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少女の嘘と少年の傷  作者: まつ
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第二章

 第二章 



   ●



十二月に入り、一気に気温が低くなった。風は肌を刺すように通り過ぎていき、すっかり夏の暑さは忘れてしまったようだった。

期末テストも終わり、あとは冬休みが来るのを待つのみ、という淡々とした日々が過ぎていた。

「羽澄は冬休みどうする?」

「どうするっていってもなあ。多分夏休みと同じ感じで何もしないと思うぞ」

 週末の学校終わり、月見里羽澄は川浦槙人と帰宅しながら、半年前と似たような会話をしていた。違うのは首にしっかりとマフラーを巻いているところくらいだろうか。

「何もしないって……。お前には涼夏ちゃんがいるだろうが。うらやましいぞ」

「ははは」

 槙人の軽口に白い息を吐きながら、乾いた苦笑いを漏らす。

 夏休み後、羽澄と涼夏の仲はより深まった。

 槙人はそれを一番喜んでくれているようだ。

 遊園地のデート前に悩んでいたことについては結局話さず仕舞いで、報告を楽しみにしていた槙人に告げたのは、名前で呼び合えるようになった、ということのみだった。

 それでも素っ気ない羽澄の報告を槙人は大げさとも言えるほどに喜んでくれた。

 それを見て羽澄は本当にいい友人を持った、と改めて槙人の存在を大切に思うことができた。

「冬休みももちろんデートするんだろ?」

「……」

「決まってないのか? クリスマスとかイブとか早めに予定入れとけよ」

「はいはい」

 軽くあしらうように流す。

 どうにもこういう話は、気恥ずかしのだ。

 白い息を吹きかけ、手を温める。そんなことをしてもあまり暖かくはないのだが、夏に顔を手で仰いでしまうのと同じようなものだろう。

「あの人だよね? 行こ行こっ!」

「ちょっと! 未散、待ってよ」

 聞きなれた声を耳にし羽澄が振り返ると、そこにはやはり涼夏がいた。

 その涼夏の腕を引くように駆けてきた、小柄な少女の方に見覚えはないが涼夏の友人だろう。

「どーも! 君が羽澄くんであってる?」

 小柄な少女は下からのぞき込むようにして羽澄を見上げてくる。羽澄と頭一つ分くらいの身長差がある。

「あ、ああ」

 少女の勢いに圧倒されながらも答える。

「やっぱり! 涼夏が言ってたまんまだもん!」

 きゃっきゃと嬉しそうにはしゃぐ。

 ショートの髪を二つにくくっている髪形と少女の童顔な顔立ちですでに幼く見えているのに、その様子はさらに少女を年齢よりも幼く見せていた。両頬も上気して赤くなっていて、幼さに拍車をかけている。

「だれだ、この子?」

 隣にいる槙人も不審がっている。

 羽澄も同じく戸惑って、涼夏に視線を送った。

「ごめん。この子あたしの友達で――」

「同じ二年の竹沢(たけざわ)未散(みちる)です。羽澄くんには一度、涼夏のケータイからメール送ったことあるよ」

 涼夏の言葉を未散というらしい少女は奪い取った。

 言われた羽澄は、そういえば遊園地デートにいく前日そんなメールがきたような……と記憶をさかのぼっていく。

「俺は羽澄の友達の川浦槙人。涼夏ちゃんも未散ちゃんも初めまして、だな」

 羽澄が考え込んでいる間に、槙人が二人に挨拶をする。

 ――そういえば、槙人にちゃんと涼夏のこと紹介してなかった。

 ちらりと三人の様子をうかがうと、槙人と未散が涼夏から少し離れて話し込んでいる様子だった。

 仲間外れにされた涼夏は、

「ごめんね。急に驚いたでしょ」

 と羽澄に話かけてきた。

「いや、いいよ。それより、涼夏。今日は用事があったんじゃないのか?」

 そういう連絡を受けていたから、今日はテスト明けで部活が休みだった槙人と一緒に帰ることになったのだ。

「未散とちょっと話してて。それで羽澄の話になって、追いかけてきたの」

「なるほどな。よく追いついたな」

 羽澄と槙人が学校を出てから、すでに十分経っている。もうすぐ自宅につくところだった。

「いっぱい走ったもん。おかげで暑いわ」

 そういいながら、水色のマフラーを外す。よく見れば、涼夏の頬も赤く染まっている。

「そりゃ、ごくろうさん」

 涼夏との付き合いももうすぐ半年になる。

 会話も涼夏からの一方的なものではなく、うまく会話のキャッチボールが出来るようになったし、照れずに名前を呼べるようになった。

 一通り話が済んだところで、

「羽澄ーぃ。ひとまず近くのファミレスにいくことになったから」

 槙人がこちらに戻ってくる。

未散もそれについてきて、うんうん、と期待を込めた眼差しで頷いている。

「はあ? なんでそうなった」

「未散ちゃんと話し合ってな」

「いやいや、俺らも混ぜて話し合えよ」

「だってすっごいラブラブで話しかけづらかったんだもん」

 未散が割り込んで、茶化してくる。

「……そんなことねぇよ」

「まあいいじゃん。聞きたいこともあるしな」

「うんうん。二人の話聞かせてよ」

 二人そろって怪しげな顔でにやつく。

 ――そう言われると、余計行きたくねえ……。

 了承もしていないのに、二人はもう歩き出してしまう。

「まあいいじゃない。あたしらの友達同士の親睦も兼ねてってことで」

 変わりたい、と言った手前ここで人間関係を広げるのはむしろいいことだ。

「……そうだな」

 そう思うと、気分が少しだけ軽くなった。



 駅の近くにあるファミレスまではけっこうな距離があったが、四人で他愛もない話をしているうちにあっという間についてしまった。

 店内は暖房が効いていて、冷えた体を温めるには丁度よかった。

今日の授業は午前だけだったため、現在は一時過ぎでちょうど昼ごはん時。客は同じ高校の制服を着た生徒ばかりだった。席はまだ入り口近くが空いていたので難なく座れることができた。

