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少女の嘘と少年の傷  作者: まつ
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第五章

第五章



   ○



 少女は店に入った。一気に店内の冷房が少女に降り注ぎ、汗で濡れた服を乾かしていく。

「いらっしゃいませー」

 店員が声をかけてくる。待ち合わせをしている旨を伝えると、

「ああ。先ほどお客様くらいの方を案内しましたよ。こちらになります」

 店員に連れられて店の奥まで行くと、ある席で一人の女の子がつまらなさそうな顔をして携帯をいじっていた。こちらに気付いたのか、不意に視線をあげ、

「涼夏! こっちこっち」

 と手招きをしてくる。左右でくくられたショートカットの髪がその動きに合わせてひょこひょこと揺れていた。

 少女――忽那涼夏は店員に頭を下げると、女の子の向かいの席に座った。

「待たせてごめんね」

「いいよいいよ。気にしないで」

「それで話って?」

「うーんと、まあまずはここファミレスなんだし、なにか注文しようよ」

 女の子がメニュー表をテーブルの脇から涼夏に手渡す。

「それもそうね。未散はなにか食べる?」

 女の子――竹沢未散は飲み物だけでいいや、と答えた。

 テーブルに備え付けのベルで店員を呼び注文を済ませると、また二人の空間に戻る。

「あのさ」

 未散はなにかに急かされるように口を開いた。ここで沈黙してしまったら、二度と口を開けないかもしれない――そんな予感めいたものがあったのかもしれない。

「羽澄くんとなにかあったの?」

 その言葉に涼夏は瞬間的な反応を見せた。

「な、なんのこと?」

 あからさまに動揺している。

 涼夏は落ち着こうとし、逆に声を詰まらせててしまった。

 それを見た未散は確信する――これはなにかあった、と。

「会ってないの?」

「……」

「喧嘩しちゃった?」

「……」

 涼夏は頑として口を割らない。

「連絡はとってないの?」

「……はあ」

 根負けしたのか、ため息をひとつ吐く。それから、

「実は八月の中旬くらいから連絡とってないのよ」

 いまはもう八月の終わりだ。明日から夏休みが終わり、二学期が始める。中旬からというと二週間くらいある。

「……なにがあったのよ」

 涼夏は未散の目を見つめた。

 その未散の瞳の中に真剣な光を認めると、ぽつぽつと語った。

 もちろん未散は、涼夏に未来予知の能力があることを知っているし、中学時代にあった事故のことについてはそばで目撃していたので、その話は省かれる。

 話したのは、自分が事故に遭って衰弱死していく予知を受けたこと、その状態から助かるために恋人作ったこと、そしてその恋人に羽澄を選んだこと。

 そして、すべてを聞いた未散の反応は。

「……なにそれ」

 その声は怒りを孕んでいた。

「それってさあ、あたしのことも槙人くんのことも騙してたってことだよ? わかってる?」

 涼夏はこのとき、未散が怒っている姿を初めて見た。

 未散は眉を吊り上げ眉間に皺を寄せ、不快感を露わにしていた。実際、彼女は童顔なので怒っている顔も幼く見えてしまい迫力はないのだが……いまの涼夏はそんなことを思わないくらいショックだった。

「あたしと槙人くんがどれだけ二人を祝福したと思ってるの……っ。しあわせそうな二人を見て、あたしたちも元気もらったりしてた。それなのに……それなのに……全部自分が助かるために演じてた嘘だなんて」

 未散は次第に俯き、ふるふると震えだした。

「お待たせいたしました」

 そこでタイミングの悪いことに注文していたジュースが届けられた。

 けれど、未散はそれにも構わずにダンッと手を着いて立ち上がり、

「そんなの最低だよ!! 涼夏がそんな最低な人間だと思わなかった!! もうしらないから」

 大声でそう叫び、さっさと店を出て行ってしまった。

「待っ――」

 涼夏はというとあまりのことに咄嗟の反応を返せず、追いかけようとしたときには一足遅かった。

 注文の品を置きに来た店員も呆然としてしまっていた。

 涼夏はそして、独りになってしまった。



 夕方、家に帰り着いた涼夏はベッドの上で膝を抱えていた。

 もう何も考えられなかった。

 しかしそこへ、未来予知の映像が流れる。


 人影は二つ見えるようになった。二つは近づき重なりそうになりながら、あと一歩のところで引き離されていく。

 乱反射する水面。冷たい温度。

 二人の姿はやがて見えなくなる。

 水に埋もれて、見えなくなった。


「溺れてる……?」

 段々と次の予知がはっきりとしてきている。最初にイメージが来たのは夏休みに入った日なので、九月中にははっきりとした予知を受けるだろう。そうすると現実にはるのは年明け頃ということになる。

