第一章
第一章
○
朝、少女は駅への道を急いでいた。
信号が青になり、少女は横断歩道を渡り出す。
そして――
少女の体が硬い金属に押しつぶされる。一瞬だけ世界がスローモーションになったように見えた。
なにが起こったんだろう、と少女は思った。辺りには少女の血が広がっており、それは明らかに致死量以上だった。
体が先の方から段々冷たくなっていく感覚。意識が霞み視界が暗くなっていく。少女の美しい顔は地面に出来た血だまりで赤く染まっている。幸い顔に怪我はなかったようだが、命が助からないのであればそれはもはや関係ない。
なにが起きたかは徐々に把握してきていた。
少女は数分前、一時停車もせずに勢いよく左折してきたバスに撥ねられたのだ。もうすぐ横断歩道を渡り切る、というタイミングでのことだ。そのバスは何ごともなかったかのように遠ざかっていってしまった。つまりは、轢き逃げだった。
少女の周囲にはたくさんの野次馬がいた。なにごとだ、とそれを見た通行人がさらに人を呼ぶ。けれど少女には騒ぎ立てる外野の声さえも遠いものになっていく。
――このまま死んじゃうのか。なにもない人生だったな。
そう思うのと同時に記憶が順番にフラッシュバックしてくる。これが走馬灯か、と少女は静かに機能を停止していく脳で考える。
幼いころのこと、小学校で友達ができたこと、中学校で初めて男性に告白されたこと。色んなことが思い出されては、次々に消えていく。
――もう少し、生きたかったな。
少女はそんなことを願う。
しかしそれももう叶わないだろう。
もう目は見えない。
音も聞こえない。
体の感覚もない。
意識だけがかろうじて残っていて、それさえも暗い闇の中に沈んでいく。
――恋とか……してみたかったな。
そんな思いを最後に少女の意識はプツリと途切れる。
●
今日の終業式が終われば、高校に入って二回目の夏休みに突入する。
真夏の焼けるような日が照りつける通学路。住宅街に風は吹いておらず、暑い空気はそこに留まり、さらに不快指数を上げていた。
そんな道を、月見里羽澄は学校に向かうために歩いていた。
「暑いな……」
さっきから同じようなことばかり言っている気がするが、この暑さでは仕方ない。そして条件反射的に、手でパタパタと顔を仰いでしまうのもまた仕方のないことだろう。そんなことをしても、頬には生ぬるい風しかこないが、そうせずにはいられなかった。頬を伝う汗がさっきから止まらない。
筆記用具くらいしか学校指定のカバンには入っていないが、心なしか重く感じる。
辺りにも羽澄と同じように学校に向かう生徒の姿がちらほらとうかがえるが、みんなこの暑さのせいでだるそうだ。
「よっ!」
この日差しにも負けないような明るい声で、後ろから気軽に羽澄の肩を叩いてきたのは羽澄の中学時代からの友人、川浦槙人だった。
「……おっす、槙人」
「大丈夫か? なんか元気ないぞ?」
「そりゃこんだけ暑けりゃ元気もなくなるわ……」
「明日から楽しい楽しい夏休みだろ。もっと元気よく行こうぜ!」
槙人はこの暑さにも全く参っていない様子だった。
正直、夏休みでしばらく学校に来なくていいのはありがたい。
羽澄も槙人もこの近くに住んでおり、高校までは歩いて十五分程度の道のりなのだが、それでも連日の猛暑が続けばさすがにつらい。しかし、槙人の言うような「楽しい楽しい夏休み」が待っているかどうかは別だった。
自慢して言えるようなことではないが、羽澄は決して友達が多い方でなかった。そもそも気を許して話せるのは槙人くらいだ。なので夏休みの予定は特にない。何かしたいことも別になかった。
「槙人は夏休みどっか行くのか?」
羽澄はやけにテンションの高い友人に問いかける。
「一応決まってるのは、毎年行ってる家族旅行くらいかな。今年は九州のほうに行くらしい」
槙人は左耳にピアスが二つ開いて髪も茶髪に染めているため、一見すると不良に見られがちだが、実はすごく家族思いの男だった。毎年夏休みになると家族で三泊四日くらいの国内旅行に出かけているようだ。歳の離れた妹の世話もしているのを、家の遊びに行ったときも何度も見ている。
「いいなあ。俺もそんな予定とかあればいいんだけど、今年は弟が受験勉強で忙しいからなあ……」
羽澄の二つ年下の弟は中学三年生で受験を控えているため、夏休みの家族旅行は無理だろう。
「まあ土産買ってくるから、楽しみにしててくれよ。旅行以外は決まってないし、いっぱい遊ぼうな」
羽澄の方を見てニカっと笑う。
中学時代からの付き合いなので、槙人と友達になってもう五年目になる。毎年なんだかんだで、夏休みはほとんど槙人と過ごしているような気がする……。
そんな話をしていた時だった。
「涼夏ちゃんだ!」
「今日も変わらずきれいだなあ」
「涼夏ちゃん、こっち向いて!」
辺りの生徒がそんな声を漏らす。
羽澄が振り返るとちょうど横を通り過ぎていく一人の女子生徒がいた。腰まである長い黒髪。整った顔立ちに、若干つり目がちの瞳。
その目がちらりと羽澄を見た気がしたが、たぶん気のせいだろう。
彼女について羽澄も噂くらいは聞いたことがある。
彼女は同じ二年生の忽那涼夏だ。校内一の美少女として有名だった。今までに何人もの男子生徒が告白しては、撃沈しているらしい。
「あんな美人な子と付き合えたら、幸せだろうな」
隣にいる槙人までそんなことを言いだす。たしかに羽澄も彼女のことは可愛いと思うが……。
「ああいう子がタイプだっけ?」
「いや、単にかわいい子だなって意味だよ。まあ夢のまた夢だろうけど」
槙人が苦笑いを返す。
「恋人か……」
「お? 羽澄もそんなこと考えるようになったか」
羽澄から無意識にこぼれた呟きに、槙人がめざとく反応する。
「違うよ。俺にはそんなの要らないし。第一、友達もたいしていないやつなんかに彼女なんて出来るわけないだろ。くだらない人間関係なんてもうこりごりだよ」
羽澄の言葉に槙人は少しだけ哀しそうな顔をする。
「まだ気にしてるのか?」
羽澄の脳裏に中学時代のことが蘇る。しかし、それを一瞬にして振り払った。その顔を見た羽澄ははっとする。
「いや、そんなことないよ」
思わず強がりが口を吐いた。
「でも……」
――もうあんな思いはしたくないんだ。
羽澄は続く言葉を飲み込んだ。これ以上、槙人を哀しませるわけにはいかない。
「……」
黙りこんでしまった友人に羽澄は意識的に明るい声をかける。
「この話はもう終わり! はやく学校に行こう。楽しい楽しい夏休みが待ってるんだもんな」
さっきまで夏の暑さにやられていたはずだが、そんなことはすっかり忘れていた。今はとにかく明るい話題を、と言う考えしかなかった。
「……おう」
槙人はそんな羽澄の意志を汲んでくれたのか、ゆるく笑った。
