんで決めようっていうのなら、しょうがないと思う」

「そうやって、少数派の意見は殺されていくわけだねー」

「そうだよ」

「それでいいと思ってるの?」

「それでいいとは思ってない。でも、しょうがないでしょ。そういう世界なんだから」

「悪意が毒になっても、そんなに世界は変わんないね」

「それも当たり。だって、みんなそんなに自分のやってることが悪いと思ってやってるわけじゃないもの」

「クラスメイトをいじめていても?」

「クラスメイトをいじめていても、その子の母親が風俗で勤めているなら、いじめても正しい行為だし、いなくなってほしいと願っても、正当な行為だと思ってる。だって、現にその子がいることで不快なのは事実なのだから。そう多くの人が思っているからこそ、いじめられるのだから」

「アザミちゃんはどう思ってるの?」

「くだらない」


 4


 吐きそうだった。

 もう数日体験しただけでわかったよ。

 この悪意が毒になる世界は、結局、欠陥だらけで、確かに犯罪が減ったのは事実だけど、しかし完全になくならないのは、純粋に、悪を悪とも思ってない人がいるからだ。

 確信犯というのかな。

 あるいは、そこまでいかなくても、自分の中に生じた正義こそが優位性を持ち、したがって、そのほかの価値観については、悪だと考えている人がいる。


 だって、自分が一番かわいい。

 他人は誰であれ気持ち悪い。

 それがフツーなんだ。


 家に帰ると、父は帰っておらず、妹がベッドに横になっていた。

「おかえり。お姉ちゃん」

 妹は元から身体が弱かったせいか、この悪意が毒になる世界においても、特に変わった様子はなかった。花が咲くように可憐に笑ってくれて、わたしは心の中があったかくなるのを感じた。

 少なくとも、この世界にも希望はあるように感じて、それが単純にうれしかった。

 わたしの妹はかわいい。

 妹のためなら、生きてもいいと思う。

 わたしは妹にできるだけ優しく声をかける。



「今日は体調大丈夫なの?」

「うん。お姉ちゃんは大丈夫?」

「大丈夫だよ」

「ねえ。お姉ちゃん。どうしてみんな他の人のことを悪く思うのかな?」

「ウィルスのこと?」


 テレビでも見ていたのだろうか。


「身体のなかに毒があるんでしょ」

「そうらしいね」

「他人のことを悪く思ったら、死んじゃうんでしょ?」

「そうだよ」

「お姉ちゃんは死んじゃわない?」

「お姉ちゃんは大丈夫だよ」

「本当に?」

「本当に」

「お父さんのことも嫌いじゃない?」

「……嫌いじゃないよ」


 どうしてそんなことを聞いたのだろう。

 血液が凍るような気がした。


 3


 レンゲは教室の中で死体となって発見された。

 教室は血の赤が撒き散らされ、机と椅子はもれなく廃棄処分という形になった。

 結局、悪意は彼女自身に牙を剥いたというわけだ。

 そのことにはなにひとつ不思議はなかったが、しかし、レンゲはまったくもって弱々しいと思う。胸の奥あたりがムカムカしてきた。

 おそらく、わたしは彼女に対してムカついているんだ。

 死ぬのが逃避だからうらやましいとかそんなんではなく、なぜ、そこまでの悪意があるのなら、もっと直接的に害さなかったのかという、彼女の覚悟の足りなさに勝手に幻滅したんだ。

 もちろん、その害されなかった集団の中にわたしも含まれるのだから、彼女が勝手に死んでくれて、それはそれでよかったのかもしれない。


 先生も教室のみんなも思うところがまったくないわけではないが、しかし、数日も経てば彼女のことは忘れ去られるだろう。


 帰り道。

「死んじゃったね?」

 クロウマは楽しそうに言った。

「自分の悪意に殺されたんだから自業自得」

「そうだね。でも、いじめられたほうが死んで、いじめたほうがピンピンしてるなんておかしくない?」

「いじめた側には悪意がなかったんでしょう。少なくとも自分の身体を殺してしまうほどの悪意じゃなかった。単に、ちょっとおもしろかっただけとか。風俗に勤めている親がいる子はいじめてもいいという正義があって、いじめているという感覚じゃなかったのかも。それか、そもそも単に見ただけ。蔑んだだけ。だから、いじめたという感覚はなかった」

