第三章
第三章
●
学年は上がり、月見里羽澄は高校三年生になった。川浦槙人とはまた同じクラスで、忽那涼夏と竹沢未散とは離れてしまった。とは言っても、涼夏が復学できる見込みは今はないのが現状だ。
そんな一学期も六月も中旬を過ぎ、季節はすっかり梅雨に入った。雨の日が多く続き、体にまとわりつくようなじめじめとした暑さはだいぶ鬱陶しい。
涼夏は約半年、ずっと入院をしている。記憶はまだ戻っていない。
学校の授業終わり、羽澄は毎日のように病院に通っていた。
今日も例に漏れず、涼夏の病室の前に来ている。
「あ、羽澄くん。入って入って」
ドアをスライドさせると涼夏の嬉しそうな声と笑顔が出迎えてくれた。
「あのね! 聞いて!」
羽澄がベッド脇の椅子に腰かけると、涼夏は身を乗り出さんばかりにして羽澄に詰め寄る。
病院生活が半年近くも続けば、かなり暇なようだった。体の怪我はすっかり治っているのでそう感じるのも当然だろう。脳に傷はないようなので、記憶が戻る可能性は高いようだ、というのはこのまえ涼夏から聞いた。それなのに退院させないとなると、涼夏の両親は、病院関係者に相当のコネでもあるのだろうか。
羽澄が学校に行っていていない間は、病院中を散歩したり、病室で静かに読書をしたりと同じような日々を送っているらしい。
羽澄が来られない日は、未散や槙人がお見舞いに訪れてくれている。しかし、二人によると、
「俺らが涼夏ちゃんの病室に入った時のがっかりしたような顔。なんか申し訳なくなるよ」
と槙人は落ち込んだような言葉に反してなにやらにやにやして言い、
「そうそう。あたしらでごめんねって言いたくなるもん。羽澄くんが来てくれるの、ずっと待ってるんだよっ」
と未散は怒った口調でにやにや笑いを浮かべるという離れ技をしていた。
二人ともにやにやしていたのが少し気になるが、涼夏が羽澄のことを待っていてくれるらしいというのは、喜ばしい話だった。
正直に言えば、しょっちゅうお見舞いに行って、迷惑に思われていないか心配だったのだ。杞憂だったようでよかった。
「なんかあったのか?」
涼夏は以前のような元気さを取り戻している。半年の間に、涼夏からの信頼を再び少なからずまた獲得できたようで、出会ったころのように怒涛のような勢いで話し出す。出会ったばかりのころ――一年前はその対応に困っていたものだが、今はその元気な様子に安心している。相槌も前よりうまく返せている……気がする。
「メロンパンって知ってる?」
「メロンパンって……普通にパン屋とかで売ってるパンだよな? 俺の常識が間違ってなければ」
「ほかにどのメロンパンがあるのよ」
「……いや、聞いたの涼夏だからな」
「でね! メロンパンって昔はメロンの果肉が入ってたんだって!」
「へえ。そうなのか。それでメロンパンならネーミングに関しては納得だな」
「違うのっ! 違うのよ」
「……なにが?」
「メロンパンの名前の由来よ。表面が網々模様になってるじゃない? あれがマスクメロンに似てるからメロンパンって名前なんだって‼」
「メロンの果肉は?」
「関係なし!!」
「……事の真相はそうでしたか」
ほとんど雑学だった。
一緒に記憶を取り戻すと決意したくらいのときは、その日にあったことなどを楽しそうに話していた涼夏だったが、年度が替わったあたりから似たような毎日にネタが尽きたのか、こうして雑学を披露してくるようになった。
けれど、羽澄にとっては話す内容が雑学であっても関係なかった。
涼夏が明るく笑っている。
そのことだけが重要なのだ。
また別のある日。
「チロルチョコがなんで値上がりしたか知ってる?」
「ああ、ちょっと前にそんなことがあったような……。単に材料の原価が高くなったからって言う大人の事情じゃないのか?」
「違うのよ」
羽澄が間違えた回答をしたようで、とてもうれしそうだ。いかにも続きを訊いてくれと言わんばかりの顔である。
「じゃあなんでだ?」
待ってました! と言わんばかりに、嬉々として語り出す。
「実はコンビニに売るためのバーコードを裏側に記載するために、チロルチョコ本体のサイズを上げたんだって」
「そこまでしてコンビニで売らなくても……」
またまた雑学だった。
そして気付いたのだが、涼夏のする雑学の話や自分の話では、食べものに関しての話が多い。病院食が不満なのだろうか?