席順は羽澄が奥に座り、横が槙人。テーブルを挟んだ羽澄の前に涼夏で、その隣が未散だ。

四人は呼んだ店員に各自食べたいものを注文する。店員が去っていくと、それを待っていたかのように未散が切り出す。

「ねえ、羽澄くん」

「なんだ?」

 羽澄は返事をしながら、水の入ったコップに口をつける。

「涼夏とどこまで進んだの? キスはした?」

 いきなりの質問に飲んでいた水を噴き出しそうになった。

 何気なくケータイをいじっていた涼夏も一瞬にして未散を振り返り、これでもかというほど目を見開いている。

「ちょっと! いきなりなに訊いてんのよ!」

「それ俺も聞きたかった。どうなんだよ、二人とも」

 槙人も興味津々のようだ。

 そこで羽澄は、これがさっき言ってた聞きたいことか……とまだなにもしていないのに一気に疲労がこみ上げる。交友関係を広げるため、とさして深く考えもせずに来てしまったことを後悔する羽澄だった。

「……まだしてないよ」

 はやく話を終わらせようと、正直に答える。しかし羽澄の返答に、未散が身を乗り出す。

「“まだ”ってことはこれからする予定ですか!?」

 リポーターの如く見えないマイクをこちらに向ける。が、未散は背が小さいのに比例して腕も短く、対角線上に座っている羽澄の元にはそれが届かない。

しばらくは目一杯に腕を伸ばして頑張っていたが、どれほど伸ばしても届くことはない、と諦めるとその見えないマイクを隣の席の涼夏に向ける。

「あたし!? なんであたしに訊くのよ!」

 涼夏は目に見えて狼狽え始める。両手をぶんぶんと振り、必死に否定する。

「涼夏も当事者でしょうが。涼夏的にはどうなの、どうなの!?」

 未散が涼夏に迫る。その目は獲物を追い詰めた獣のように輝いていた。

 追い詰められた涼夏は両手で頼りなく壁を作っているが、あまり意味はなさそうだ。

「クリスマスにデートして、キスする予定なんだよな?」

「そうなの!?」

 槙人の勝手な妄言に瞬間的に未散が反応する。

 ――なんでこんなにたのしそうなんだろう……。

「なんも決まってねえよ。まだ出かける約束すらしてないし」

 その言葉に三人の視線が羽澄に集まる。

「誘いなさいよ!」

「誘ってあげてよ!」

「誘ってあげろよ!」

 涼夏、未散、槙人がほぼ同時に叫ぶ。

「……」

その勢いに圧倒されて、固まってしまう羽澄だった。

 心なしか、周囲の席の客の視線も集まっているような気がするが……。

「なんで誘ってくれないのよ。あたしずっと待ってるんだけど」

 さきほどまでの狼狽はどこへやら。涼夏はすっかりいつもの強気に戻り、文句を言ってくる。その口調は怒っている、というよりも純粋に疑問に思っている、という感じだった。

 どうやら、羽澄がクリスマスにデートに誘ってくる、というのは涼夏の中ですでに決定事項らしかった。

「ごめん。単にタイミングがつかめなかっただけだ」

 素直に謝る羽澄。

 これは本当だ。

 いつも他愛のない話ばかりしているので、どのタイミングで誘えばいいのかわからなかった。それに改めて誘いをかけるとなると、どうも気恥ずかしいものがある。

「そうなの? ならいま誘ってよ」

 期待が多分に含まれた強い眼差しだった。それで真っ直ぐに羽澄を射抜く。

 その瞳に捕えられ、羽澄は目をそらせなかった。

「クリスマス……一緒にどっか行くか……?」

「うん!」

 涼夏は即答で頷き、普通の男ならそれで落とされてしまうであろう完璧な笑顔を浮かべる。

 ――かわいいな……。

「なにじっと見つめてんだよ」

 槙人に脇腹をつつかれ我に返る。

 最近、こうやって涼夏に目を奪われることが多くなった気がする。前からもたしかに涼夏は可愛いと思っていたし、笑顔をずっと見ていたいと思ったこともある。

 しかし最近は思うだけではなく、気付けば実際に見つめてしまっていることが増えた。

 羽澄は自分の気持ちなのに、自分がよくわからなくなっていた。

「……別に見つめてねえよ」

 小声でそう返すのが精一杯だった。

 心なしか、頬は少し赤くなっているように見える。

「これで二人はもっとラブラブになること間違いなしだね!」

 未散も涼夏に引き続き、満足そうだ。

 幼く見える人懐っこい笑みだ。