そして二人は並んで学校を目指した。
この日、学校は終業式と簡単なHRのみが行われ、教室は終始すでにどこか浮ついた雰囲気が見られた。渡された成績表はとりあえず見なかったことにして、生徒たちはそのまま夏休みに突入した。
羽澄は槙人以外とは特に会話をすることもなく、帰る支度を整え教室を後にする。
その帰りがけのことだった。
羽澄は帰りはいつも一人で帰っている。槙人の部活が休みの日は一緒に帰ったりはしているが、今日は羽澄一人だった。ちなみに羽澄はとくに部活動はしていない。
下駄箱に上履きを入れ、代わりにシューズを取り出す。履きながら、いつも通り帰路に着こうとした。そして歩き出したところで、
「二年D組、月見里羽澄! 待ちなさい!」
そんな声が昇降口いっぱいに響いた。
羽澄は驚いて振り返る。
周囲にも羽澄のように帰宅しようとしていた生徒がちらほらいたが、その声はそこにいた全員といってもいいくらの人間も注目させていた。
そしてそこには朝、通学路で見た忽那涼夏がいた。彼女は腕を組み、仁王立ちで羽澄を見つめていた。
「……なんすか?」
思わずそう返した。その顔はひきつっていた。
もちろん彼女と羽澄は知り合いではなく、ましてや一度として話したことすらない。そんな相手にいきなりこんな風に呼び止められたら、誰だって同じ反応をしていただろう。
「涼夏ちゃんだ」
「やっぱりいつ見てもかわいいなあ」
周囲の生徒はそんな声を上げ、彼女に見とれている。
勝気そうな瞳も、自信あり気に両端が持ち上がったつやのある唇も、そして細すぎない身体も、すべてが涼夏の魅力となっている。けれど、自信過剰と言った雰囲気は一切なく、自分なら何でも出来る、ということを熟知している凛々しさがあった。
涼夏はずかずかと羽澄に近づいてくると正面に立ち、言った。
「話があるの。一緒に帰りましょう」
「は?」
涼夏はさっさと靴を履きかえると、自然な動作で羽澄の隣に並ぶ。
「さあ行きましょう」
そして狼狽する羽澄の腕を引っ張るように連れて行く。かなり強引な振る舞いだった。
「ちょっ! 行くってどこにだよ!」
「いいからいいから」
「よくねえよ!」
羽澄は引きずられるようにして歩きながら、三年前のことを思い出していた。
出来ればずっと思い出したくない。消したい過去。
三年前もこうしてあいつ(、、、)に引きずられて……。
知らず知らずのうちに拳を握っていた。その手のひらにはうっすらと汗が滲んでいる。それは決して暑さのせい、と言うわけではなかった。
「で、話ってなんなんだよ」
声に苛立ちを混ぜて尋ねた。しかし実際はここまで引っ張って連れてこられたことに怒っているというよりも当惑している。
羽澄はそのまま自宅近くにある公園まで連れてこられていた。まだ昼前なので遊んでいる子供やそれを見守っている親たちの姿はなかった。
これからなにを言われるんだろうか。想像も出来ない。
なにも言われる覚えはないが……。
考えれば考えるほど、悩みは深くなる。
相対した涼夏はというと、少しだけ口角を上げて怪しげに微笑んでいる。それを見て、余計に羽澄の嫌な予感は増していく。
「単刀直入に言うわ。月見里羽澄、あたしの恋人になってほしいの」
「え?」
直前まであんなにも緊張していたのに、それが嘘のような間抜けな声だった。
言った涼夏は、非常に自信満々な顔をしていて、断られることなんて考えていないかのように強気でいる。
――こいつ、今なんて?
言われた内容はわかった。
恋人になってほしい。
つまりは男女交際をしてほしいと言う意味だろう。しかし何故、校内一の美少女と噂される彼女が羽澄のような、ぱっとしない生徒にそんなことを言いだすのかわからなかった。
「あたし、あなたが好きなの。だから恋人になってほしい」
続けられたその言葉に、羽澄の困惑は増すばかりだ。
校内一と噂されるほどの美少女にそんなことを言われて不快に思う男はいないと思うが、何故か不安も感じた。
先ほども述べた通り彼女との間に今まで一切交流はない。
そんな相手を好きになると言うこと自体ありえない気がした。第一、誰かに好かれていると言う自信すら羽澄にはなかった。
「……なんで、俺なんか」
「あなた、その顔を隠してる前髪をどかしたら意外ときれいな顔をしてるような気がするわ。そんなことずっと考えてた。それでなんだか頭の中が、あなたのことばっかりになってることに気付いたの。それが“好き”って気持ちなんだなって」
羽澄は前髪を長く伸ばしており、それで右半分の顔を隠すようにしている。この髪形は高校に入ってから変わっていないので、涼夏は羽澄の素顔を見たことがないのだろう。
それでも、羽澄は自分の顔が整っているだなんて思ったことは一度もなかった。自分の顔など忌々しくて仕方がない。できることなら、めちゃくちゃに切り裂いて、壊してしまいたい。
自分に自信がない。そしてその思いを加速させる過去の出来事。
あれからずっと、羽澄は顔を隠している。
「顔見てもいい?」
そう言うと涼夏は一歩近づき、羽澄に手を伸ばしてくる。その動作がふと、あいつ(、、、)とタブる。
「――っ!」
一気に恐怖が駆け上がり、気が付くと、涼夏の伸ばされた手を叩いていた。涼夏は驚いた表情をしたあと、哀しそうに眉を下げ、
「……ごめんなさい、いきなり触ろうとして」
と申し訳なさそうに頭を少し下げた。
そこまで言われたときに、羽澄は我に返る。
「俺こそ、ごめん! 叩いたりして。大丈夫か?」
見ると涼夏の左手の甲は赤くなっている。そうとう強く叩いてしまったようだ。
無意識とはいえ、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「あたしが悪かったから気にしないで」
右手でかばうように左手を抱く涼夏の姿から、羽澄を呼び出したときの勢いはすっかりなくなっていた。
その様子を見て、最初は強引な子かと思っていたが実はそんなに悪くない子なのかもしれないな、と羽澄は思った。
「本当にごめん。それと告白のことだけど、きっとなにかの勘違いだと思う。君みたいな美少女が俺なんか好きになるわけがない。第一、気になったきっかけは顔を隠してたからだろ? もう一度考え直してみてくれよ」
羽澄は早口であえて突き放すように言い放つ。
涼夏は正面から羽澄を見つめ、表情を引き締める。
「あたしもよく考えての結果だから。そこで提案なんだけど、一度試しに付き合ってみない? それであたしのこと好きになれそうになかったら、振ってもらって全然かまわないから」
可愛らしくウインクまで決める。
その仕草に少しだけ緊張してしまう。