また別のある日。
七月に入り、梅雨が明けた。気温はさらに上昇し、じりじりと肌を焼く。汗が噴き出て、服を冷たく濡らす。
「あと一週間で夏休みかぁ」
槙人と共に学校へ向かう、いつも通りの朝のこと。
「槙人はもう進路決まったのか?」
「俺んとこはまだ下がいるからなあ。金がかかるし、もちろん就職だな」
「就職か……。なら学生最後の夏休みだな」
「羽澄はどうなんだよ? 進学か?」
羽澄の成績は上の中あたりと意外といい。大学進学にも困らないほどの評定はもらえるだろう。
「大学に行こうと思ってる。弟と入れ替わりで、今度は俺が受験生だ。と言ってももう指定校推薦が決まりそうだから、勉強は必要ないけどな」
「そうなのか!? なんで言ってくれないんだよ。俺たちの仲じゃ隠し事はなしだろうが」
不服そうな表情で抗議してくる。槙人にも報告を忘れていたとなると、本気で頭から抜けていたらしい。
「涼夏のことばかりで、指定校推薦のこと忘れてたよ」
その言葉を聞いた瞬間に、槙人は合点がいったような顔になり、
「早く記憶戻らねぇかなぁ。未散ちゃんも交えて四人で遊びに行ったりしたいよな。……でも怪我が治ったんなら、退院させたらいいのに。涼夏ちゃんもさぞ退屈してるだろ?」
「ああ、毎日暇してるみたいだ。お見舞いに行くたびに雑学を披露してくる」
「しょっちゅう行ってるのか?」
「時間があれば行くようにしてる。ていうかほぼ毎日行ってるな、俺……」
「愛は偉大だな」
「……」
最近涼夏の顔が無性に見たくなる。だから毎日のようにお見舞いに行っているのだが、用事で行けない日などは、涼夏がいま何しているのかなどを考えてばかりいる。逆に言えば涼夏のことを考えない日はない。
「俺、うれしいんだ」
「槙人?」
「羽澄が人と関われるようになったことが」
「……いままでだってちゃんと関わってただろ? 槙人とか……槙人とか…………」「名前出てんの俺だけじゃん……」
「……」
「まあとりあえず、いまは俺だけじゃなくて、涼夏ちゃんとか未散ちゃんとかもいるだろ? 最初は流されるままだったとはいえ、今は羽澄から積極的に涼夏ちゃんと関わろうとしてる。そのことが嬉しいんだよ」
いままでそんなことは考えてもいなかった。
たしかに槙人が心配してくれているのは、感じていた。学校でも極力、羽澄が一人きりにならないように配慮してくれていたのは知っている。それでも無理に人と関わらせようとはしてこなかったのは羽澄のトラウマを気遣った、彼の優しさからだと思っていた。
でも本当は、もっと人と関わってほしいと願っていたのだ。
羽澄が考えていたよりもずっと槙人に心配をかけていたようだ。
「……今まで心配かけてごめんな。でも俺、変わりたいって思ってるから。ちょっとずつ人に関わっていけたらって……思ってる。俺、いままでずっと槙人には迷惑しかかけてないけど……これからも俺の友達でいてほしい」
そんな羽澄の言葉に槙人は立ち止まる。
数歩行ったところで羽澄も足を止め、槙人を振り返る。
槙人は深刻な顔をしていた。真剣な瞳で羽澄を射抜く。
「……迷惑かけられたなんて一度も思ってない。そんなこと言われなくても俺らはずっと友達だよ」
そっとやさしく頬を緩め、
「心配はいっぱいかけられて、もどかしかったけどな」
最後に少し、おどけて見せた。
この時改めて、槙人の大切さを思い知った。
――こいつがいなかったら、俺はきっと一生トラウマを引きずったままだったんだろうな。
「それはごめん」
羽澄も頼りない笑みで、破顔した。
そこで思い出したように、陽光の暑さを思い出す。汗がじっとりと服を濡らしていく。
「朝からめちゃ重い話してたな、俺たち」
立ち話をしている二人を、登校中の生徒たちが不審そうにじろじろと見ていく。多くの視線を感じ、少しだけ恥ずかしくなった。
「……学校いくか」
「…………おう」
槙人の返事を受け取り、二人はまたそろって歩き出した。
別の日の帰り道。
その日はたまたま未散と校門をくぐったところで出会った。
「あ、羽澄くん」
「……おっす」
陽は暮れかかっていて、家々の向こうからの赤い光が目に眩しい。
周囲には生徒の姿はなかった。校庭から運動部の掛け声が聞こえてくる。皆、部活に打ち込んでいる時間だ。