 未散もそんじょそこらの女子高生には負けないくらい可愛いのだが、涼夏のようには羽澄の心を惹かない。

 心の中で首をひねる羽澄だった。

 そこでちょうど折よく、注文していたメニューが運ばれてきて、会話は一時中断される。

 女性陣は小声でなにやらを話ながらゆっくり食べ進めている。

 男性陣は目の前の料理の食欲をそそるいい匂いにやられ、腹を満たすことに専念する。

 食べ終わってからは付き合っている者たちが友人にいじられる、というお決まりの会話が続いた。

 そして店の外が薄暗くなってきたころ解散となり、涼夏と未散は駅へ、羽澄と槙人は自宅へとそれぞれ向かっていった。

 こうして四人の親睦会にみせかけた、未散と槙人の『羽澄に涼夏をクリスマスデートに誘わせる作戦』は無事成功したのだった。



   ○



 これであの(、、)未来(、、)はなくなるんだろうか、と少女はふと疑問に思う。

 たぶんもうすぐそれは訪れる。

 それが起こってしまうことは避けられない。

 いままで何度も試してきて、それは仕方のないことだと諦めている。

 いいことでも悪いことでも未来は変わらない。

 ただ……。

 今回はなんとしても変えなければならない。そのためにここまでしたのだ。

 せめて結末を少し、いい方に変えなければ。少女に未来はない。

 例えどんな手を使っても。



  ●



 学校は冬休みに入り、クリスマスは来週に迫っている。

 日を重ねるごとに、緊張も増していく。

 それは未散が言った『キス』という単語を意識しているわけではないと思う。実際のところ羽澄と涼夏はまだ手も繋いでいない。

学校から帰るときはわざわざ遠回りをして涼夏を駅まで送っていくし、毎日メールのやりとりもしているが、それ以外の恋人らしいことはなにもしていないのだ。デートも毎週のように週末にはショッピングモールなどに出掛けてはいるが、それくらいなら友達同士でも充分にできる範囲だ。

――夏に行った遊園地のみたいなデートらしいデートをしなきゃな……。

だれになにを言われたわけではなかったが、羽澄は勝手にプレッシャーを感じていた。

どこに出掛けるべきか。待ち合わせは何時にするのか。などなど、まだなにも決まっていない。

「ああ……。どうしよ……」

 昼間から頭を抱えて悩んでいると、兄ちゃん、と部屋の外から呼ばれる。

「なんだー?」

 抱えていた頭を扉の方に向ける。

「入ってもいい? ちょっとわかんないとこあるから教えてほしいんだけど」

「おう。いいぞ」

 その返事を聞き届け、弟が自室に入ってくる。

 自らが座っていたベッドの上に弟も座らせ、弟が持ってきていたノートを見てやる。

「ここがわかんないんだけど」

 二つ歳の離れた弟は今年受験生だ。年明けには受験を控えている。

 見せられたノートには英語が書かれていた。

「これはだな」

 兄らしくわかるところは教えてやる。

 しばらくして弟の勉強が一段落し休憩に入ったとき、無意識にこんなことを訊いていた。

「なあ、デートって言ったらどこだと思う?」

「え? 急になに? デートって……兄ちゃん、彼女でもできたの?」

「……!!」

 弟の返答を聞き、自分はなにを訊いているんだ、と羽澄は頭を抱えたくなった。しかしそう思ったところで言ってしまった言葉を取り消すことはできない。

「えっと……そう! 槙人が彼女できたらしくて! それでちょっと悩んでるみたいだったからさ。でも俺じゃそういうのよくわかんないし。お前にも訊いてみようかなって思って。ほら意見は多い方がいいだろ?」

 なんとか誤魔化さねば、と焦りに焦った結果、早口でそんなことを並べ立てていた。

 もちろんすべて嘘である。

「槙人兄ちゃんが? まあ槙人兄ちゃんはかっこいいし、彼女くらいいても当然か」

 羽澄の嘘に、一人で勝手に頷いて納得している弟。

 どうやら自分の中で脳内会議が終わったようで、

「デートと言えば遊園地でしょ!」

 と羽澄に指を突きつける。

「それはもう行ったよ」 

「え? もう行っちゃったんだ。うーん……ならベタなとこで動物園とか水族館とか? 冬の海とかもいいと思うよ。今はイルミネーションがきれいだから単に駅前とかでもいいと思うけど。でも、最近は気温もだいぶ低いし、暖房が効いてる施設のほうがいいんじゃない? って槙人兄ちゃんに伝えておいて」