そこまで言われると断りきれるような気がしなかった。だから、適当に付き合って頃合いを見計らってから別れてしまった方が楽かな、なんてことを考えていた。
「ね? いいでしょ?」
どうやら涼夏にはやっぱり強引なところがあるようだ。
「……」
尚も悩む羽澄と、
「悪い話ではないはずよ」
押し切ろうとする涼夏。
悩んでいたためにいつの間にか俯いてしまっていた。そこから涼夏を覗き見ると、期待に満ちた目で身を乗り出さんばかりにしてこちらを見ている。
ついに羽澄は折れてしまう。
やはり適度なところで自分に幻滅してもらい、別れを切り出すのが一番だろう、と。
「……わかったよ。試しに、な」
「ほんとっ! やったあ」
羽澄は試しに、という言葉に力を込めて言った。
しかし、涼夏の方はそれには気付いてないようで、満面の笑みでぴょんぴょんと飛び跳ねている。
それを見て、またしても可愛いな……と思ってしまう羽澄だった。
羽澄は中学時代、同級生からいじめを受けていた。発端は些細なことだった。
当時羽澄はクラスメイトのだれよりも背が低く、また髪も少し長めで中性的な顔立ちをしていた。それが原因だった。
「おまえ本当は女なんじゃねぇの?」
クラスの一人がそう言いだした。
「たしかに! チビだし、よく見りゃ女みたいな顔してるぞ」
「羽澄は女だったのかー!」
「……ちがうよ」
気の弱い羽澄はそう言うことしか出来なかった。しかし、その声はクラスメイトたちの大声にかき消され、その日を境にいじめが始まった。
内容は無視されたり、物を隠されたりといったことだ。
どこにでもある、よくある話だった。
いじめのことはそんな風に片付けていいものではなかったが、思春期にはどこにでもこの程度のいじめはありふれているだろう。そしてそのうちみんなも、いじめることに飽きて知らないうちに羽澄をいじめる者もいなくなるだろう、と思っていた。
実際、半年も経たないうちに羽澄は元の生活を取り戻そうとしていた。
「おい、いい加減にやめろよ。そんなくだらないこと」
そう言ってクラスの生徒たちを落ち着かせたのは、当時すでに友人だった槙人だった。槙人はいじめが始まってからも変わらない態度で羽澄に接してくれていた唯一の友人だった。
「羽澄、一緒に遊ぼうぜ」
昼の休み時間もそう声をかけ続けてくれていた。
そして槙人の発言により、羽澄へのいじめはなくなったかのように思えた。
そんなある日のことだ。
「転校してきた―――――だ。よろしく」
羽澄と槙人のクラスに、父親の仕事の都合で転校してきたと言う生徒がやってきた。
転校生の名前はもう思い出せない。トラウマによる心因的なものから羽澄の脳が記憶を閉じてしまっている所為だ。
そしてその転校生の彼は最初は大人しかったが、クラスに慣れてくるにつれ、転校してきた本当の理由が明らかになる。
転校生は前の学校でクラスメイトにいじめをしていた主犯格だったのだ。
そして彼が転校してきて三か月後には、すっかりボスのような座につき、このクラスでのいじめのターゲットを絞っているように見えた。
ぼってりと膨らんだ体に、細い目。その顔は完全に悪人面をしていた。
そして転校生の耳に、以前このクラスで羽澄がいじめられていた、という情報が耳に入る。
「月見里羽澄っておまえか?」
そう彼から声をかけられたとき、羽澄はすでに恐怖でいっぱいだった。
――また、いじめられる。
そう思うと、返事すらできなかった。
転校生を筆頭に、羽澄へのいじめが再開された。
彼にとっては憂さ晴らしになれば、きっとだれでもよかったのだ。いじめられている側にとってはたまったものではないが。そしていじめは以前よりも格段にエスカレートしていた。
そして決定的な出来事が起こる。
「おい羽澄。ちょっと来いよ」
その日、転校生は無理矢理に羽澄の腕を引っ張り、教室から連れ出した。
「やめてよ!」
羽澄の抵抗も虚しく、廊下に引きずられていく。いつもは助けてくれていた槙人もこの日は部活のため、放課後の教室にはすでにいなかった。
転校生と数人の生徒は羽澄を校舎裏へと連れて行く。
「これ、一回試してみたかったんだよ」
そう言って彼が取り出したのは、タバコだった。それにライターで火をつける。ゆるりと煙が空へ上っていく。
ついてきていた数人の生徒もさすがにうろたえる。
「おい、しっかり押さえとけ。羽澄、腕出せ」
生徒たちは自分が標的にされるのが怖いため、黙ってそれに従い羽澄の体と足を抑える。
「なに……する気?」
羽澄は恐怖に震えながらも、転校生に問いかける。
「根性焼き」
「!!」
転校生の答えに、さらに怯える羽澄。その顔を見た彼は、
「いい顔だ」
と言って怪しい笑みを浮かべる。
生徒たちもこれはヤバイんじゃ……と思いつつも、なにも言い出せない。
「やめてよ」
羽澄は必死に抵抗する。
「なんだよ、その女みたいなしゃべり方。あ、おまえ女なんだっけ」
きゃはは、と狂ったように笑う仁太は、そのままタバコを持った手を羽澄に近づけてくる。そして、ジュッと言う音がした。
「熱っ!!」
右腕の痛みと情けなさに涙が浮かぶ。
――悔しい。俺はなにもできない。ただいじめられることしか。
「こいつ泣いてるぞ!」
調子に乗った仁太は何度も何度もタバコを押し付ける。
羽澄を抑えている生徒も止めることが出来ない。彼らは、元は羽澄の友人だった生徒たちだ。
羽澄はただ耐える。そして思い込んでしまう。
――いじめられるのは俺が弱いからだ。こいつらが俺を助けてやろう、と思わないほどに……。だれも俺を助けてはくれない。
実際は明らかに転校生とそれに加担している生徒たちが悪いのだが、ずっといじめを受けてきた羽澄はついにはそう思い込むようになってしまったのだ。
「おまえら、なにやってる!」
そこに騒ぎを聞きつけた槙人が乱入してくる。そしてタバコを押し付けている転校生と生徒たちに抑えられている羽澄を目撃する。
「羽澄!! おまえら、羽澄を放せ!!」
槙人の怒りは頂点に達していた。そしてその迫力に押された、転校生と羽澄を抑えていた生徒たちがひるむ。
そこで彼らの手の力が弱まり、羽澄は地面に倒れる。
槙人はすぐさま駆け寄り、羽澄を抱え起こす。
「おい羽澄! しっかりしろ!」
あまりの恐怖と自己嫌悪から羽澄は気を失っていた。転校生と生徒たちは未だ動けないままその場に立ち尽くしていた。
「そこでなにしてる!」
そこにたまたま通りかかった教師も、校舎裏に来る。
「おまえ、―――――だな。前の学校でのことまだ懲りてなかったのか!」
転校生の事情を知っているらしい教師は、事態を一瞬にして把握して叫んだのち、
「来なさい」
と、彼を引きずってどこかに連れて行った。
「逃げろ!」
残った生徒たちは蜘蛛の子を散らすようにして校舎の中に駆け込んでいった。