「でも、いじめだよね」

「どうなんだろう」

「少なくとも、アザミちゃんはいじめだって思ってたわけでしょう」

「そうだね」

「なにがいじめかそうでないのかをわけるのかな」

「少なくとも、みんなはレンゲのことをある意味愛していた」

「愛? プッおかしいな。そんな言葉で表現するなんて」

「愛という言葉で変というのなら、関心でもいい。親が子どもの関心を引くように玩具をやったり、好きとか嫌いとか無理やり言わせたりするでしょう。そういう関心が彼女を殺した」

「悪意が愛ってことになっちゃうけどね」

「そうだよ。愛は悪意だ。この世界はあくいで満ちている」

「まあ実際に物理的に満ちちゃってるわけだけどね」

「ウィルスなんて関係ないよ。だって、わたしはいつだって愛に殺されてきたんだから」

「そうだね……」

「クロウマ。あなたはやっぱりわたしとお父さんのこと知ってるの?」

「しらなーい。そんなのぜんぜんしらなーい」

「そう。いいよ。べつにそれでも」

「どうしたのアザミちゃん」

「なんでもないよ」


 2


 本当になんでもないのだ。

 わたしと父との関係は少しだけ変化していた。

 この悪意のある世界では、父の愛がミサイルのようにわたしの身体を破壊してしまう。

 現実的に言えば、わたしが吐いちゃって、どうにもならなくなるというだけの話。

 父は言う。

「どうして、お父さんはお前のことをこんなにも愛してくれるのに。おまえはお父さんのことを愛してくれないんだ」


 わたしは決まって沈黙を返すしかない。

 結局、毎夜のお勤めは、回数が減っていった。


 そしてある日、家に帰ったら、父が妹を抱いていた。

 わたしは殺意が全身を貫くのを感じた。

 ほとんど無意識に台所から包丁を取り出し、この男を殺してやるという気持ちが満ちる。

 と、同時に、体中をめちゃくちゃにかき回されたような気持ち悪さが襲う。

 こんな気持ち悪さを感じるのは、わたしがまだ人間で妖精になりきれないからに違いない。

 けれど、殺さなきゃ。

 妹を守るという使命感を胸に、わたしは包丁をかまえる。


「待って、お姉ちゃん」


 腕にすがりついてきたのは妹だった。

 わけがわからなかった。

 部屋の隅で震えている男ではなく、妹がわたしを止めたのだ。


「なぜ止めるの。こいつ殺さないと……、奪われちゃうんだよ」

「わたしから言ったの」

「は?」

「わたしからお父さんとシたいって言ったの」

「なぜ?」

「だって、わたしずっと知ってたよ。お姉ちゃんがお父さんとしてること。お姉ちゃんが本当はそんなことしたくないってことしってたよ」

「だからって……」

「だって、お姉ちゃんを手伝いたかったから」

「お姉ちゃんはあなたを守りたかったんだよ!」

「でも、これって気持ちいいし、べつに"なんでもない"と思うんだけどな」

「そう……」


 妹に対して、わたしははっきりと殺意を抱いていた。

 いままでの愛しさが完全に消え去ってしまうわけではなく、殺意と愛が奇妙にブレンドされた気持ちの悪さだ。

 頭がズキズキと痛む。

 包丁は手からするりと抜け落ち、畳の上に突き刺さった。


 そしてわたしは逃げるように外に出た。



 1



「アザミちゃんはどうしたい?」


 わたしはフラフラと村の中を歩いていた。

 気づいたら、学校の屋上にいた。

 そこは村の中で一番高いところにあって、せかいを見下ろすことができる。

 

「アザミちゃんはどうしたいのかな?」


 クロウマがもう一度聞いた。


「世界が滅んでしまえばいい。ある日突然ミサイルが落ちてきて、みんな焼き払われてしまえばいい。どうして悪意を毒にするなんて中途半端な攻撃力を持たせたのかな。そんなの意味がないよ。だって、元から世界は悪意で満ちている」