 軽く訊いたつもりだったのに、ずらずらと意見が飛び出してきたので、羽澄は驚いた。何故そんなにいろいろ知っているのだろうか、とさらに疑問に感じる。

 けれど暖房が効いている施設、というのはいい意見だな、と思った。

 弟の案だと、水族館しかない気がするが……。まあ水族館でも出かけるには充分だろう。

 これでいいか、と羽澄の心はすっかり決まっていた。

「ところでさあ、槙人兄ちゃんの彼女どんな人?」

 ここからが本題、と言わんばかりの剣幕で迫ってくる。

 目がキラキラと輝いていた。やはり、人の色恋沙汰はみんな気になるものであるようだ。

 槙人に彼女が出来た、という設定は真っ赤な嘘なので、羽澄はどう答えるべきか迷ったが、まあ涼夏のことでいいかと判断し、

「わがままだし、多少強引なとこもあるけど根はいい子だよ。……だって聞いたよ」

 ――今だけは、涼夏は槙人の彼女という設定をちゃんと貫かねぇと。後々面倒なことになるかもしれねぇし……。それらしく言っておかないとな。

 羽澄の脳内でいろんな考えが飛び交う。

「ふーん。見た目は? かわいいの?」

「……まあかわいい部類に入るんだろうな。見た目は髪がすっげー長くて清楚な感じかな」

「兄ちゃん、その人に会ったんだ」

「!!」

 しまった。

 気を付けないと、と思っていたそばからこれだ。

「ああ……おう。槙人から紹介してもらったんだ。このまえ学校帰りに駅前のファミレスに行ったんだよ」

 後半は事実だ。

 事実を混ぜてみて、それなりに怪しさ度は下げられ現実味は増したはずだ、と羽澄は内心びくびくしながら、弟の顔色をうかがう。

 弟は目を細め、羽澄の顔を下から覗き込んでくる。

「いいな。俺も見てみたいな。槙人兄ちゃんにそう言っといてよ」

 納得してくれたようで一瞬後にはいつもの表情に戻り、あっけらかんと言い放つ。

 心の中で胸をなで下ろす羽澄だった。

「わかった、話しとくよ。あとアドバイスありがとな。伝えとく」

「うん。兄ちゃんも勉強教えてくれてありがと。またなんか訊くかもしれないけど、いったん部屋に戻って、いまの復習してくる」

 弟は立ち上がり、羽澄の部屋を出て行った。

 すぐに隣の部屋のドアがパタンと閉じる音が聞こえてくる。

「……よくよく考えたら、べつに隠すことなくね?」

 弟が去っていったドアを見てそう呟く。

 気恥ずかしいのは確かだが、あえて隠す必要があるとも思えなかった。

 しかし、過ぎたことは仕方ない。また今度機会があったら、あれは俺の話だった、とでも言っておこうと思い直す。

 ――なんか槙人に悪い気がするしな。

 勝手に自分の預かり知らないところで嘘がでっちあげられていて、気分のいい人はいないだろう。槙人にも一言、言っておいたほうがいいかもしれないと羽澄は考えた。

 そこまで思ったところで弟のアドバイスを思い出し、机の上においてあるケータイを手に取る。そしてメールでもいいかと思ったのだが、なんとなく電話をかけてみることにした。

 三コールもしないうちに涼夏の声が聞こえてくる。

『どうしたの?』

「いや、別に大した用事はないんだが……」

『なに?』

 先が気になるのか、急かしてくる。

「えっと……クリスマスのことなんだが……」

 そう言いかけたところで、涼夏の激昂が飛んでくる。

『やっと決まったの!? 遅いわよ! 待ちくたびれたわ』

「……すいません」

 つい反射的に電話の向こう側にいる涼夏に軽く頭を下げて謝ってしまう羽澄だった。

 しかし、一秒前の怒りはどこへ行ったのか。今度は涼夏の嬉しそうな声が聞こえてくる。

『で、どこに行くの?』

「水族館でどうだ? 電車で行けばそんなにかかんないと思う」

『いいわね! 小さいときはお父さんとかに連れて行ってもらった記憶があるけど、大きくなってから行くのは初めて』

 涼夏の喜んでいる顔が見えてくるようだった。予定を告げただけでこの調子なのだがら、当日はもっとテンションが高いかもしれない。

『楽しみだなあ』

「そりゃよかった」

『待ち合わせとかはどうする?』

「うーん。前と同じでいいんじゃないか? 駅前に八時で」

『わかったわ。ああ、早くクリスマスこないかな』

 声や口調からもわかる通り、そうとう喜んでくれているようだ。

 ――こりゃ、弟にも感謝だな。

 しばらくハイテンションの涼夏の話を聞いてから、電話を終えた。

 電話を終えた羽澄の顔はやさしい顔になっていた。



  ●



 クリスマス当日。

 今回は朝六時に涼夏に起こされるなんてことはなく、ふつうに七時に起きた。昨夜はなかなか寝付けなくて、眠りに落ちる寸前に見たケータイの画面の時間は三時を過ぎていた。

 今回のデートは前回とは違い、後ろめたいことはなにもない。だから純粋に涼夏と出かけるのが楽しみでなかなか眠ることが出来なかった。まあ、だれしもよくあることだろう。

 朝ごはんの食パンをかじりながらテレビをつける。

天気予報では今日は午後から曇り、夕方には雨が降り出すかもしれない、と告げている。水族館はもちろん館内なので、帰り際にさえ気を付けて折り畳み傘でももっていけば問題はないだろう。

いったん部屋に戻り、着替えを済ませる。リビングに戻り時計を確認するものの、まだ時間には余裕があるが早めに家を出ることにした。

折り畳み傘をカバンにいれながら玄関のドアをあける。

「あれ? もう降ってるじゃん」

 外は霧のような細かい雨が降っていた。

「夕方だって言ってたのにな」

 しまおうとしていた折り畳み傘を玄関に残し、ふつうの傘を手に取り家を出た。

 駅までの道のりで霧雨は辺りを隠していくように段々濃くなっていった。

 このとき羽澄の胸には嫌な予感のようなやもやがたちこめていた。なにか嫌な予感がするのだ。

 ――気のせいだと思うけど……。

 何ごともなく杞憂であってほしい。今日一日を楽しく過ごしたい。

 考え込んでいるうちにあっという間に駅に着く。バスロータリーの中央に立っている時計は霧で見えないが、まだ十五分以上はあるだろう。

 ぼんやりしながらしばし待っていると、

「羽澄ぃー。おはよーっ」

 信号を挟んだ向こう側の道から涼夏がこちらに手を振っている。反対の手に持った傘もそれに合わせて揺れていた。

 道路は全部で四車線あるので、ここから涼夏まではまだかなり距離がある。そのためかなりの大声を出していたので、道行く通行人たちは何ごとか、と涼夏を見ている。今日は平日だが、すでに年末に入っているため人通りはそんなになかった。