「羽澄! 羽澄っ!!」
槙人の必死の呼びかけにも、羽澄は目を覚まさなかった。そして、さきほどの教師の知らせによって来てくれた保健の教師に、保健室に運ばれた。
その後、―――――はまた転校となり、そのとき現場にいた生徒たちは一週間の謹慎処分が取られた。
高校だったら全員退学にされているところだが、中学校は義務教育なため、このような措置しか取れなかったのだ。
羽澄はと言うと、一日も休まずに学校に登校していた。
「羽澄!」
槙人を始め、担任やクラスメイトたちもこの事態には驚いていた。しかし、槙人は羽澄をクラスに迎え入れ、積極的に声をかけ続けた。
しかし羽澄の顔にはなんの表情もなく、怒っているのか哀しんでいるのかさえもわからなかった。登校はするもののだれとも一切口を聞かず、槙人の呼びかけにも答えなかった。
槙人は諦めずに、ずっと羽澄に声をかけ続けた。
「羽澄、一緒に帰ろうぜ」
家の方向が同じだったと言うこともあり、放課後は必ず誘った。
「……」
羽澄は肯定も否定もしないまま。槙人が横に並んで帰路についても、特に嫌がったりする素振りは見せないのが不幸中の幸いだろう。
そんな状態が続き、二年生が終わり三年生になった。
「また同じクラスだな!」
教師たちの計らいもあって、羽澄と槙人は同じクラスになった。そして新しいクラスでも変わらずに、槙人は声をかけ続けた。
ある日、なんの前触れもなく、
「……いつもありがとな」
羽澄がそんな呟きを漏らした。いつもと同じ帰り道でのことだった。
「!!」
急に羽澄が声を出したことに驚き、同時に胸いっぱいに喜びが広がる。槙人は嬉し涙をこらえながら、返事をする。
「気にすんなよ。俺たち友達だろ?」
それ以来、羽澄は徐々に以前のように明るくなっていき、口調も男らしく聞こえるように変わったが、自分への自信は取り戻せないままだった。
いつしか、槙人にしか心を開かないようになってしまったのだった。
●
「あたし、カレーを食べるなら断然、ルー多め派よ。だって最後にお米が余ったら嫌じゃない。お米だけでどうしろっていうのよ」
八月も後半に入り、二学期が近づいてきている。
その日もいつものように公園で会っていて、どうでもいい話をしていた。隣同士のブランコに座って、ゆるく漕ぎながら会話する。
涼夏と恋人(?)になり、羽澄は槙人のほかに涼夏とも会話をするようになった。といっても、話を振ってくるのはたいてい涼夏のほうで、羽澄はそれに相槌を打つか短く返答をするか、と言った感じだが。
付き合い始めてすぐに夏休みに入ってしまったので会話はもっぱらメールか電話だったが、一週間に一回程度は主にあの告白を受けた公園で会ったりしていた。
「羽澄はどう思う?」
一か月以上が経ちすっかり馴れ馴れしくなって、名前まで呼び捨てにしてくる始末だ。
羽澄は少し悩んだのちに答える。
「……おれもそうかな」
そんな短い返答だったが、涼夏はぱっと目を輝かせる。
「そうよね! 羽澄なら賛成してくれると思ってたわ!」
なにやらとても嬉しそうだ。
「それなら福神漬けは入れる派? 入れない派?」
「……入れない」
「えー。入れないの? 福神漬けがさらにカレーの美味しさを引き立てるのよ?」
今度は一転して、不満顔。
先ほど涼夏は「羽澄」と呼び捨てにしたが、羽澄の方が涼夏を名前で呼んだことはないのだ。さらにいうなら、苗字ですら呼んだ記憶はない。羽澄はいつも話を聞く側なので、あまり深く考えたことはなかった。
「なら今度入れてみる」
「それがいいわ!」
羽澄の返答に表情をころころと変える涼夏。見ていて楽しくなる。
――きっと彼女は自分に自信を持っているんだろうな。
一時間くらい他愛のない話をして、さすがに暑さに耐えきれなくなってきた。手でぱたぱたと顔のあたりを仰ぎながら、飲み物でも持ってこればよかったかな、と後悔した。
「なにがいい?」
最初は聞かれた意味が分からなかった。
「なにが?」
問い返すと、
「飲み物よ。自販機で買ってくるわ」
公園の入口にある自販機を差しながら、そう言う。
そこで、心を読まれていたのか、とドキリとした。
「なんでわかった?」
「これだけ暑いんだもの、だれだって喉くらい乾くわよ。あたしもだし」
なんでもないことように言われた。
羽澄はしばらく悩んだ末にコーラ、と答えた。
涼夏は勢いをつけて、ひょいっとブランコから降りると自販機の方に歩いていった。その様子をずっと見ていた。
自販機のまえに立った彼女はポケットから小銭を出し、投入する。そしてボタンを二つ押して、お釣りとペットボトル二本を取ると、くるりとこちらを向く。
涼夏のことを見ていたので、当然目が合う。
涼夏は一気にこちらに駆けてくる。近づいてきた彼女の顔はなんだか嬉しそうだった。
「はいっ」
コーラを差し出してくる。
代わりにお金を渡そうとして、今日はお金を持ってきていないことに気付く。
「ごめん。お金、今度会ったときにもってくる」
「そんなのいいよ。おごり」
可愛らしくウインクすると、コーラを投げてくる。
羽澄はそれをしっかりとキャッチする。
――今さら断るわけにもいかないし、今日は涼夏の好意に甘えておこう。そして今度は俺が奢ればいい。
そう思ったところで、羽澄はふと“今度”のことを考えている自分がいることに気付いた。
涼夏の存在は、羽澄にとって少なくとも悪影響ではないらしい。
プシュッと音を立ててコーラのキャップを開ける。
それで喉を潤しながら、同じくペットボトルからカルピスを飲む涼夏を見ていた。
涼夏とのことを一応、夏休みの補習の帰りに、ついでを装う感じで槙人には報告した。
「忽那涼夏と……その、つ……付き合うことになった」
すると槙人の反応は……。
「おお! 羽澄にも恋人ができたか! しかも相手は校内一の美少女、忽那涼夏!! おまえ、やるなあ」
かなり喜んでくれた……ようだった。
「そうか。羽澄もやっと恋が出来るまでになってくれたのか……」
高校に入ってから、羽澄には新しい友人はできていなかった。それは羽澄自身が友人を作りたいと思っていなかったというのもあるが、さらには中学時代のことも尾を引いていた。槙人が気遣って、世話を焼いてくれているのには気づいていたが、敢えて気付かないフリで他人を遠ざけていた。そんな羽澄にいきなり、恋人が出来た報告をされたら、だれだって驚くだろう。
そして槙人の反応を見る限りでは、相当に心配させていたようだ。心からの安堵が、痛いほどに伝わってきた。
「まあ、試しにって言葉が付くけどな」
そんな槙人には、羽澄が付け足すように言った言葉も聞こえていないようだった。
「それでどうなんだよ」
「どうって?」