「真冬じゃない……。そんな時期に溺れたら死んじゃうわ」

 できることならまた助けたい。せっかくこんな能力があるのだがら、なにかに生かしたい。

 けれど、いまは正直そんな心の余裕はない。

 まだ羽澄に連絡はつかない。メールはもちろん返ってこないし、電話をかけても電源が入っていないという機械音声が流れるのみだ。

 そして今日、未散も怒らせてしまった。

 もう味方はいなくなってしまった。

「あたしは……どうすれば二人に許してもらえるの……?」

 涙はぽつりぽつりとベッドしみこんでいく。



   ●



 昼間なのに光を閉ざした、真っ暗な部屋。

 その中で羽澄は一人立ち尽くしていた。

「これからどうしような……」

 携帯の電源は切ってあるので、いまは家族くらいしかコミュニケーションを取っていない。槙人にさえ、なにも話せていなかった。

「言えないよな……あんなに喜んでくれてたのに。全部……あいつの嘘だった、なんて」

 槙人は羽澄の幸せをだれよりも喜んでくれていた。

 なのにいまのこの羽澄の状態を――昔に戻ったような心理状態を見たら、彼はなんと言うだろう。

羽澄が悪いことをしたわけではないのに、本当のことを話すのが心苦しい。

 その時、小さくインターフォンが鳴る音が聞こえた。現在、自宅には母親と弟がいるので羽澄が出る必要はないだろう。もっともセールスかなにかだろうが……。

 そう思ったのだが、階段をドンドンと大きな音を立てて上がってくる足音が響いた。そしてそのまま羽澄の部屋の扉が開かれた。

「暗っ! 羽澄!? いるか?」

 扉のほうを振り返っても、部屋が暗すぎてシルエットしか認められない。仕方なくカーテンを一気に開ける。

 急に光に照らされ、思わず目を閉じる。まるで暗い思想を浄化していくような光だった。

「羽澄!」

 そこにいたのは槙人だった。怒りと悲しみの入り混じった複雑な顔。

「槙人……どうして」

「どうしてじゃねえよ! ずっと連絡取れないから心配したんだよ」

「ごめん、電源切ってた」

 なんだか槙人の目を見られずに、目を逸らす。なぜか後ろめたかった。

 その様子を見た槙人は、

「なんかあったんだな……涼夏ちゃんか?」

 とずばりと言い当てた。

「……ん」

「やっぱりそうか」

「……」

「中学の時と、いま同じ顔してるよ、羽澄。つらいのに何もなかったフリをしようとしてる……無理してる顔」

 ――そうか、いま俺はそんなひどい顔をしてるのか。

 言われて、羽澄は自分が相当傷ついていることを改めて自覚した。正直、涼夏に本当のことを話されたときは頭が真っ白で何を言ったかさえ覚えていなかった。そして訳が分からないままに携帯の電源を切ってしまっていたのだ。

「なにがあったか、話してくれないか。俺は、羽澄の味方だから……なにがあっても」

 最後の言葉には一段と力がこもっていた。

 顔を上げると、槙人と目が合う。


「俺たち友達だろ?」


にやっと笑う彼に、泣きそうになった。

――どうして、槙人はこんな自分と友達であり続けてくれるんだろう……。

そんな消極的な考えが頭に浮かぶ。羽澄はたしかに、槙人のことを唯一無二の友達だと思っている。けれどそんなに大切な相手を、羽澄はいつも困らせたり心配させてばかりだった。

 けれど羽澄が中学時代も何度も、槙人のこの笑顔に助けられたのは事実だ。

 どんな理由であれ、傍にいてくれるのなら大切にしていこう、と羽澄は気持ちを新たにした。

 ――もうこの先、槙人しか信じなくてもいいかな。

 そんな思いさえ湧いてきて、涼夏が語ったことすべてを打ち明けた。

全部を話してしまうことで楽になってしまいたかった。その思いだけで話そうと思えた。

けれど実際はつっかえてばかりで、うまく話せていなかっただろう。それでも槙人は急かすことなく最後まで話を聞いてくれていた。

 そして話し終えたあと、槙人は数秒黙った。完全に俯いてしまっていて、表情さえもわからない。

「槙人……?」

 不安になって呼びかけると、槙人は小さく呟いた。

「なんでなんだろうな……」

 そのまま顔をあげると、その目は涙で潤んでいた。

「なんで羽澄ばっか、つらい思いしなきゃいけないんだよ。やっと、やっと、少しは前に進めたと思ったのにな……。」

 涙が零れることはなかったが、槙人の羽澄への思いは充分すぎるほどに伝わっていた。

「もういいんだ。俺はもう、人を信じることをやめる」

 それでいい。どうせ信じても裏切られる。

「無理に進もうとなんかしない」

 最初から立ち止まったままで進む気がないのならば、だれも急かすことはしないだろう。

「――これで……俺はもう傷つかない」

 その言葉は自分へ向けたものだった。いまは安堵がほしかった。もう傷つかなくていいのだ、という。

 羽澄の隠された右目には大きな闇がある。

 その闇を拭える人物はいないのかもしれない。



 槙人が帰って一人になると、羽澄は今後のことを考え出した。

 やはりどれだけ考えても、涼夏のことは許せそうにはなかった。心が閉ざしてしまっているのが、羽澄自身で確認できる。けれど、その心のどこかでは涼夏が羽澄を呼ぶ声がこだましているのだ。

