終章
終章
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薬品のにおいが鼻をつく。不快というほどでもないが、決していいにおいなどではない。続けて羽澄が目を開けると、あたり一面が白かった。
「羽澄! 大丈夫……?」
声のした方を見ると、髪の長いを持つきれいな少女が、椅子からこちらに身を乗り出していた。
段々と意識が覚醒してきて、ここは病院で自分は寝かされているということを認識し始める。
しかしそこに至る経緯を思いだせない。
「羽澄?」
うまく目の焦点が結べず、少女の顔がぼやけて見えない。けれど、その声は聞き覚えがある。
「…………涼夏……?」
少女の名前を呼んだ瞬間に視界は一気にクリアになる。びくりと少し身を引いた涼夏が視界に飛び込んできた。
「だいじょう……ぶ?」
恐る恐ると言った感じに上目使いに尋ねられる。
体はやたらと重く、そして少し肌寒い気がしたが、痛いところなどはなかった。
「……おう」
涼夏と話したくないという思いはもちろんあった。気がかりだったのはたしかだが、実際に対峙するとなぜか恐怖が膨らむ。けれど、体が気怠く追い払う気力もない。
「なにがあったか覚えてる?」
これ以上は会話しないつもりだったのだが、事の顛末については把握しておきたかった。
「いや……」
素っ気も愛想もなくそう答える。
「羽澄、男の子を助けようとして自分が溺れちゃったんだよ。冬の川に何の計画性もなく飛び込むなんて自殺行為だよ」
そこまで言われて思いだす。たしかに羽澄は川に飛び込み、男の子を救出し、その後意識を失った。
「あの男の子は?」
それが気がかりだった。
涼夏はかなしそうな表情をひっこめ、くすりと笑った。
「大したことないみたい。念のために一日入院したけど、いまはもう元気よ」
「……今日、あれから何日たった?」
「三日」
すると自分は溺れて三日も寝ていたのか。なんて格好悪いんだろう。
「もう少しで溺死するとこだったのよ?」
そんな言葉を受けて、羽澄は。
「死んでればよかったのに、俺なんて。どうせ……生きる意味もない。人を助けて死んだってことなら……気分よく死ねたのに」
心の扉はそう簡単には開かない。
頑なに、扉を守り続ける。
「羽澄……あたしの話、聞いてほしい」
「いやだ」
即答だ。もう傷つけられるのはごめんだ。
「お願い……」
「聞きたくない」
「あの話にはまだ続きがあるの」
「……」
続きとは何だろう。また羽澄を傷つけるものかもしれない。
「帰ってくれ。もう……顔も見たくない」
傷つくのが怖い。もう一度心を開いて、また騙されてしまうのが怖い。これ以上、痛みを背負ってしまったら、本当に生きる意味を失くしてしまいそうで怖い。
「最後ってことでいい。あたしに……最後にチャンスをください」
涼夏の最後の話。真実を続き。それは……少しでも羽澄を楽にさせてくれるものかもしれない。
それならば、聞く意味はあるのではないか。
羽澄の心は揺れ動く。
恐怖と希望の狭間で、羽澄は結局最後の賭けだと思って、話くらいは聞いてやることにした。
「……わかった」
「ありがとう」
羽澄は涼夏から目を逸らし、天井を見る。深呼吸を一度して、心を守る用意をする。
「……あたしね……羽澄のことが本当に、好きよ」
はじかれたように、再び涼夏を見る。
涼夏は目を伏せていて、こちらを見ていなかった。しかしその顔は穏やかなもので余計に羽澄を驚かせた。
涼夏の話はいつだって単刀直入で、羽澄を翻弄する。
「なに、言って……」
「ごめんね。勝手よね」
頼りない微笑みだった。なぜか胸が締め付けられた。
「あたし気付いたんだ。最初は確かに気まぐれだった。でもいつからか本当に羽澄のことがすきになってる自分がいた。デートしてるとき、最高に楽しかった。あたしのこともっと知ってほしかったし、羽澄のこともっと、知りたかった。一年近く羽澄と恋人でいられてあたし幸せだった。槙人くんに言われたの『涼夏ちゃんも羽澄を愛していなかったら記憶までは戻らなかった』って。それで、あたし……気付いたの」