「決まってるだろ。忽那涼夏と、だよ!」
この日も夏休みの補習のため学校に出てきていた。やはりその帰り道、一緒に帰っていたときのこと。その日も相変わらず日差しは暑く、空には雲一つ見当たらない。
ちなみに槙人の部活がある日は、涼夏と一緒に帰っている。というか、付きまとわれている。
「うーん。大した話はしてないかな」
「たとえば?」
「この前は、カレーの食べ方を話してた」
「は? なんだそれ?」
槙人は呆れているようだった。
「もっとこう……恋人らしい会話とかしてないのか?」
槙人は手を動かしつつ、必死に聞き出そうとする。
しかし、
「……たとえば?」
先ほど槙人が羽澄にした質問を返されてしまうのだった。
これには槙人も口を開けたまましばらく固まった。
「おーい、槙人?」
羽澄の呼びかけに、はっとなる。
「そうだなあ……。たとえば、今までしてきた恋愛について、とか」
「俺が恋愛したことないのは、槙人だって知ってるだろ」
「うっ……。なら、デートにいくならどこか、とか」
「デートか」
羽澄はその答えに悩む。
実際、涼夏にはデートしようと前から誘われてはいたのだ。けれど、羽澄は断っていた。一緒に帰るだけならまだしも、だれかと二人で出かける、と言うことに抵抗を感じていたのだ。
――まあ、もちろん槙人と遊びに行くってことなら悩んだりしないんだけどな。
心の中で苦笑いする。
どうも、他人を信用できない。そして自分自身に自信がない。
それは今でも変わっていなかった。
涼夏はとても明るい少女で、いつも(一方的にだが)いろんな話をしてくる。その姿が眩しくて、潰れてしまいそうだった。
そして、いつ別れようか、と羽澄は考えていた。
恋人になってから、すでに一か月が経過しようとしている。このままなし崩し的に交際を続けていっても、きっと自分は涼夏のことは好きになれない。そんな確信めいた予感があった。
それでもこの一か月、試しとはいえ涼夏と交際し続けていた理由はだれの哀しむ顔も見たくなかったから。別れてしまえば涼夏は落ち込むだろう。その報告をすれば槙人は切なそうな顔をするだろう。そういうことを出来るだけ、先延ばしにしたかった。そんな風に羽澄は自分を分析していた。
でもそろそろ、涼夏とは決着をつけようと考えていた。やはりこのままではいけないと思ったのだ。
「なになに、実はもうデートとかしたのか?」
槙人がにやにや顔で尋ねる。
「いやしてない」
「なんだよー。まだしてないのか」
羽澄の返答にご不満な様子だ。
そこでふと思いつく。
――最後にどっか出かけて、それで終わりにしようか。
そんなことを考え、槙人にすべて相談すべきか悩む。
槙人は羽澄に恋人が出来たことを喜んでいる様子だった。そんな彼に、
「最初から別れるつもりで、試しとして付き合っているんだ」
なんて正直に打ち明けたら、どんな顔をするだろう。
少なくとも、残念がって哀しむはずだ。
――言えない……な。
相談する、と言う案は却下し、代わりにこんなことを聞いてみた。
「デートするなら、どんなとこがいいと思う?」
その言葉に、槙人は羽澄を振り返る。その目は獲物を見つけた肉食獣のように輝いていた。
「行く気になったか、デート!」
「……お、おう」
その迫力に押されつつ、槙人の返事を待つ。
「そうだなあ。やっぱり女子は遊園地とか水族館とか動物園とかなら喜ぶんじゃないか?」
「うーん」
「まあ最初ならそのあたりが妥当だと思うぞ」
「なら、遊園地に誘ってみようかな……いやでもなあ」
「それがいいよ!」
今日はやけに槙人は笑っている。いや、にやにやしているの方が正しいかもしれない。
ぬるい風が頬を吹き抜ける。太陽光線は肌を焦がすほどに暑いけれど、あまり不快な感じはしなかった。
一通り話がまとまった辺りで、羽澄の自宅に辿り着く。
「それじゃあな」
鍵を開けて自宅に入ろうとする羽澄を槙人が呼び止める。
羽澄が振り返ると、槙人はなにやらたくらみ顔をしていた。嫌な予感を覚えつつ、どうした、と訊く。
「寄っていってもいいか?」
「べつにいいけど」
「よし。お邪魔しまーす」
槙人は羽澄を追い越し、玄関から家の中に入っていく。
「……?」
なにをそんなに急いでいるんだろう、と思いつつも、槙人を追い自宅に入った。
「おかえり」
一階のリビングでテレビを見ていたのは、弟だ。
ちらりと振り返り、先に入ってきていたのが自身の兄ではないことを確認すると
「槙人兄ちゃん、いらっしゃい」
と改めた。
「ただいまー」
あとから羽澄が入ってくる。そして、テレビを見ていた弟に、
「おまえ勉強は?」
と尋ねた。
弟は現在、中学三年生で夏休みは受験勉強のため家にいることが多い。
「休憩」
素っ気なく返事をすると、またテレビに向き直る。
「そればっかだな。槙人、二階行くぞ」
「そうだな。その方がいいか」
二人は場所を二階の羽澄の部屋に移した。
適当な場所に座り、話がある様子の槙人の言葉を待つ。
「……」
「……」
しかし待っていても、槙人は口を開かなかった。
なんとなく沈黙を重く感じて、羽澄は立ち上がりエアコンのスイッチを入れた。設定は二十六度。地球にはやさしくないだろうが、これくらいは許してほしいものだ。
それからも槙人はしばらくなにも語らず、なにかを考え込んでいる表情で足元を見つめていた。やがて話すことがまとまったのか、声を落とす。
「忽那涼夏の連絡先は知ってるよな?」
「はい?」
羽澄はいきなりのことに困惑して、そう訊き返す。
――深刻そうな顔してなにを言い出すかと思えば、またその話か……。
「ああ、もちろん知ってる。それが、」
どうかしたのか? と言おうとしたところで、槙人が手を差し出してくる。
羽澄はなおも訳が分からず、訝しむ。
「この手はなんだ?」
「ケータイ、貸してくれ」
「ケータイ? いいけど、なにに使うんだよ」
渋々ながら、羽澄はポケットに入れていたケータイを差し出されたままだった槙人の手のひらに乗せる。
それを受け取った槙人はボタンを操作し、なにやら作業をしているようだった。一通り作業が終わると、あいよ、と言って羽澄にケータイを返してくる。
「なにしたんだ?」
「すぐにわかるさ」
羽澄の方を見てにやりと笑う槙人だった。
それに嫌な予感を感じて、それ以上追及するのはやめる。
すぐにわかる、というならじきに答えはわかるだろう、と。
それから数分後、マナーモードに設定してあった羽澄のケータイが振動する。
「うわあ」
いきなり手の中で震えだしたケータイに思わずビビり、情けない声を出してしまう。どうやらメールを受信したようだ。
ケータイを開いて、液晶画面をみると『新着一件 忽那涼夏』と表示されていた。
――これが答え?