こんな時間に部活をしている未散と会うのは珍しい。未散との面識と言えば、一対一ではまだない。いつも涼夏か槙人が一緒だった。
改めて二人きりで会話をすることを意識すると、緊張してしまう。
「涼夏、記憶戻るかな」
並んで歩き出しても一向に口を開かない羽澄に変わり、未散の方から言葉を発した。けれど、それは羽澄に話しかけているというより、独り言に近かった。
いつも元気にひょこひょこと撥ねている彼女の二つにくくられた髪も心なしか落ち込んでいるように見える。
「戻るよ」
羽澄は力強く断言した。
それを予想外に感じた未散は羽澄を振り返る。
「……根拠はあるの?」
彼女の真摯な視線からは、友人を思う気持ちが真っ直ぐに伝わってくる。半端なことを言ったら許さない、と言う意志を感じた。
「ないよ」
その返答を受けた未散は歩みを止め、キッと羽澄を睨む。
「けど、俺は信じてる。涼夏ならきっと思い出してくれる」
立ち止まり、数歩分うしろにいる未散に向き直るとそう言い切った。
確証はない。記憶が戻ってくれるとは、限らない。
羽澄の言葉を受けた未散の目が見開かれる。
「だから、俺たちはそれを信じて待つんだ」
未散の瞳がじんわりと潤み、やがて大粒の涙を零し始めた。
「あたしも……信じないとね。…………怖かったんだ。このまま涼夏があたしのこと、思い出してくれなかったら、って考えたら……怖くて、焦ってた。だから、必死に思い出してもらおうって…………何度も、お見舞いに行って、一緒に遊んだときの思いでとか、話してた。羽澄くんは……そんな格好悪いことせずに、ちゃんと涼夏のこと、信じてたんだね」
しゃくりをあげながら切れ切れに未散は思いを打ち明ける。
よく考えれば、羽澄が二人の思い出話をしたのは最初だけだった。それは涼夏を信じていた、というよりもそもそも未散ほど共に過ごした思い出がないだけだ。二人はまだ出会って一年も経っていない。
「――羽澄くんは、本当に、涼夏を想ってくれてるんだね」
未散は目を細めて微笑み、その頬を涙が零れていった。
未散の不安も焦りも思いも、全部が詰まった綺麗な笑顔だった。また、その泣き顔はとても綺麗だった。
「俺なんか……全然だめだよ。俺も自分のことしか考えてなかったんだ。涼夏に俺たちの関係を聞かれたときも、涼夏が受け入れてくれないっていう選択肢は、涼夏が答える直前まで考えてなかったくらいだ。……俺だって怖いよ。思い出は片方だけが持ってたって意味はないんだよな」
未散は自分が泣いていることに気付いていないようだった。呆然と羽澄を見ている。
羽澄は泣いている彼女の顔はあまり見ないように、あさっての方に顔をそむけながら、まるで自分に言い聞かすように話していた。
「記憶が戻るかどうかは本当にわかんない。でも、涼夏も取り戻したいって言ってくれてることだしさ、気長に待てばいいよ。何も思い出せなかったら、そんときはまたデートにでも連れてくよ。思い出は作ればいい」
羽澄は変わった。
きっと涼夏に出会う前だったら、こんなことは言わなかったに違いない。こんな前向きな言葉が彼から出てくるのは、確かに涼夏が彼を変えた証だ。
「そう……だね。いいなあ、涼夏は。こんなに想ってくれる人がいて」
自分の頬が濡れていることに気付いたらしい未散は頬を乱暴に拭うと、最後にはおどけた笑顔を見せた。
さっきよりも傾いた夕日がやわらかく彼女を照らしていた。
未散と話をした日の夜。
羽澄は真っ暗な部屋で、ベッドに仰向けになって天井を見上げていた。
『俺、うれしいんだ。羽澄が人と関われるようになったことが』
『……怖かったんだ。このまま涼夏があたしのこと、思い出してくれなかったら、って考えたら』
槙人と未散の本音を知ってしまった。
槙人はいつだって羽澄のことを考えていてくれた。もしかしたら、中学時代に遭ったいじめのことを羽澄よりも重く考えていたのかもしれない。
未散は涼夏のことを思って涙を流した。涼夏が記憶を失くしてしまったことを、本人よりも深刻に受け止めていた。
対する自分はどうだろう。
槙人は数少ない友達だ。中学生のときからほとんどの時間を彼と過ごしている。それなのに彼の一番根底にある思いをわかってはいなかった。
涼夏の記憶喪失のこともそんなに不安には思っていなかった。それは彼女が「記憶を取り戻したい」と言ってくれたことで安心していたというのもあるが、きっと頭のどこかでは「いつか戻るだろ」と安易に考えていた所為かもしれない。