 矛盾している。

 もうだれも信じなくてもいいと槙人には宣言したくせに、もう一人の羽澄はまた人を信じたいと渇望している。

 これは前の羽澄にはなかったこと。

 たしかに――涼夏が与えてくれた感情だった。

 だからこそ苦しかった。

 どうしたらまた人を信じられるんだろう。

 そして信じたその人は、どうすれば裏切らないでいてくれるんだろう。

 羽澄はどんどん自分の内側に沈んでいっていた。その重力に引かれて、戻るに戻れなくなっている…。

 寝転んだベッドの上で、無意識に手を伸ばしていた。その手はなにも掴めない。ただ、窓から差し込む夏の終わりが近づいた太陽の光が羽澄を照らし、その右目の闇をより濃くしていた。

「涼夏……」

 無意識に口から彼女の名前が零れ落ちたことに、羽澄は気付いていなかった。



   ○



 夏休みが終わり、すぐに秋がやってきた。日付はすでに十月に入っている。

 一か月以上、羽澄とは話をできていなかった。ケータイの電波は相変わらず繋がらない。学校ですれ違っても目も合わせてもらえず、話しかける度胸はなかった。

 一方、未散とも話ができていないままだった。こちらは涼夏が話しかけようとしてもあからさまに避けられている様子だった。

 なので学校では常に一人で過ごしていた。

 校内一の美少女として憧れられてはいるが、実際に心を許せる友人というのは未散一人なのだ。

みんなたいがいは遠めに涼夏を見ているだけで近寄ってきてはくれないのだ。自分で言うのもなんだが、これはある種のいじめではないかとさえ思う。心情的にはのけ者にされている気分だ。

休み時間は移動教室のとき以外は特にすることがないので、席に座ったまま読書をしていた。いま読んでいるのは恋愛小説だ。物語の主人公とヒロインはどうやって二人の間に横たわる困難を乗り越えていくんだろう。けれど道筋はどうであれフィクションの恋愛小説であれば、そのほとんどがハッピーエンドだ。

ノンフィクションの自分たちはこの先どうしたら、ハッピーエンドを迎えることが出来るのだろう。それとももうすでに、そこにいくための分岐点は残されていないんだろうか。

昼休みも弁当の昼食を食べ残たり時間で読書をしていた。そんなとき、だった。

「涼夏ちゃん、お客さんだよー」

 現実に引き戻り顔を上げると、クラスメイトの一人が呼んでいた。

「お客? だれ?」

「前の入口に来てるから、行ってきなよ」

 もしかしたら羽澄かもしれない。

 そんな淡い期待を抱きながら、教室の扉をスライドさせ廊下に出る。

「ごめん、急に呼び出して。いま大丈夫かな?」

 その言葉に声の人物を見上げると、そこにいたのは――槙人だった。

「うん、平気よ。どう……したの?」

 内心かなりビクついていた。

『あたしと槙人くんがどれだけ二人を祝福したと思ってるの……っ。』

 それは未散に言われたこの言葉があったからだ。槙人にもなにか言われることは覚悟していた。もうとっくに羽澄から話は聞いているだろう。むしろ、タイミング的には遅いくらいだ。