「あいつ……」

 恥ずかしくなって、右手で顔を覆う羽澄。視界はもともと左半分しかないので、見える視野的にはなにも変わらない。そのため信号が変わるのを待つ涼夏はばっちり見える。

 その姿は文句なしにかわいかった。

 信号が変わり涼夏が小走りで羽澄の元へ向かってくる。

 その時、バスロータリーに止まっていた一台のバスが発車するのを横目で見た。そのバスはなんといったん停車しないまま、勢いをつけて左折する。

 そこには――

「涼夏っ!」

 ちょうど横断歩道を渡っていた涼夏はバスに跳ね飛ばされた。

 それと羽澄が金切り声をあげるのはほぼ同時だった。

羽澄の心情を無視するように、涼夏が差していたかわいらしい薄ピンクの傘が宙をゆっくり舞っていた。

 周囲の人たちのどよめきと視線がバスと涼夏の方へ向かう。

バスはしばらくしてから急停止したが、羽澄の目にそんな光景は映らなかった。

 羽澄は傘を投げ出し、涼夏の方に駆けだしていたが、横断歩道の手前まで来て涼夏の姿を見て、思わず足が止まってしまった。

 涼夏は自らの流した血の海の中にいた。服は赤く染まってしまって、元の色さえわからない。ここからでも相当の出血量であることがうかがえる。ぶつかられた左足と左腕は変形して変な方向に曲がっている。

 恐怖で身がすくんでしまった。

 頭は真っ白になり、足はがくがくと震え、歯はうるさいほどカチカチと鳴る。それは寒さのせいなんかじゃない。いや、いっそそうだったらよかった。

 周囲に群がっていた野次馬のうちの何人かが駆け寄りなにやら大声で叫んでいる。

 その声に我を取り戻した羽澄は野次馬をかき分け、涼夏の元へ近づいて行った。

「涼夏!!」

「君はこの子の……知り合いですか?」

 涼夏の様子を確かめていた男性が羽澄を振り返る。

「はい、そうです……」

「僕は救急車を呼びます。君はこの子に声をかけていてあげてください。まだ息があります」

「――っ!!」

 まだ息がある。

 その一言で、希望を取り戻すことができた。

 冷静さを取り戻した頭をフル稼働させ、涼夏の隣に座り込み声をかけ続けた。本当は手を握っていたかったけれど、更に状態を悪化させてしまう危険性があったので出来なかった。

 羽澄が何度も涼夏の名前を呼んでいるとき、涼夏は眉根を寄せて苦しそうな反応を見せるばかりだった。それでも、生きていることがわかり、羽澄の希望が失せることはなかった。その時には恐怖なんて忘れていた。

 ――涼夏……っ。死なないでくれ!

 羽澄の頭にはこのことしか頭になかった。



   ○



 固い金属片が、やわらかく体を押しつぶす感覚。

 気付いた時にはすでに地面に倒れていた。後から遅れて、痛みがやってくる。

 ――今日……だったのか。神様もいじわるだなあ……。

 自らの流れ出る血の温かさに包まれていく。それと共に視界がぼやけて、霞んでいく。

何度も自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。

けれど、意識が遠のきすぎてそれが近くでなのか遠くでなのか、わからない。



   ●



 救急車への同乗を許された羽澄だったが、さすがに救急救命室の前までしか同行はできなかった。ここでは簡単な応急処置だけなので、時間は三十分もないはずだったが、待っていることしかできない羽澄にはとても長く感じられた。

 無力。それを強く思い知らされた。

 目の前の扉は固く閉ざされている。向こうで慌ただしく動き回っている人の気配が感じられる。

 すると、急に扉が開き看護師たちが大きなベッドと点滴台を押しながら出てきた。

「涼夏!!」

「どいてください!」

 思わず近寄ろうとした羽澄を一人の看護師が押し返す。そのときちらりと見えた涼夏には呼吸器がつけられ人工的な呼吸が強いられていた。目は閉じられ、苦しそうな表情を浮かべている。顔は血の気を失って、青白くなっていた。

 涼夏を乗せたベッドはあっという間にエレベーターに乗って上の階にいってしまった。止まった表示は五階。院内案内を確認すると五階の欄には『手術室』としか書かれていない。

「涼夏……。どうか、涼夏がたすかりますように……」

 唇をかみしめる。鉄の味がしたが、ちっとも気にならなかった。痛くもかゆくもなかった。涼夏はこれの何十倍、何百倍の痛みと戦っているのだ。

 羽澄には涼夏が助かる奇跡を祈ることしかできなかった。


 その後、緊急手術を受けた涼夏はなんとか一命を取り留めた。それだけでもう、ほとんど奇跡のようなものだった。

 長い手術が終わり涼夏が集中治療室に移される数分。羽澄はもう一度、涼夏の顔を見られた。険しかった顔も変わらず血の気のない顔だったが、表情はだいぶ安らかなものに変わっていて安心した。そしてその安堵から、緊張の糸が切れ、羽澄は気を失ってしまったのだ。怪我もしていないのに、病室で一日寝かされてしまった。