自分はなんて愚かだったんだろう。
言われるまで気付かなかった。
いままで自分のことしか考えていなかった。
涼夏のお見舞いに行っていたのだって、彼女を励ましに行くというのは建前で、本当は自分が会いたいからだ。
そのことを今日、羽澄は思い知らされた気がする。
『愛は偉大だな』
『いいなあ、涼夏は。こんなに想ってくれる人がいて』
そこでまた、二人の言葉を思い出す。
そして羽澄はやっと自覚した。
最近やたらと涼夏に会いたいと感じていた。だから毎日のように彼女の病室を訪れていた。
その前は、記憶を失くした涼夏がした「あたしたちの関係は?」という質問に対して「恋人だ」と事実を伝えた。そして彼女の記憶が戻るように手伝いをする、とまで宣言してしまった。
そして極めつけは、去年の夏に行った遊園地のデートで、羽澄は涼夏を振り切れなかった。
それらすべての証拠が言っている。
「俺、涼夏のこと……好きなのか」
独り言が口をついて出る。
そして声に出して言ってしまったことで、その言葉が体にゆっくりと染みわたっていく。
鳥肌が立った。
自分はどうしていままでこんな単純な感情に気付かなかったんだろう。人との関わりと怖がっていた自分が恋なんてするはずはない、と思っていたからだろうか。
けれど一度自覚してしまえば、想いは止まらない。
涼夏のいろんな顔が頭にフラッシュバックする。彼女の笑った顔、悲しそうな顔、不満そうな顔、照れた顔。
それらを絶対に失いたくない。
そして――自分との思い出を取り戻してほしい。
自分の感情を理解し、自覚した羽澄はあることを決意する。
それを実行する日は――
●
今日で長かった一学期も終わる。そして、羽澄にとって高校最後の夏休みに突入することになる。
終業式が終わったその足で、羽澄は病院に向かっていた。もちろん涼夏に会うためだ。
天気は雲ひとつない快晴で、気温は上昇の一途をたどっている。病院に着くころにはすっかり汗だくになっていた。
涼夏の病室の前にたどり着いたところで、ちょうどそこから涼夏の母親が出てくる。
「あら、羽澄くん。いつも涼夏に会いに来てくれてありがとうね」
にこりと微笑んだ顔には以前のような憔悴は見られず、顔色はすっかりよくなっていた。げっそりとしていた頬にも赤みが戻り、笑顔も無理矢理という感じには見えない。
「いえ。それより前から聞きたかったんですけど……」
「ん? なぁに?」
「涼夏……さんは、退院させないですか? 怪我はもう治ってますよね?」
半年の間に怪我は完全に回復しているはずだ。さすがに服の下の素肌を確認することはできないが。
「ああ、それね……。記憶が戻らないことが気になって、先生にずっと調べてもらっていたのよ。検査をしてもやっぱり異常はないって言われてしまって……。でも脳に傷はついていないから記憶が戻る可能性はあるって……」
――しまった……。
自分では気になったことを尋ねたつもりだったが、涼夏の母親の表情は暗くなっていく。迂闊だった。
でも記憶が戻る可能性があるという話は、以前涼夏に聞いたのと一致していて安心した。
「あっ……でも体はもう元気だし、これ以上私にはどうすることもできないから、そろそろ退院させようかと思ってるのよ」
俯きかけていた顔を羽澄に向け、取り繕うように言う。
「そうなんですか」
「ええ。そしたら……涼夏の気持ち次第だけど、二学期から学校に通わせたいとも思ってるの。また仲良くしてあげて頂戴ね」
困ったような、少し頼りな気な笑みだった。
そのまま、家に帰って涼夏の服を取ってくるからあの子をよろしくね、と言い残して去って言った彼女に代わり、羽澄は病室に入る。
変な気を遣わせてしまったようだ。
「お母さ……羽澄くん!」
戻ってきたのが自分の母親ではなく羽澄だったことに驚いたようだったが、すぐにその顔は嬉しそうなものに変わる。
「今日はいつもよりはやいんだね」
今日は終業式だけで終わったのでまだ昼前だ。いつもは学校が終わってからなので夕方くらいに来ている。
「ああ。明日から夏休みだ」
「もうそんな時期かぁ。早いなあ」
涼夏はずっと冷房が効いた病院内にいるので、あまり夏だということを感じていないのだろう。肌の色も外に出ない分、去年よりもだいぶ白い。