「話がある。放課後、少し時間をくれ」

 いまの槙人の顔を見る限り、怒っている様子はない。けれどいまは隠しているだけかもしれない。

放課後、なにを言われるのだろう。どんなに怖くても逃げることはできない。

涼夏はそれ相応のことをしたのだから。

「うん。大丈夫」

「なら授業が終わったらここにいてくれ。すぐ来るから」

「わかったわ」

「それじゃあ、また放課後な」

 必要最低限のことだけ伝えると、槙人は足早に去って行った。



 六限まで授業が終わり、クラスメイトたちが帰路につくなり部活にいくなり慌ただしい教室で、涼夏は席についたまま槙人を待っていた。

 十五分ほどで、教室には涼夏一人が残される。静まり返った空間で、外から運動部の掛け声が聞こえ始めていた。

「ごめん! 遅くなった!」

 息を切らしながら槙人が、教室の扉を大きな音を立てて開けた。そのままゆっくり涼夏の方へ近づいてくる。

 涼夏はなんとなく立ち上がり、槙人が傍へ来るのを待った。

「普段羽澄と帰ってるんだけどさ、言い訳するのに時間がかかって」

「ううん。平気」

 しばし槙人の呼吸が整うのを待つ。

 教室が再び静寂を取り戻したころ、槙人が口を開いた。

「羽澄から聞いたよ、涼夏ちゃんの能力のこと。あと羽澄を騙してたこと」

「……」

「羽澄、もう人を信じるのをやめるって言ってた」

「……ごめんなさい」

「いや、謝ってほしいわけじゃない。俺に言われても困るしな」

「槙人くんも怒ってる?」

 槙人の顔を盗み見る。しかしその顔のどこにも負の感情は見当たらない。驚くほど穏やかなものだった。

「どうして俺が怒るんだよ。羽澄のことは心配だけど、俺が涼夏ちゃんに直接騙されたわけじゃないから」

 涼夏は言葉が紡げなかった。怒られることは確定で、怒鳴られる心の準備をしていたから。

「ていうか“も”って?」

 その言葉で我に返り、気を取り直す。

「未散に『心から応援していた私の気持ちを裏切った』って言われちゃったの……。だから今日、槙人くんにも怒られる覚悟をしていたのよ」

「そうだったのか……。まあ俺も最初はイラっと来たけど、今は全然かな」

「…………槙人くん、やさしすぎるよ」

 怒ってほしかった。

 自分の気持ちを踏みにじった、と未散のように怒りをぶつけてほしかった。

 その方がよっぽど楽になれる。


「やさしくないよ。ただ……涼夏ちゃんを楽にさせたくないだけ」


「え?」

 槙人はなおも穏やかなままだった。声の調子も変わらない。

 それが余計に、涼夏を不安にさせた。

「――俺まで怒ったら、涼夏ちゃんが楽になるだろ? ほんの少しでも心の傷が癒えるかもしれない。だから俺は怒らない。責めてやらない。涼夏ちゃんには、今回の傷を背負って生きてほしい」

 瞬間、笑顔の下にたしかに槙人の闇を見た。親友を傷つけられた、その痛みを。

「ごめんなさい」

「謝るなよ。謝るなら、羽澄に」

「槙人くんは、どうしてそこまで羽澄に尽くすの?」

 槙人の表情は相変わらず静かだった。けれど、その質問をした瞬間に、その仮面が揺らいだ。

「羽澄の中学の時の話は知ってるか?」

「しらない……聞かないほうがいいかと思って」

「……羽澄はいじめに遭ってた。詳しくは、本人が話せるようになったら……言うと思う。それで……俺はそのときから羽澄と友達だった。いや、羽澄がどう思ってたかは知らないが、少なくとも俺は……。なのにあの日、肝心な時に俺は部活に行ってて、助けてやれなかった……。出来ることなら、俺はあの日をやり直したい……! 今も羽澄と一緒にいるのは、もちろん友情もあるけど少なからず贖罪の意識もあるんだ」

「……」

 羽澄がいじめに遭っていた、と言う事実。彼があんなにも臆病になって、自らの顔を隠していた理由が明らかになって、涼夏は余計に羽澄を傷つけてしまったことに対して痛みを背負った。だから、なにも答えられなかった。

「俺は友達を……羽澄を守りたかった。でも、できなかった……。だからもし、今度羽澄になにかあれば絶対に俺が守る。俺はあの日――羽澄が俺に『いつもありがとな』って言ってくれたあの日に、そう……心に決めたんだ」

「……」

 槙人の本音に鳥肌が立った。槙人と羽澄の友情はたしかに本物だった。

 それを聞いて、涼夏は口を開く。

「……羽澄と連絡が取れないの。あたしもちゃんと会って話したいんだけど…………」

 羽澄はいまどうしているだろう。

 彼を傷つけたのは自分なのだが、心配でたまらなかった。

「……涼夏ちゃんはさ、羽澄と一年付き合ってどうだった? 楽しくなかった?」

 最初に羽澄を選んだのは確かに気まぐれだった。気になったことと言えば、告白のときに言った“前髪で目が隠されていること”くらいだ。言うまでもなく、恋愛感情ではない。

 羽澄は関わり始めて最初、笑わなかった。目を見て話してさえくれなかった。名前も呼んでくれなかった。それが気に食わなくて、彼を選んだのは失敗だったかもしれないとまで思ったこともある。けれど、日に日に想いが移ろい、いつしか彼からの連絡を待っている自分に気付いた。