 そして涼夏は集中治療室に三日間入り、一応の危機は去ったということで一般病棟に移された。けれどもまだ油断を許さない状態らしく、親族以外の面会は謝絶だった。

 面会謝絶は一週間で解除された。

 羽澄はもちろん涼夏のお見舞いに行ったが、涼夏は未だに目を覚ましていなかった。彼女の両親に、お見舞いありがとう、と言われただけで帰されてしまった。



「ねえ涼夏、どうだった?」

 年が明けて三が日も過ぎ、週明けには三学期も始まる。そんな日に槙人と未散の三人で羽澄が涼夏に告白を受けた公園に来ていた。

羽澄がブランコに腰掛けていて、槙人と未散がブランコの周りに設置された膝くらいの高さの柵に腰掛けている。

 未散と槙人には涼夏が事故に遭ったことと、お見舞いに行ったことを話していた。それで心配した二人が羽澄を励ますために三人で会おうという話になったのだ。

「ずっと眠ったままだって」

 羽澄の表情は目に見えて落ち込んでいる。目の下には隈が出来ていたし、心なしかげっそりとしていた。声に抑揚もなく、心に余裕がなくなっている。

「そっか……。あたしもお見舞いに行こうと思ったんだけど、涼夏見たら泣いちゃいそうで怖くていけなかったよ……」

「命があっただけでもよかったよ。きっとすぐに目を覚ますさ」

 羽澄を励ますつもりが未散まで元気をなくしてしまった。

 暗い雰囲気になっていたのを、槙人は必死に変えようとしていた。

「おう……」

「うん……」

「……」

 しかし、力ない二人の返事についには黙ってしまう槙人だった。

 三人の間に重苦しい沈黙が漂う。それはたいそう居心地が悪く、また簡単に払拭できるようなものでもなかった。

 それでも槙人は勇気を奮って立ち上がり、二人に声をかける。

「これから三人で涼夏ちゃんのとこ行かないか?」

 羽澄は弾かれたように友人を見上げた。槙人を見つめる瞳には、確かな哀しみとどうしよもない諦めが浮かんでいる。

 ――俺らが行ったところで状況はなにも変わらない……。

「涼夏ちゃんの病室で俺らが楽しそうに話してたら、『なんであたしをのけ者にするのよ』って起きるかもしれないだろ? 少なくともここで、暗くなってるよりはマシだ」

『なんであたしをのけ者にするのよ』

 それは確かに涼夏が言いそうな言葉だ。

 三人だけで話していたら、きっと頬をかわいらしく膨らまして、怒るだろう。

 その様子を思い浮かべ、羽澄はより涼夏に会いたくなった。

「そうよね。暗くなってても仕方ないし。行きましょ」

 未散が賛同する。

 二人は物憂げ表情を浮かべて下を向いている羽澄を見つめ、その口から言葉が紡がれるのを待つ。

「……そうだな」

 羽澄のその言葉に未散と槙人は顔を見合わせ、頬を緩める。

 三人は連れだって、病院へ向かった。



「あら未散ちゃん。久しぶりね。ほかのお二人もよく来てくれたわね」

 ノックをしてから、病室の扉を横に滑らせると、涼夏の母親のそんな言葉が三人を出迎えた。涼夏の病室は個室だった。

「あら、あなたはこの前もきてくれた子かしら? この前は追い返すようにしてごめんなさいね。私たちも戸惑ってて」

「……いいえ」

 羽澄はなんとかそれだけ返す。

 涼夏の母親は疲れ切った顔をしていた。それでも無理矢理、笑顔を張り付けている。見ていて痛々しかった。

「私はしばらく席を外します。涼夏をよろしくお願いしますね」

 三人に気を使ってくれたのか、涼夏の母親は早口に言うとさっさと病室を出て行った。

「俺たち飲み物でも買ってくるよ」

 槙人も未散を連れて病室を出て行ってしまう。

 三人でお見舞いに来たはずが、いつの間にか涼夏と二人きりにされていた。

「涼夏……」

 羽澄はベッドの脇まで言って、彼女の名前を呼ぶ。

 口に着けられた呼吸器から酸素を与えられ、規則的に呼吸を繰り替えす涼夏。体は布団に覆われていて見えないが、頭には痛々しく包帯が巻かれていた。苦しそうな表情で硬く目をつぶっている。

 涼夏の顔を見て、一気に半年の記憶が蘇る。

 初めて会った夏の日、強引に学校から連れ出され、さきほどいた公園で告白された。戸惑いを隠せないながらも日々は過ぎていき、関係を終わらせるために遊園地でデートをした。しかしそれで、より二人の仲は深まった。二人で変わりたい、と望んだ。秋にはさらにいろんな話をしてお互いを知っていった。