「敵性勢力の反撃を防ぐためだってテレビで言ってたね」

「そんなことが聞きたいんじゃない」

「クロウマはクロウマだよ。アザミちゃんが聞きたい言葉を投げかけてあげるほど優しくないよ」

「そうだね……。あなたはいつだってそうだった」

「死にたいの?」

「死ぬのもいいかなと思った。わたしは勝手に妹を守ってるつもりだったけど、妹にとってはそうではないらしいし。むしろ、わたしのほうがお荷物だ」

「妹ちゃんはそんなこと思ってないと思うけどな。少なくともアザミちゃんみたいに対して吐いちゃうほどの悪意は抱いていないわけでしょう」

「悪意も愛もわたしにとっては同じだ。わたしには愛が精液のようにしか感じ取れない」

「じゃあ、殺す?」

「殺したいとは思った。わたしはあの男だけじゃなくて、妹にもはっきりと殺意を抱いたよ」

「殺すの?」

「殺さない」


 結局、わたしはさして考えもせずに、そう答えた。

 それはわたしに愛が足りないということではなくて、わたしはいまだ人間だからだ。

 わたしは妖精にはなれない。

 わたしはクロウマとは違う。


「いいよ」クロウマは両の手を翼のように広げた。「アザミちゃんはアザミちゃんらしく、みっともなく、生きつづけるといいよ。悪意にまみれながら、愛が毒であることを知りながら、のたうちまわって苦しみながら生き続ければいい」


「ひとつだけ知りたいのだけど」

「なあに?」

「あなたは本当にいるの?」

「まるで、愛は本当にあるのとか言いたげな表現だね。アザミちゃんはどう感じてるの?」

「あなたは、わたしの妄想じゃなくて、本当にいると感じている。本当に生きていると感じている」

「なんでそう思うの?」

「友達だと思ってるから」

「なーにそれ」


 クロウマがケラケラと明るく笑う。

 顔が熱くなってくるのを感じた。

 なに恥ずかしいこと言ってるんだか。

 こんな非論理的なこと、わたしらしくない。


「でも、ありがとう。クロウマは本当にいるよ。あなたの心の中にとか、そういう詩的な表現じゃなくて。そんなこと誰にも証明できないけれど。クロウマはアザミちゃんの目の前にいるよ」

「なぜわたし?」

「ちょっとした気まぐれかな。べつに理由なんてないよ。アザミちゃんは友達になろうとするときに、理由を求めるの?」

「いいえ。でも、クロウマから友達になりたいなんて聞いてなかったから」

「そんなことを言ったら、傷つけちゃうかもしれないでしょう」

「そんなこと考えてたんだ」

「クロウマは妖精だからね。愛に対しては敏感だよ。愛はナイフだよ。ハートを切り裂くよ」

「わたしはあなたを傷つけたの?」

「人間はいつだってクロウマを傷つけるよ」

「ごめんなさい」

「べつにいいんだよ。人間はいつだって自分勝手だからね」




 0




 あれからわたしは家をでることを決めた。

 児童相談所に電話をかけて、虐待されていると伝えた。

 みなの蔑むような視線に、悪意の放射線を感じ、胸の奥がムカムカしたが我慢した。

 父親は逮捕されて、妹はわたしとは別の場所に行くことになった。

 児童施設は、村の外にあるらしい。

 しかし、そう遠いところではなく、トンネルを抜けたすぐ先、なんのことはない――隣町にあるそうだ。

 わたしはバスを待っている。

 クロウマは隣にいる。

 眠そうな顔をしている。

 そっとその柔らかそうな頬に触れた。

「うに」

 と言っていたが、かまわなかった。


 わたしはこの悪意が毒になる世界で生きていく。

 人間として。

 ただ、愛とは悪意であることを知っている人間として。

 それでも誰かを想わずにはいられない。

 それでも誰かに想われずにはいられない。

 だって、人間だから。

 誰かの愛がわたしを殺そうとするとき、わたしはその誰かを殺してしまうのだろうか。

 それとも無抵抗のまま殺されてしまうのだろうか。

 そのとき、わたしは妖精なのか。それとも人間なのか。

 いずれにしろ、今はわからない。

 ただ今はひとり。……と一匹の妖精さんだ。

 考えることはたくさんあって、アラートの音はずっとうるさい。

 そんな世界で、とりあえず生きていこうと、わたしは思った。


 




 

科学的な記述とかなくても、センスオブワンダーがあればSF。

世界を裏側から記述する方法としてSFはやりやすい面があります。

ただ、この作品はどうなんだろう。

正直、妖精さんをぶちこんだせいで、それと『悪意が毒になる』というガシェットがかみ合ってない感、半端ないな。


まあ、書いちゃったもんはしょうがないので、さっさと次の作品を仕上げようと思います。

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