 遊園地でデートしたときの『あたしをもっと知ってほしい』という言葉は無意識に出た、本心だった。

 その後はどんどん気持ちは増していくばかりで、自分はおかしくなってしまったのではないか、と涼夏は自分を疑った。

 そして、いつの間にか本当に羽澄のことが好きになっていることに気が付いた。

「楽しくなかったら……こんなにも長く、一緒にいないわ」

「なら、涼夏ちゃんにとって羽澄は特別じゃなかったか?」

 羽澄の存在は大きく、気付けばいつも彼のことを思っていた。

 羽澄に会えれば、場所なんてどこでもよかった。だから、二人の家から一番近く会いやすい場所――公園で会うことが多かった。

「それは……」

「いや、これは俺には言わなくていいや。でもさ俺、涼夏ちゃんの真実を羽澄に聞いたとき思ったんだ」

 聞き分けの悪い子供をなだめるように。

 それは涼夏自身も気づいていなかったこと……。

「たとえいくら羽澄から愛をもらったとしても、記憶を失う以前の涼夏ちゃん自身が羽澄を好きでいないと、失われた記憶は戻ったりしなかったと思うんだ」

 涼夏は驚愕した。

 槙人の言うことが本当ならば、記憶が戻った時点で涼夏は羽澄を愛していることを証明してしまったようなものだ。

「そのあたりは考えてなかった? ただ単に“恋人”って位置づけの励まし役がいれば事故のショックから立ち直れると思ってた?」

 なにも答えられなかった。それは図星だったから。

 もっというなら、自分が“恋人”を虜にし愛されてさえいえば、生きる希望になると涼夏は思っていた。けれどそれは間違いで、涼夏の意志も、想いも必要だったのだ。

「あたし……」

 視界がぼやけた。気付けば、涙があふれていた。

「俺が涼夏ちゃんを羽澄に会わせる。俺がなんとかする。だからあいつを救ってやってくれないか?」

 槙人はいままでに一度も見たことがないくらい、弱々しく頼りない顔をしていた。ふとすれば泣き出してしまいそうな、精いっぱい涙をこらえている顔。

「俺はたしかに羽澄を守るって決めた。でも、守るだけじゃ心までは救えないことに気付いてしまったんだ……。俺じゃこれ以上、あいつを助けられない……」

 槙人の声は涙で震えていた。槙人の思いが、痛いほどに伝わってくる。

 槙人は苦しんでいる。あと一歩のところで親友を救いきれない、もどかしさで。

「……あたしなんかが、羽澄を救えるかな? あたしが傷つけたのに……」

 涼夏が自分で傷つけてしまったのに、もう一度信じてくれ、なんて彼を前にして言えるだろうか。

「涼夏ちゃんの存在は少なからず、羽澄の心に影響を与えてた。一度だけでも変わりたいって思えていたのは、たしかに涼夏ちゃんのおかげなんだ。だから、いまの気持ちを羽澄にぶつけてやってほしい」

「……」

「このままだと羽澄は一生変われない。変わるきっかけさえ掴めない」

 もう一度拒絶されるのは怖い。

 けれど、涼夏はもう一度誠意を見せて彼に謝罪すべきだ。たとえ彼に許されなくても――いや許される可能性など一%も考えてはいけないのだが。

「わかった。あたしももう一度、話したい」

「よし、じゃあ俺が羽澄を呼び出すから、あとは任せた。日にちはそうだな……今度の日曜は空いてるか?」

 槙人の声からは、すでに涙の気配は失せていた。槙人は親友が立ち直ってくれることを、心から信じているのだ。

「うん。だいじょう――」

 そのときだった。いきなり未来予知の映像が、頭になだれ込んでくる。それはだれがどんなことに遭うのか確定された未来予知だった。

「涼夏ちゃん?」

 映像は五分ほどで終わり、槙人の姿がまた見えるようになる。

「うそ……」

 未来が示す、あまりの残酷さに声が奪われる。

「どうしたんだ?」

「あたしが助けなきゃ」

 槙人の疑問も無視し、ひとりで呟く。

 ――もしこれが現実になってしまったら、あたしに生きる資格はない。

 涼夏は、わけもわからぬまま自分を見ていた槙人の手を取り、こう言った。

「お願い、力を貸して」

 


   ○



 空が段々と赤みを増していく中、少年は制服姿で道を歩いていた。

 刺すように冷たい風に怯えるようにマフラーに顔をうずめていた。もはや顔は左目しか見えていない。ポケットに手を突っ込みながら、かろうじて遠く見える男の子たちの背中を追っているようだった。

 住宅街を抜け川にかかる橋の前の道を左に折れる。土手に出ると、下に芝が生い茂った河原が見える。そこまで、石階段を下りていく。

 きょろきょろと辺りを見回しているところを見ると、どうやらそこに来たのは初めてか、久しぶりなのかもしれない。

少年は何の気はなしに、すぐそばでやっていた少年野球の練習を見ていた。少年が見ているその中に、やたら体の小さい男の子がいた。いかにも気が弱そうで、おどおどしている。

しばらく少年が見ていると、体の小さな男の子がメンバーの二人に連れられて、少年がいる橋の下の方に近づいてくる。

少年はなぜか橋の陰に隠れるように身をひそめた。

男の子たちの会話は聞こえない。けれど状況的に見て、何かを非難されているようだ。体の小さな男の子は段々と川岸に追い詰められていく。

そして次の瞬間。男の子はメンバーの二人によって川に突き落とされた。

少年は身を乗り出して反応したが、時はすでに遅く、男の子の姿はもう見えなかった。

この川は川幅もあるが、水深も結構あるのだ。小学生の男の子が足をつけないほどには。

メンバーの男の子たちは本当に落ちてしまった、というような衝撃を受けた顔をしていたが、次第に仲間内で言い合いを始めた。

少年は焦る。

この時期に水に落ちてしまえば、凍死の可能性は必ずつきまとう。最悪の場合、本当にそうなってしまうかもしれない。

そしてもしも自分が隠れずにあの場にいれば、男の子は川に落とされずに済んだのではないか、という自責の念にもかられる。

そう思いだすと、罪悪感は連鎖的に止まらない。そして、それが少年を突き動かした。

少年は橋の陰から飛び出し、急に人が現れて驚く男の子たちに見向きもせずに川岸に走る。マフラーを取りブレザーを脱ぎ捨て、靴を走り脱ぐ。

そしてそのまま川に飛び込んだ。

水面から少年の影が消えていく。

しばらくすると少し離れた場所に、息継ぎのためにひょこりと顔を出した。そして深く酸素を取り込み、また潜っていく。

 何度かそれを繰り返すと、少年は男の子を抱きかかえ水面に戻ってきた。そして川岸に男の子をなんとか持ち上げ、自分も上がろうとするが、水の冷たさに体力を奪われたのか自分の体を川岸に上げることができない。