「……本当に、か」
信じられなかった。けれど彼女は今度こそは本当だと言う。
また羽澄の心が揺れ動く。恐怖が不安に和らいでいた。
「うん。ここまでがあたしの真実よ。羽澄……あなたを傷つけてしまってごめんなさい。けど、いまは本当に心からあなたが好きです」
今まで見たことがないくらい、涼夏は真剣な顔をしていた。
いまの話を嘘だと決めつけてしまうのは容易い。けれど、もし嘘ならばもう一度羽澄のことを好きだなんて言ってくるだろうか。
さらに追い詰める発言なんて、よっぽどの悪魔でない限りはしないだろう。
心の扉をノックする音が聞こえる。もう一度人を信じたいと、心が叫んでいる。
ベッドから身を起こし、座って涼夏を見る。
「……別の話をしてもいいか?」
「え? いいよ」
話の腰を折られた涼夏は多少なりとも力が抜けてしまったようだが、この際気になることは全部聞いておこうと思った。
「川で溺れた俺を助けてくれたのは誰だ?」
「あたしよ?」
「……」
即答だった。わけがわからない。
「いや、待てよ。それは無理だろ?」
あの場にはいじめていた少年ふたりと羽澄が助けた少年しかいなかった。合理的に考えれば、少年たちがなんらかの方法で周囲に助けを求めた、と考えるのが妥当だろう。
「十月の上旬にあたしは新しい未来予知を受けたの」
いきなりなにを話す気だ、と不審に思った。まさか自分が話を変えられた仕返しをしてきた、ということはあるまい。
「それは冬の川で男の子を助けた少年が溺死をする未来だった」
そこまで聞いて、ある可能性が思い浮かぶ。
「まさか……」
「うん。羽澄の予知」
それではあの事故が起こることを涼夏は知っていたのだ。
「それならどうして、先に俺に言ってくれなかったんだ」
「正確な日時が分かっているわけではない状態で教えても混乱を招くだけよ。第一、あたしも前にためしたんだけど、自分だけの力では自分の予知は変えられないの。それに……あの時の羽澄があたしの話を聞いてくれたとは思えない……」
「……それもそうか」
よく考えてみればちゃんと命は助かったのだし、過去のことをぐだぐだ言っても仕方ない。むしろ涼夏の未来予知に感謝すべきところでは? と羽澄が思考を巡らせたところで、あることを思いつく。
「いや、待てよ? 正確な日時はわからないんだよな? どうやって俺がその日に溺れるってわかったんだ?」
「未散と槙人くんに手伝ってもらって……その…………」
語尾が尻すぼみしていく。なにを言っているか聞き取れない。
「なんだって?」
「だから! 毎日三人交代で…………してたの」
「なにしてたって?」
じれったい。涼夏はこんな風に、自信なく話すタイプではなかったはずだ。と、急に吹っ切れた涼夏が叫ぶ
「だから! 尾行してたの! 三人で!」
「!! 尾行って、それ……ストーカー……」
「言わないでよ! 助かったんだからいいじゃない!」
なぜか逆ギレされる羽澄だった。
実は、涼夏と槙人と未散は、涼夏が未散と仲直りした翌日からさっそく交代で羽澄のあとをつけ、見守っていたのだ。今思えば“マフラー”というヒントもあったのだがら、羽澄がマフラーをするようになってから尾行すればよかったのだが、そのときはそこまで頭が回らなかった。
そして三日前、羽澄を尾行していたのは涼夏だった。羽澄が川に飛び込んだのを見た涼夏は急いで槙人と未散に連絡をした。
実際に助けたのはその場に居合わせた涼夏と、『川にいる』というメールを見て慌てて近くまで来てから涼夏の連絡を受けていた槙人の二人だ。未散は救出に間に合わなかった。その後、救急車には救出後に駆けつけた未散が同乗した。涼夏と槙人は濡れてしまっていたので、一端家に帰った後、服を着替えて病院へやってきた。