そのとき、一粒の涙が羽澄の頬を伝っていった。

槙人以外の他人を大切だと思ったことはなかった。それでも今、初めてはっきりと羽澄は自覚した。

――俺、涼夏のこと、こんなに大切に思ってたんだな。

自覚してしまうと、後から後から涙は溢れてくる。

もう一度、涼夏の声が聞きたい。わがままでもなんでもいいから、元気に笑ってほしい。それだけが今の羽澄の願いだった。

そしてその時だった。

涼夏の長いまつ毛がふるふると揺れ、そのままゆっくりと瞼が開いたのだ。一気に顔に生気が戻ってきていた。

突然のことに呆気にとられ、涙を拭うのも忘れ涼夏の元に詰め寄る。

「涼夏っ」

 涼夏の目の焦点が段々と定まっていき、その双眸が羽澄を捉える。そして弱々しく口を開き、こう言った。


「だれ?」


 聞き間違いだと思った。涼夏は酸素マスクをつけていて、声はくぐもっている。聞き間違いでなければ、記憶が混濁しているだけだと言い聞かせた。

「俺だよ。羽澄」

「羽澄?」

 それでもなお涼夏は、目の前にいる少年がだれであるかわかっていないようだった。

「なんで……泣いてるの?」

 その言葉にはっとし、羽澄は涙を拭う。

「泣いてないよ。それより、クリスマスの日のことは思い出せるか?」

「クリスマス……? わからない……あなたのことも」

 羽澄は愕然とした。

 涼夏はしっかりと会話をしている。なので意識が混濁していてわからない、という可能性は限りなく低い。

 ――でも、それじゃあ……。

「なにか覚えていることはあるか?」

 一縷の望みをかけてそう尋ねる。

 この際なんでもいい。家族のことや未散のこと、その他なんでもいいから『知ってる』と言ってほしかった。

「……わからない。あたしはなんでここで寝てるの? そもそもここは……病院?」

 深い闇に落とされていくようだった。目の前が真っ暗になる、とはまさにこのことだ。絶望が羽澄を支配していく。

「あたし……なんで病院にいるの?」

 もうそれ以上なにも言わないでほしい。

 これ以上絶望を突きつけないでほしい。

「あなたとあたしは……どういう関係なの?」

 ガラガラと足元が崩れていく錯覚が羽澄を包んでいく。



   ○



病室には少女とその母親とひとりの医師がいた。

「本人が一緒でも大丈夫ですか?」

 と尋ねる。

母親は不安そうなつらそうな視線を少女に送る。

「大丈夫ですよ」

 少女ははっきりと答えた。

「ぼくはこれからしばらく忽那さんを担当することになった脳神経内科の医師です。それで、忽那さんの症状ですが……記憶喪失、ですね」

 主治医のその言葉を聞かずとも、さきほどの状態を見ればそんなことは明らかだった。

「症状から言って、逆向性健忘で間違いないでしょう」

 それを言ってから、憐れむような顔で少女を見る。

「逆向性健忘とは、ある地点――今回の場合は事故発生時以前の記憶がなくなってしまうとこです。事故の衝撃で記憶が抜け落ちてしまった、と考えてください」

 記憶喪失であると認識をした今、自分のことは少しでも多く把握しておきたかった。目の前の女性も母親だと言っていたが、少女にはそれすら確かなことか判然としなかったから。

 主治医は少しためらうように一拍おいてから、

「怪我自体はもう命が脅かされるような危険はありません。そう脳神経外科の医師から聞いています。ですので、全治一か月程度です。その後は様子を見て、退院するかどうか決めましょう」

 今度は愛想笑いを浮かべていた。

「もう少し怪我が回復したら、記憶喪失についてくわしく検査して行きましょうね。不安かもしれませんが、ふとしたきっかけで記憶が戻る、なんてこともあるそうですから希望は捨てないでください」

 白々しく励ましたあとは、ゆっくりと病室を出て行った。

 残された少女と母親の間に痛いほどの静寂が満ちる。

「…………本当に何も覚えてないの……?」

 沈黙を切り裂いたのは母親だった。涙の気配を含んだ言葉は、必死に絞り出したように裏返ってしまっていた。少女に向けた背中は落胆を隠そうともせず、元気を失って丸まっている。

「ごめんなさい……」

 それを視界に収めた少女はすまなさそうに謝った。

 別に少女が悪いわけではない。むしろ、あの事故から生還していただけでも奇跡と言える。悪いのはすべて、左右の確認を怠ったバスの運転手だ。

 しかし、少女の記憶が戻る見込みもない今、二人はただ途方に暮れるしかなかった。



   ●



 あれから一か月が経った。

 涼夏の元へは怖くて足が進まない。もう一度彼女に会って話しても、さらに絶望が深まる気しかしない。

けれど一か月が経ち冷静に物を考えられるようになると、逃げてばかりもいられない、という思いが次第に強くなり始めていた。よくよく考えてみれば、羽澄よりも涼夏のほうがよっぽど恐怖や不安を感じているに違いない。記憶喪失になってしまって、知らない場所に一人で迷い込んでしまったようなものなのだから。