釈然としない思いを抱えながら、メールを開くと本文にはこう書かれていた。
『羽澄から誘ってくれるなんてうれしい! もちろんOKです。
あたしは今週の日曜なら、予定があいてるよ。羽澄は?』
「なんだこれ?」
疑問符だけが残るメール内容だった。
いつの間にか隣に座ってケータイを覗き込んでいた槙人はおお! と歓声の声を上げた。
「OKだってさ。よかったな。さっそく日曜に行って来いよ」
「……なんの話だよ?」
全くわけがわからない羽澄は槙人に説明を求める。
すると槙人は涼しい顔をしてさらりと言った。
「決まってるだろ。遊園地だよ」
「はあ?」
「おまえさっきはああ言ってたけど、どうせ自分からは誘わないだろうと思ってさ。俺がさっきメールで送ったんだよ」
その言葉にあわてて、送信ボックスを確認すると、数分前に槙人が送ったであろうメールを発見した。
『今度二人で遊園地にデートしに行かないか?
できれば夏休みが終わるまえに』
内容は至ってシンプルかつ、簡素なものだった。
これには羽澄も開いた口が塞がらない。感謝なんて思いは間違っても起こらなかった。
「なんでこんな勝手なことするんだよ!」
羽澄は今度会ったときに涼夏と決着をつけようと思っていたのだ。そのために考えていたデートの予定をこうもあっさりとOKされてしまうと、今度はこちらが心の準備というものが全く出来ないのだった。
しかし、槙人は羽澄の事情は知らないのだ。無論、それは羽澄が話していないからだ。そんな相手に心中を察しろ、という方が無理な相談だ。
「そんなに怒らなくてもいいじゃんか。どうせ誘う予定だったんだろ?」
羽澄がメールを送ったこと自体に腹が立っている、と勘違いした槙人はそんな風に弁解してくる。
「そりゃ確かに考えてはいたけどさ。心の準備ってもんがあるだろ……」
羽澄は途方に暮れ、ため息を吐く。
これで嫌でもデートに行き、そのときに涼夏と決着をつけることが確定された。
「ほら返事しないと」
槙人はなおも追い打ちをかけてくる。
なんだか全てがどうでもよく感じてしまった羽澄は、
『それなら日曜で』
と短い返信を書いた。
「よかったな」
なにも知らない槙人はそんな風に微笑みかけて、肩に手を置いてくる。羽澄は半分だけ隠れた視界で槙人の笑顔を見て、笑いごとじゃねぇよ、と心の中で毒吐いた。
○
少女が目を覚ますと、そこは薬のにおいが充満する真っ白な部屋だった。全身を包帯でぐるぐる巻きにされていて、動かせるのは目くらいだった。
――ここは……病院?
運び込まれた病院で少女はなんとか一命を取り留めた。しかし、事故の後遺症として記憶を失ってしまった。少女は記憶喪失になってしまったのだ。
少女はなぜ、自分が大怪我をしていて病院にいるのか知らない。
少女はあのとき、自分がどこに向かっている途中で、なんのためにそこに行こうとしていたのか思い出せない。
全てを失ってしまったのだ。思い出も生きる意味も。
少女の両親はそんな彼女を必死に支えていこうとした。両親は毎日仕事が終わるとやってきては着替えを置いていったり、少女が好きだった漫画を置いていったりと献身的に世話をした。
いつ記憶が戻るのか、はたまた記憶が戻るのかさえわからなかったが、それでも自分の娘を支えていくことだけを考えていたのだ。
しかし少女にとって目の前にいる男女が、だれであるのかさえ分からない。いきなり現れた知らない人たちに、少女は心を開けなかった。面倒をみてくれるのはありがたかったが、ふとした瞬間などに、母親と名乗る女性に抱き着かれたり泣かれたりするのは正直嫌だった。
――なにもわかんない。なんで生きてるんだろう。
暗い思考が少女を支配する。
両親だという大人に対する申し訳なさ。記憶の欠片さえ戻らない日々。体の怪我だけが治っていく。
少女はなにもわからない世界で、生きる意味を見出せなかった。
そのまま少女は日に日に弱っていった。傷はちゃんと癒えていっていたはずなのに。
奇跡的な生還をしたにも関わらず、事故後わずか二か月で少女は息を引き取った。
●
涼夏との遊園地デートを明日に控え、羽澄は悩んでいた。
――どんな風に話せば、納得してもらえるだろうか。
頭はもうそんなことでいっぱいだった。初めてのデートだと言うのに違う緊張感ばかりが羽澄を支配している。
話す内容を考えてばかりで、時刻はすっかり夜中の二十三時をまわっていた。
明日は朝八時に駅で待ち合わせと言うことになっている。今日は早めに寝ようかな、と思い始めていた時だった。
ケータイが小さく振動し、メールの着信を教える。
羽澄がメールをする相手と言えば、槙人か涼夏くらいだ。どちらだろうか、と考えながら受信したメールを開く。内容にさっと目を通す。
「ん? なんだこれ?」
差し出し人は涼夏だった。しかし本文を見る限りどうやら彼女ではないようだ。
一か月の間で、涼夏からはかなりの量のメールを受け取っている。彼女はいつも絵文字たっぷりの派手なメールを送ってくるが、今来たメールは絵文字の一つもない事務的に見えるメールだったので、なにやら様子が変だということに気付いたと言うわけだ。
本文の最後には『未散』と言う文字がある。名前だろうか。
内容はこうだ。
『初めまして。明日のデート楽しみですか?