 そして少年は段々と力失っていき、川に再び沈んでいった。

 男の子を突き落した二人が、なにやら叫んでいる。

 しかし、少年は五分経っても、水面に顔を出すことはなかった。



   ○



 翌日の授業終わり、廊下を歩きながら――というより昨日からずっと――涼夏は悩んでいた。

 新たに受けた未来予知は羽澄のものだった。羽澄が見知らぬ男の子を助けるために川に飛び込んでいた。

 ――羽澄の死の予告……。

 予知が実際に起きるのは今日から三ヵ月以内。いますぐに起こるわけではないので、現在の羽澄にはまだ危険は迫っていない。しかしいつそれが起きてもいいように、対策はしておかなければいけない。

 けれど、一口に対策と言ってもどうすればいいのだろう。

 “川”ということ以外のヒントはなかった。あの川はたしかに学校から歩いて行けない距離ではないが、具体的な日にちがわからなけれな、救いようがない。

 中学時代に人を助けて未来を変えたときは“工事現場”と“頭上にぶら下がる鉄筋”という一目でピンとくるヒントがあった。だからこそ助けられたのだ。

 今回は場所はわかっている。

 ならば、毎日その場所で見張るしか羽澄を助ける方法はない。そのために槙人に助けを求めたのだが、人数は多い方がいい。

 とすると、あと涼夏が助けを求められるのは……。

「なに?」

 未散がちょうど向かいから通りかかったとき、とっさに彼女の道をふさぐように足を止めさせた。未散はすでに教室にはいなかったため、帰ってしまったと諦めていたのだが、まだ校内に残っていたようだ。

「お願い、力を貸してほしいの」

 涼夏の言葉を聞き、未散は一瞬にしてその幼い顔を不快のものに変える。

「なに言ってんのよ。もうあなたとは関わりたくないわ」

 冷たい言葉に涼夏の胸はちくりと痛む。

 けれど未散の言葉で涼夏が傷ついていいわけはない。彼女にそう言わせるだけのことを涼夏はしてしまった。

「まずは話を聞いてほしい。もう一度、未散と話がしたい」

「あたしはあんたと話すことなんかなにもない!」

 帰路に着こうとしていた生徒たちが未散の大声に、何事かと反応する。ここでは人目がありすぎる。

「中庭にでもいこ。あたしにちゃんと謝るチャンスをください」

 さすがにほかの生徒の視線を気にしたのか、

「……十分だけよ」

 と渋々ながらも移動を開始してくれた。



 昇降口で靴に履き替え、そのまま二棟立っている校舎の間にいく。そこは中庭になっていてベンチが二つほどぽつんと置かれている。

 未散はベンチに腰掛け、涼夏はその目前で立ったまま頭を下げる。

「ごめんなさい。未散の気持ちを踏みにじったこと、本当に悪いと思ってる……」

 頭を垂れたままで、言葉を続ける。

「あたしは未散に対しても羽澄に対しても、もちろん槙人くんに対しても本当にひどいことをしてしまった」

 未散は俯いたままなにも言わない。けれど伏せた目から、漂う雰囲気から、彼女の深い怒りが伝わってくる。

「許してもらえないのは仕方ない、よね。でもピンチなの。力を……貸してほしい。じゃないと、羽澄が――」

「どんだけ自分勝手なのよ」

「……」

 涼夏は焦っていた。いますぐではないとはいえ、羽澄の死が迫っている。それはなんとしても阻止しなければならない。そのためには未散の力がいる。

 自分はどれだけ嫌われても構わないから、羽澄を助けるために協力してほしい。そう涼夏は思っていた。

 けれど。

 それはあまりに一方的で、未散のことをないがしろにし過ぎていた。未散の怒りがさらに加速しても、涼夏はそれを受け止めることしか出来ない。

「…………あたし、あんたに騙されたんだよ? それなのに手を貸してほしい? ふざけないでよ……っ!」

「そう……よね」

 沈黙が辺りに満ちた。重苦しい。何か言っても、さらに未散を傷つけるだけかと思うと、何か言うことさえ怖くなる。

 無意識に、涼夏の口からぽつりとつぶやきが漏れる。

「――こんなことになる前に……死の予告を受けたときに、未散に相談でもしてればよかったって、いまでは思ってる」

「そうだよ……」

「え?」

 思いもよらない返事が来たので、間抜けな声が出てしまった。

 顔を上げて未散を見ると、彼女は眉をキッと上げてまた怒りを露わにしていた。

「あたしたち友達じゃないの!? なのに、そんな大事なこと相談してくれないこと、あたしは寂しかった。寂しかったよ! あたし、そこにも怒ってるんだから!」

 違う怒りをぶつけられて、呆気にとられる。

「前だってそうじゃない。あの男の子を助けたときだって事前に話してくれたら、あたしもなにか出来たかもしれない。二人とも無事だったからよかったものの、涼夏もあの男の子と一緒に鉄筋の下敷きになる可能性だってあったんだからね!」