羽澄は涼夏からそんな説明を受けた。さっきまでは完全に重い空気だったが、これでだいぶ場の空気が和んだ気がする。今度は羽澄が自分の思いを告げる番だ。
「……涼夏、俺の話も聞いてくれないか」
一瞬にして羽澄の纏う空気が変わったことに、涼夏もなにかしら察知したようだ。
「うん」
短くそれだけ返して、話を促してきた。
「俺、涼夏が吐いた嘘は……やっぱり許せない。なんだよ、気まぐれで選んだって。俺をなんだと思ってんだ」
「ごめんなさい……」
「でも、涼夏のその未来予知がなかったら俺は死んでた。だから、傷つけられて助けられたからこれでプラマイ零だ」
「……え?」
話が読めない、といった風に涼夏は純粋な疑問の声をあげる。
それを見て、羽澄はより強固に決意を固める。
「俺もう一回、零から涼夏を信じる。だからまた最初から始めよう」
涼夏は目を見開き、衝撃を受けた顔になる。しばらく口をぱくぱくさせる。
「それってつまり……?」
そんな涼夏を見ていて、なんだか恥ずかしくなってきた羽澄は、視線をあさってのほうに向けながら、
「……告白を受ける、って意味だよ」
とぶっきらぼうに答えたのだった。
事態を段々と把握し、涼夏は目をきらきらと輝かせる。
「あとなんだっけか……。右目が見たい? だっけか?」
そう言って、羽澄は右半分を覆っていた長い前髪を耳にかけた。まあその下はふつうの顔なのだが、羽澄が顔を見せる、ということの意味は大きかった。
羽澄の中の心の扉をノックしていた人物が入ってくる。逆光でシルエットしかわからないが、長い髪の少女だ。
「これでいいか?」
そう言って羽澄は柔らかく微笑んだ。
意外そうな顔をしていた涼夏だったが、すぐに我を取り戻し、
「羽澄ぃ!」
と叫んで、彼に飛びついた。
「ちょっ! やめろよ!!」
ベッドの上で必死に抵抗していると、
「よ! 元気か……って」
「……あたしら邪魔?」
病室のドアが急にスライドし、槙人と未散が現れた。
「いや、邪魔なわけない! むしろ入ってくれ」
切にそう懇願する羽澄が、右の顔もさらけ出しているのを見た槙人は、
「羽澄……! そっか、涼夏ちゃんとやり直すんだな」
と安らかな顔をしたのだった。
そこにはたしかに深い安堵と祝福があった。
「よかった。二人ともよかった!」
未散は満面の笑みで、祝福してくれた。
「二人ともありがとう」
涼夏は羽澄から離れ、そう感謝を述べた。
そして、槙人がなんでもないことのようにこう言った。
「そう言えば、羽澄。俺な……未散と付き合うことになった」
瞬間的にフリーズ。
数秒かかり、そして。
「「えぇぇぇ!!!!」」
羽澄と涼夏の絶叫が見事に重なった。
そう言えば、いつの間にか未散の呼び方が“未散ちゃん”から“未散”になっている。
「いやー、羽澄くんのストーカーしてるときにたくさん話す機会があってさ。それで惚れちゃった」
おどけたように言う未散の顔はもうすでに恋する乙女のそれだ。
そして自分の命の危機が迫っている裏で何があったのか、俄然気になる羽澄だった。
「まあ羽澄も無事で涼夏ちゃんと恋人に戻って、俺らも恋人になった。これで全部すっきりだな」
槙人が場を締めくくるように、まとめあげた。
なんだか釈然としない羽澄だったが、親友のしあわせはたいへん喜ばしい。槙人がしてくれたように、自分も心からの祝福を送ろう、と思った。
「羽澄はあたしがしあわせにするわ」
なんとも強気な彼女らしい、頼もしいお言葉だ。
「いや、羽澄“が”涼夏ちゃん“を”だろ」
槙人のつっこみも届かず、本人の涼夏はもう未散とガールズトークを始めていた。
槙人と二人で顔を見合わせ、苦笑いを浮かべるのだった。
こうして羽澄と涼夏は本当の意味でやっと“恋人”になった。これが彼にとって吉となるのか凶となるのかは、これからの二人次第。
初めて書いた長編作品です。某ラノベ新人賞に送りましたが、落選しています。せっかく書いたものなので、投稿してみました。