涼夏はとっても楽しみにしているようです。
後日、報告待ってます! 未散』
羽澄はどうやって返事をしようかと迷った。すると返事もしていないうちにもう一通メールが届く。また涼夏からだ。
『ごめん! 今さっきのメール、あたしの友達が勝手に送ったの!
気にしないでいいからね!』
文末がすべてびっくりマークで統一された、焦りを感じさせる内容だ。しかし、これで事態は把握出来た。どうやら先ほどのメールは涼夏の友人である未散と言う子が羽澄たち二人の初デートを心配して涼夏のケータイから送ってきたもののようだ。
「……」
またも返事に悩む羽澄。
とりあえず、また明日な、と送ることに決め文の作成を始める。
するとまたメールを受信する。
「なんなんだよ、今日は」
少しうんざりしながらも、作成していたメールを破棄して、新しいメールを開く。
今度は槙人からだ。
『ついに明日だな。涼夏ちゃんとのデート!
明後日でいいから話きかせろよ、絶対な』
それを見て、どちらに返事をする気も失せた。
「はあ……」
盛大なため息を吐き、ベッドに倒れ込む。
――先に槙人には相談しておくべきだったかな。
そんな思いが膨れ上がる。そして今からでも遅くないのではないか、と思い直す。しかしそんな思いと共に、羽澄が涼夏のことを報告した時の槙人の嬉しそうな顔が頭をよぎる。
「やっぱ言えないよなあ」
遅かれ早かれ全てを打ち明けることにはなるのだ。けれど、後ろめたいというか言いづらいことは誰でも後回しにしたいものだ。
結局羽澄も例に漏れず、槙人には後日全てを打ち明けることにして布団にもぐる。
頭の中で、ここ一か月涼夏と共に過ごした日々が再生される。
他愛のない話ばかりしていたような気がする。と言っても羽澄は相槌を打つ側だったのだが。
涼夏には多少強引で自分勝手なところもあるものの、それは彼女の魅力になっていた。きっと彼女になら羽澄よりも素敵な相手が見つかることだろう。
――俺じゃなくたって……。
布団にもぐり込み、もう寝てしまう、ときつく目を閉じる。
羽澄の意識はあっさりと暗闇に落ちていく。
翌日、羽澄は電話で起こされた。
『起きた? 早く準備して、早くデートに行きましょ!』
耳に当てた携帯からはうるさいほどの大声が響く。びっくりして耳から離し、涼夏の声を遠くに聞き流しながら、壁にかかった時計を確認する。
「まだ六時じゃないか……」
カーテンの隙間から差し込む光が眩しい。そしてまだ早い時間だというのにすでに気温は暑い。
『ねえ、ちゃんと聞いてる? もしかして二度寝!?』
羽澄からの応答がないことを訝しんだ涼夏が、またも大声を上げる。耳からは離しているのに、はっきり聞こえた。
仕方なく携帯を耳に当て直し、
「起きてるよ。もう少しボリューム下げろ……」
と抗議した。
『あ、ごめんね』
申し訳なさそうに、しゅんとなっている涼夏の姿が思い浮かぶ。
涼夏にはたしかに自分勝手なとことがあるが、ちゃんと注意すれば一つずつ直してくれた。そこに彼女の素直さを感じる。いい子には違いない、という思いがさらに膨らむ。
「まだ六時だぞ。待ち合わせ、早めにするのか?」
『どうしよう』
「考えがあったんじゃないのか?」
『……どれだけ早めに行っても、遊園地の開園時間は変わらないことに気付いたのよ』
羽澄は思わず笑ってしまった。
『笑わないでよぉ』
少し涙声だった。
羽澄はごめんごめん、と謝ってから、
「で、結局どうする?」
と再度確認を取る。
『……予定通りでいいわ』
「わかったよ」
なおも笑ってしまう羽澄だった。
不思議と早起きさせられた怒りや不快感はなかった。
午前七時五十分。天気は快晴。日中の気温は三十五度を超えるだろう、と今朝のテレビで見た。まだ陽は高くないが、すでに汗ばむくらい暑い。
そんな中、羽澄は家から学校方向とは、反対方向に徒歩で十五分の駅で涼夏を待っていた。この駅にはバスロータリーもあるため広い。
六時に起きて電話してくるくらいだから、先に待っているかもしれない、と考えて少し早めに来たのだが、涼夏はまだ来ていなかった。
まあ焦ることはない。まだ待ち合わせの時間には十分ある。
羽澄はその間に、今日話す内容を整理しておくことにした。そこでふとこんなことを思った。
――恋人をやめる、と言ったら涼夏はなんと言うだろう。
怒る、だろうか。それともやっぱりだめだったか、と呆れるだろうか。そんなことを思うと羽澄は急に不安になった。
すんなり別れられないのでは、なんて心配しているのではない。そのときの、この話をした後の、涼夏の顔を見たくなかった。まだ話してもいないのに罪悪感に駆られる。
「あれー? はやいね」
思考が暗くなりかけたとき、そんな声が聞こえ、はっと顔を上げる。
そこには膝に手を着いて、肩で息をしながらも笑顔の涼夏がいた。羽澄の姿を見とめて走ってきたのか、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
涼夏は、白地に全体的に暖色の花柄はちりばめられたワンピースを着ており、腰はベルトで絞めている。それがまた彼女のスタイルのよさを際立たせていた。腰まである長い黒髪は、ゆるく巻いてあった。足は大胆にだし、ヒールの低いサンダルを履いている。
「ねえあの子かわいくない?」
「超スタイルいいよね!」
「一緒にいるの彼氏かな?」
周囲の人々がそう話しているのが耳に入った。立ち止まって見入っている人もいるようだ。
顔が整っていて、スタイルもいい涼夏は学校内だけではなく、一般の人の目も惹くようだ。
しばらく羽澄も涼夏のことをじっと見ていた。それは見とれていたからなのだが、なにか勘違いした涼夏はこんなことを言う。
「やっぱり似合ってないよね……。今から別のに着替えてくるから、少し待ってて」
後ろを向いて歩き出す涼夏の手を引き、羽澄は言った。
「そのままでいい。……似合ってるよ」
その声にはじかれたように羽澄を見る。
「ほんと……?」