 未散は立ち上がり、涼夏に迫る。未散は涼夏よりも小さく、普段は怒っても童顔の顔が災いしてそんなに怖くはないのだが、このときばかりは思わずその勢いにやられ、のけ反ってしまった。

「大体ね、死の予告を受けてなんで“恋人”なのよ! あたしは!? あたしじゃ涼夏の生きる意味にはならないの!?」

「未散……」

「あたしは悔しいの! 羽澄くんとのこと祝福してた気持ちを踏みにじられた怒りもたしかにあるよ。でも! でも、いざって言う時に頼ってもらえなかった、あたしの無力さが情けなくて悔しいの……」

「……」

「もっと頼ってほしかったよ。死にたくないって弱音吐いてほしかった。ひとりでなんとかしようなんて考えが思いつかないくらい、あたしを信じてほしかった」

 吊り上っていた眉はハの字に下がり、目と声には涙の予感が漂う。

 涼夏の強がりが、未散を傷つけた。

 今度は未散の痛みが、涼夏を傷つける。

「大事な時に頼ってもらえないあたしに、涼夏と友達でいる資格はないよ」

 その言葉は、未散から拒絶されたときよりも涼夏の心を痛めつけた。同時に未散にこんなにも思っていてもらっていたのか、としあわせな気分にもなった。

「資格とか必要ない。一人で抱え込んだことはごめんなさい。許されるのなら……これからもあたしの傍に……友達でいてください」

 今度は涼夏が、未散へ思いを届けたいと思った。未散のことを大切に思っていることが伝わってほしい。いっそ直接、心を見せられたらいいのにと、本気で思った。

「頼って……もっとあたしを、信じて。あたしが涼夏の友達でいられるように」

 涙をこらえきった美しい笑顔だった。

 涼夏は親友のこの笑顔をきっと忘れないだろう。

「ありがとう……ありがとう、未散」

 ここで自分が泣いてしまうわけにはいかない。何としてでも。

「それで? お願いって?」

「え? ああ、うん」

 話を転換してくれたのはありがたかった。

「実は、次の予知を受けたの。今度は羽澄の死の予告だった」

「え! 羽澄くんが!?」

 昨日見えた映像について詳しく話す。

 すると、未散は先ほどの涙の気配もすっかり忘れた真剣な表情で、

「冬の川ってだけじゃやっぱり漠然としすぎてるよね。時間帯は?」

「夕方かな。羽澄は制服着てたし、学校帰りだと思う」

「だとすると……冬休みに入る前の二学期内ってことになるのかな」

 今は十月の前半だ。三ヵ月後はちょうど冬休みだ。“制服を着ている”という条件に合わせるなら、それが妥当だろう。

「とすると、実質あと二か月半くらいになるのか」

 未散がふむふむと頷く。

 その様子を見て、涼夏は思わず吹き出してしまった。

「なによ。人が真剣に考えてるのに」

「ごめんごめん。なんか安心したの。前みたいにまた仲良くやっていけそうだなって」

 未散の不満顔が一瞬で照れ笑いに変わる。

「当たり前じゃない。あたしたちならこれからも大丈夫よ」

 また未散の笑顔を見れたことが素直に嬉しかった。そしてその笑顔の矛先が自分に向いていることも。

「一緒に羽澄くんを助けましょ」

「うん」

 二人は強く頷きあった。



   ●



「ふあぁ……」

 つい大きな欠伸がでてしまった。冬は、どの季節にも増して眠たい気がする。授業終わりで疲れているのでなおさらかもしれない。

 本当は帰って寝たかったが、槙人のお呼びでは無下に断れない。授業終わりに槙人から気分転換にカラオケにでも行こう、と誘われた。気分転換、というのは学校への往復程度しか外出をしていない羽澄の、という意味だ。

 その槙人はというと、学校を出る際に夏に引退した部活の顧問につかまった。すぐに逃げ出すから先に行っててほしい、と言われ一人で近所の公園に向かっている。あとでそこで槙人と合流する予定だった。