涼夏には笑っていてほしい。

でも、羽澄が会いに行くことで、涼夏の感じている負の感情を拭ってやれるかはわからない。

毎日毎日そんな葛藤をしていた。

しかし、その日は絶望に勝る勇気が羽澄の足を涼夏の元に向かわせた。



「ふぅ……」

 扉の前に立ち、呼吸を整える。緊張ですっかり体が固まってしまっている。かれこれ、十分くらいここにいるだろうか。

 あとは取っ手に手をかけて、左にスライドさせるだけだ。しかしそう簡単にはいかないのが現実だ。

 ――やっぱ引き返そうか。いや、でも……。

 この自問もさっきから何度しているだろう。肝心な時に弱気な自分に嫌気が刺す。

 後ろ暗い思いを振り切り、取っ手に手をかける。またそのままフリーズ。

 ――やっぱり今日は帰ろう……。

 手を離したときだった。わずかに扉が開いてしまい、ごく小さな音だがパタンと音を立てて閉まる。

「だれ? だれかいるの?」

 涼夏に気付かれ、病室の中から声をかけられてしまった。

 仕方なく覚悟を決めて、戸をスライドさせた。

 心臓が耳元にあるようにバクバクとうるさく暴れている。怖い。やっぱり逃げ出してしまいたい。

「あなたは……前に来てくれた人ね。あのときはごめんなさい」

 すっかりしおらしくなった涼夏がそこにいた。

 事故以前の涼夏からは考えられない変貌ぶりだ。その姿にさみしさがこみ上げる。

「いや、気にしてないよ」

 ひきつった笑みで強がりをいうことしか、羽澄にはできなかった。

「羽澄くん……だよね? 未散ちゃんがここ一か月ずっとお見舞いに来てくれて、あなたのこと教えてくれたんだ」

 “羽澄くん”と言われたことにとてつもない違和感を覚える。

 そんな風に呼ばれたことなど一度もない。涼夏は最初から、羽澄のことを呼び捨てにしていた。

 それに未散がここに来ていたことも意外な事実だった。彼女は涼夏の親友だ。羽澄のようにそうとうなショックを受けていてもおかしくないはずなのに……。

「そうだよ。あの子、来てたんだ」

「うん。とりあえず、入っていいよ。あたしのこと聞かせて」

「……わかった」

 羽澄は病室に入り、ベッド脇に置かれていた椅子に腰かけた。

 涼夏はベッドの上で体を起こし座っている。一か月前につけてた酸素マスクやその他の機械もろもろは外され、今は包帯が彼女を包むのみだ。そして相変わらずきれいに整った顔立ち。しかし少し頬がこけている気がする。挑戦的なつり目も、今はどことなくやわらかい印象に落ち着いている。全体的な雰囲気もおしとやかな少女、と言った感じになっていた。

「それで……いきなりなんだけど、訊いてもいい?」

「なんだ?」

 正直なにを言われるのか、気が気でなかった。それをなんとか表面上には出ないように抑えた。


「あなたとあたしはどういう関係だった?」


「え? あの子に聞いたんじゃ……」

 今度は戸惑いを抑えきれなかった。

 涼夏は悲しそうに、さみしそうに目を伏せて、

「未散ちゃん、それだけは教えてくれなかったの。ちゃんと羽澄くんの口から聞くべきだ、って」

 未散はあえて伝えなかった。

 いまここで羽澄が、

 ――俺たちはただの友達だよ。

 と言えば、涼夏の中ではそれが真実になる。

 そう言ってしまえば、恋人もこれで終わる。以前の羽澄ならここで迷いなく、友達だと答えただろう。

でも……こんな風に終わらせていいのか?

 羽澄にとって涼夏は大切な人なんだと実感したばかりのはずだ。それが事故に遭って記憶を失くしたからといって、すべてなかったことになっていいのか。

 答えは……。

「俺たち……実は恋人だったんだよ。いや、過去形じゃない。俺は今も涼夏のことを恋人だと思ってる。……あの日、涼夏は俺とデートするために駅に行ったんだ。それで、あの事故に遭ったんだ」

 これが羽澄の出した答えだった。

 真実をありのままに伝える。

 出会った日の涼夏の強引な態度も。他愛ない会話ばかりを続けていたことも。二人で遊園地にデートに行ったことも。

 そこで、言葉を発したあとに最も重要なことに改めて気付く。

 ――彼女はこの話を信じてくれるだろうか。

 そんな不安は考えていなかった。ここで自分がいかに真実を語ろうとも、涼夏自身が信じなければ、この話は彼女の中では嘘になる。

 今さらながらに緊張感が羽澄を支配する。

 信じてもらえなかったら、どうしよう。そのまま拒絶されてしまったら……。よくよく考えてみれば、いきなり目の前に現れた男から「俺たちは恋人だった」と言われているのだ。常識的に考えれば、記憶喪失を利用して嘘の事実をでっち上げていると気味悪がられるのが妥当なとこだろう。

 しかしすべてを聞いた涼夏は、微笑んだ。

 やさしく目じりを下げて、口角を上げて、微笑んでいた。

 そしてこう言った。

「あたし、いまはなにも覚えてないけど……とっても幸せだったんだね」

 その言葉で、一瞬前までの羽澄の不安が杞憂として消える。体の緊張が解かれ、力が抜けていく。

 涼夏は信じてくれたのだ。

 現在の涼夏の記憶からは抹消されているはずの、羽澄の話を。

 果たして、本当に涼夏は幸せだったんだろうか。彼女の本音は一度も聞いたことはない。そんなことにもまた気付かされる。

 だから、羽澄はなにも答えられなかった。けれどいま、ひとつだけ聞いておかなければならないことがある。

「涼夏は……記憶を取り戻したいと思うか?」

 少し考えるような間があった。

 その時間は実際には数秒だった。けれど、羽澄には永遠にも感じられるような長い時間に感じられた。

「うん。取り戻したい」

 何一つ残っていない記憶で、羽澄を信じた。その上、その記憶を取り戻したいと言ってくれた。

 返事を聞いて羽澄はほっとした。そして、あることを決めた。

「俺、手伝うよ」

「なにを?」 

 涼夏の瞳が羽澄を見ている。不安もそして期待も混ざっているような、上目使い。

「もちろん、涼夏が記憶を思い出せるようにだよ。正直俺にはなにができるかわからない。できることがあるのかさえも……。それでも、傍にいたいんだ」

 涼夏の目を見返して、そこに力を込める。

「だめ……か?」

 もしも涼夏がNOと言ったなら、そのときは影ながらでもできることを探そう。

 たとえ彼女が自分のことを思い出せなくても、なにかしたい。

 涼夏とも出会いが羽澄の思考に少しずつ変化を与えていた。

「だめなわけ、ないじゃない。お願い……します」

 涼夏の頬がわずかに赤く染まっていた。

 その顔を見て、羽澄の表情もふと緩む。


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