「あ! ねえ聞いてよ。あたしやっと退院するんだって」
「さっき外でお母さんに聞いたよ。よかったな」
羽澄は目を細めやさしく返す。
すると涼夏はなにやら不満そうに眉間に皺を寄せた。
「えぇー。お母さん言っちゃったのかぁ。あたしから報告しようと思ったのに」
急に不機嫌顔をした彼女に焦ったが、どうやらその原因は羽澄ではないようだ。そのことに安堵のため息を心の中で吐きつつ、ここにやってきた本来の目的を果たすことにする。
「あのさ、えっと……話があるんだ」
いきなり深刻な顔をし始めた羽澄に、涼夏は戸惑ったようだったが、なに? と出来るだけいつも通りの声で返してくる。
「大事な話だ。ちゃんと聞いてほしい」
真っ直ぐに涼夏の目を見つめる羽澄に気圧されたようだったが、涼夏も深刻な表情を浮かべ羽澄に向き直る。
それを見届けた羽澄の鼓動がどんどん早くなっていき、緊張から体が硬くなっていく。一度深呼吸をして少しでも緊張を和らげようとするが、あまり効果はなかった。それでもゆっくりと話し出す。
「俺、涼夏との関係は恋人だって言ったけど……半分は嘘なんだ」
「え? 嘘?」
涼夏は怪訝な反応を示す。
当然だ。
息を整えながら、自分の本音を語っていく。
「付き合いだしたのは、涼夏に押し切られたからで俺の意志なんてほとんどなかったんだよ。最初は……俺に幻滅してもらうためにそのまま付き合うことにしたんだ」
「……あたし、そんな身勝手なこと、してたんだ」
その言葉に涼夏は愕然とした様子だった。情けなく口を開いたまま、茫然と羽澄の話を聞いている。
対して羽澄は話が進むにつれ、冷静になっていっていた。
「俺は中学の時、色々あって……それから、人と関わるのが怖かった。友達だって言えるやつは槙人くらいしかいない。そんな俺だったけど、涼夏といるのは予想外に……楽しかった。そんな自分にびっくりした」
俯きかけていた顔を上げ、涼夏は羽澄をじっと見る。よくわからない方に進んでいく羽澄の話に救いを求めるように。
「もっと涼夏と一緒にいたいって思ったんだ。もっと涼夏の笑った顔や楽しそうにしてる顔がみたいって」
「……」
涼夏はなにも言わない。もう口をはさむことなく話に耳を傾けている。
そんな涼夏を見た羽澄は安堵し、自分の気持ちを焦ることなく順番に伝ていくことが出来た。
「この前、槙人と未散ちゃんと話したんだ。それから一人で考えた。それで俺、やっとわかったんだ。自分の気持ちなのに、ずっと勝手に『それはない』って決めつけてたから、気付くのに時間がかかっちまった」
そこで改めて、真っ直ぐに涼夏の目を見る。
彼女の弱々しい、それでいて大きな期待を孕んだ瞳を見据えて言った。
「俺、涼夏が好きだよ」
涼夏の大きな目が、これでもかというほどさらに大きく見開かれる。
それを見て、羽澄は微笑む。そして、もう一度言う。
「涼夏が好きだ」
足にかけていた布団に、涙の雫が落ちる。何粒も零れてきては、布団に大きな染みを作っていった。
……涼夏が泣いていた。
涼夏が泣いているのに、羽澄は何故か嬉しくなった。
そしてさらに話を続ける。
「もしこのまま涼夏の記憶が戻らなかったとしても、俺は涼夏の傍にいたいって思ってる。また一から恋人として、涼夏の隣にいたいって。でも……これは俺の勝手な意見だから、涼夏の気持ちも聞かせてほしい」
ここで拒絶されてしまったら、もう涼夏の前からは消えよう。
その覚悟は、すでに出来ている。
あとは涼夏の返事を待つだけだ。
「全部、思い出した……。未散のことも、槙人くんのことも」
これは予想外の展開だった。
今度は羽澄が驚きに目を見開く。
「もちろん……羽澄のことも」
“羽澄”と。
以前のように呼び捨てになっていた。
それがかすかな疑念を確信に変える。
「本当に思い出したんだな」
「――うん」
涼夏が記憶を取り戻した。
奇跡が起こったのだ。
「なら、改めて聞かせてくれ。俺は……涼夏の傍にいても、いいか?」
涼夏の口角が不敵に上がっていく。その頬には涙の跡が残っていたが、表情は最初に会ったときと同じような、勝気なものに変わっていた。
「いいに決まってるじゃない。羽澄はあたしの恋人なんだから」
そのセリフが彼女の完全復活を裏付けた。