「うぅ……さみぃ」

 首に巻いた黒いマフラーに鼻まで隠す。これで羽澄の顔は左目と左眉しか見えていないことになる。ちょっとしたホラーだ。

 目的の公園までそう遠くはない。歩いても二十分程度だろう。ということで歩いている。自転車などは滅多に乗らない。

 夏休みの中旬から涼夏とはずっと話していない。十月に入って、携帯使わないなら解約するわよ、と親に言われやっと電源をつけた携帯には目を剥くほど大量の着信履歴とメールが溜まっていた。一か月半の間に、涼夏と槙人から届けられたものだ。しかし十月の後半あたりでピタリと涼夏からの連絡が途絶えた。学校ではたまに見かけるものの、少し気になる……。もう許してもらえないことを悟って、諦めたのだろうか。

 そんなことを考えながら歩くこと二十分で公園についた。それから十分ほどベンチでケータイをいじったりして待ったのだが、槙人は一向に現れなかった。

「……どうすっかなあ」

 その時、公園の前を数人の男の子たちが駆けてくのが見えた。全員野球のユニフォームを着ているところから察するに、地域の少年野球をやっている子供たちだろう。

 普段ならなんとも思わない羽澄だったが、待っているだけであまりにも退屈だったので彼らについていくことにした。きっと練習試合か何かをやるだろう。そう見当をつけて。

男の子たちの後を追っていくと数分で住宅の向こうに大きな橋が見えてくる。あの橋の下に県境の川が流れていて、両岸は河原になっている。どうやら、河川敷で野球をやっているようだった。

羽澄が追いかけていた少年たちは遅れてやってきたみたいで、練習はすでに始まっていた。

 子供たちの歓声や掛け声を聞きながら、土手の石階段を下りていく。そのまま橋の下まで歩いて行った。槙人には『川にいる』と連絡したが、了承の返事はなかった。まだ顧問の先生と話しているのだろうか。

 ぼーっと見ていると、思考は深いところに沈んでいく。あんな風にして自分を傷つけ裏切った相手――涼夏のことが気がかりだ。

「まあもう会話することもないんだろうな」

 切にそう思う。気になることは気になるが、たぶん直接謝られても許すことはないだろう。

 二十分ほど待っても槙人は現れなかった。連絡のメールも来ない。陽は落ちていく一方なので気温もどんどん下がる。退屈さと寒さにいつまで耐えればいいのだろう。

 何をしていようか、などと考えていると、ユニフォームを着た体の小さい男の子がこちらへ向かってきていた。その左右を挟むように彼よりも体格の大きい二人の少年。

 羽澄はなぜか咄嗟に、橋の柱の陰に隠れた。別に隠れる必要はないのだが。

 三十メートルくらい離れたところで、男の子たち三人が話をしている。何の話をしているかは距離があるためわからない。しかし時々、体格の大きい男の子たちの大声が聞こえてくる。そのまま体の小さな男の子は川の方に追い詰められていく。

 ――喧嘩してる……? 止めた方がいいかな。

 けれど人との無駄な関わり合いは避けたい。それがたとえ自身より幼い子供であっても。

 まあもしも万が一、暴力を振いだしたら止めに入ればいい。ほとんど可能性はないだろうが。そんなことを羽澄は思って、見守っていた。

 その時だった。

 体格の大きい男の子の片方が、体の小さい男の子の胸を両手で突いたのだ。当然、体の小さな男の子は勢いにやられてふら付き――そのまま川へ転落してしまった。

「あっ!」

 羽澄は咄嗟に身を乗り出した。突き落した張本人もまさか落ちるとは思っていなかったようで、慌てふためきながら川を覗いている。

「おい! どこだよ!? あがってこいよ!」

 ここの川は県境になるくらい大きな川だけあって、岸からすでにかなり深い。小学生の身長では決して水底に足を着くことはできない。そして真冬のこの時期に川へ落ちると言うことは……。

 溺死または凍死してしまうことも充分すぎるほどにあり得る話だ。

 一度そう思ってしまってから、羽澄の行動は劇的だった。考えるより先に体が動き、気付けば走りながらマフラーを取りさらいブレザーを脱ぎ、靴を履き捨てていた。そしてそのまま無我夢中で川に飛び込んだ。

 水は思ったよりも冷たかった。気を抜いてしまえば、寒さに完全に支配されてしまいそうだ。

何度も息継ぎをしながら、必死に男の子を探す。水中は決してきれいとは言えず、なかなか見つからなかった。

もうかなり沈んでしまったのかもしれない。絶望的な予感が徐々に頭を支配していく。

刺すような押しつぶすような冷たさが、段々と羽澄の意識まで飲み込もうとする。

そのとき、不意に足が見えた。男の子の足だ。

 羽澄は藁にもすがる思いで男の子を手繰り寄せしっかりと抱きかかえる。そのまま水面に顔を出し、岸部まで泳いていく。

 事の行くへを見守っていた二人の男の子たちの目の前の岸に、助けた男の子を上げる。

 そして羽澄も上がろうとしたとき、腕に力が入らないことに気付いた。しかし気付いたときにはもう遅い。

 ――やばい……。

 羽澄の意識は闇に持っていかれ、とうとう力尽きた。羽澄はそのまま、川へと沈んでいった。

「お兄ちゃん!」

 遠くで男の子たちが呼ぶ声が聞こえた気がした。


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