少し上目づかいに訊いてくるその姿は、いつもの堂々とした立ち振る舞いからは考えられず、その様子がまた、可愛いな、と思った。
「おう」
羽澄のその返事に安心したように涼夏は微笑み、頬を赤くする。
そんな表情を見ていると自分まで照れてきそうだったので、羽澄はごまかすように
「ほら、行くぞ」
と早口に言った。
「うん」
そのときにはさきほどまでの不安はすっかり忘れていた。
遊園地につき、ふたりは目一杯遊んだ。
羽澄はいつものように涼夏の話を聞き、アトラクションに乗り、園内で販売しているアイスを食べ歩き、と一通り“デート”は果たせたと思う。けれど、二人は手を繋いだりなどはしていないので、傍から見たら友達同士に見えなくもない。
そして陽は段々と傾き、真っ赤な夕日が園内に差し込み始めた。生ぬるい風は相変わらず気持ちが悪いが、気温はだいぶ低くなってきた。
園内にある時計を見上げると、午後六時だった。
ここから来た時に待ち合わせた自宅の最寄駅までは一時間ほどかかる。そんなに遅くなるわけにもいかないので、そろそろ切り上げるべきだろう。しかし、まだ肝心の話をしていない。
今日一日の楽しかった思い出をぶち壊すのは惜しい気がしたが、言うことは言わなければならない。
「なあ。最後にあれに乗らないか?」
二人きりになってちゃんと話が出来る場所として、羽澄が選んだのは観覧車だった。
「いいよ」
なにも知らない涼夏は笑顔でそう答えてくれた。
夕方と夜の境目の時間。夏なのでまだ明るいが、園内は徐々にライトアップされ始めている。きっと上からの眺めはいいだろう。
全員がそう考えたわけではないと思うが、観覧車にはけっこうな人が並んでいる。列にはやはりというか、カップル客が多かった。数十分程度並んだところで、二人の番が来た。
係員に連れられて、ゴンドラの一つに向い合わせで乗る。外から施錠がされると、あっという間にそこは二人の空間になった。
「……」
「……」
最初は何故か沈黙が続いてしまった。
それから数分したところで、涼夏が口を開いた。
「今日たのしかったね」
涼夏の方を見ると、きれいな笑みを携えてこっちを見ていた。
二人を乗せたゴンドラはすでに四分の一ぐらい進んでいる。
「……話がある」
「なに?」
羽澄が緊張を湛えて返事をすると、涼夏はゆっくりとこちらを向いた。
「……恋人……今日で終わろう」
涼夏はそんな言葉は予想していなかったかのように、大きく目を見開いた。
「どうして!? たのしくなかった?」
身を乗り出すようにして迫ってくる。涼夏が羽澄の方に寄ってきたため、ゴンドラが揺れる。
「いや、この一か月たのしかったよ。今日だって一緒にいられてよかった」
「ならなんでよ……」
目の前まで迫った涼夏の顔は悲痛に歪んでいる。目に涙が溜まっていき、今にも零れてしまいそうだ。
「たのしかったのは本当だ。けど、それと恋人をこれからも続けていくっていうのは違う。俺に友達って言えるやつは一人しかいない。それなのにいきなり恋人なんて、正直よくわかんないんだ……」
羽澄は涼夏の顔を見ていられず、顔を俯けた。
一か月の思い出がよぎり、羽澄をよりつらく痛くさせた。
吐き出したのは本音だった。
人との距離感がわからない。どうやって関わっていけばいいのかわからない。そして、いろんなことに自信がない。けれどこのままではいけないこともわかっている。
自らトラウマを克服しないことには、この先もずっとこのまま槙人に頼りきりになってしまう。
もう一度人を信じたいけれど、同じくらい恐怖が付きまとう。
「あたしもそんなのよくわかんないよ。あたしだってそんなに友達多い方じゃないし、恋人だって羽澄が初めてだもん」
そんなはずはない、と羽澄は決めつけてしまった。
何度も言うが、涼夏は校内一と噂されるくらいの美少女だ。憧れているやつだって、友達になりたいやつだって大勢いるだろう。恋人のほうは本当だとしても、友達が少ないわけはなかった。
「なんか勘違いしてるみたいだけど……。みんなね、実際はそんなに話かけてくれないんだよ。自分でいうものなんだけど、特別扱いっていうか……腫れ物に触る感じで、やさしく丁寧に接してくれるだけだもん。友達は本当に少ないよ」
そこで羽澄は思い至った。
――憧れと友情は違うんだ……。
顔を上げて涼夏を見る。彼女は寂しそうに眉を下げて無理矢理笑っていた。
「中学の時もずっとあんな風な扱いだったから……。だから、あたしも人との距離感ってよくわかんない」
羽澄はかつて直接いじめを受けた。一見みんなにちやほやされて充実した生活を送っているように見える、涼夏とは真逆だと思っていた。涼夏のような人気者には、いじめを受けていた者の気持ちなどわかるはずもない、と決めつけていた。
けれど、もう一度思い返してみる。いつも歓声を送るだけで、涼夏に話しかけようともしなかった生徒たちを。涼夏のために道を開けていた生徒たちを。
涼夏は憧れられてしまっているが故に、深く接してくれる人がいない。涼夏もまた孤独によって傷ついている人間のうちの一人だった。。
生徒たちの涼夏に対する生徒たちの態度も、間接的ないじめなのではないか。だから同じなのかもしれない。同じでなくとも、似たような傷を背負っているのかもしれない。
そう思うと、心の傷がほんの少しだけ、癒された気がした。
「あたし羽澄に出会えて変われた気がするの。前よりも明るくなったってこの前、仲のいい友達に言われたんだ。自分でもそう思ってる……。それって羽澄のおかげだよ。あたしはもっと変わりたい。羽澄といれば、変われる気がする」
さっきまでの哀しそうな表情はすっかりどこかに行ってしまっていた。左目だけで見る、涼夏の顔は眩しいくらいの自信と感謝に満ちていた。
彼女の目はまっすぐに羽澄に向かっている。
「あたしのこと好きになれないっていうのならそれは仕方ないと思う。でも、もし少しでもあたしのこと気に入ってくれてるなら、これからも一緒にいたいな……」
最後の方は弱々しかったが、確かに涼夏の気持ちは伝わってきた。
今度は、羽澄がしっかり伝えなくてはならない。
「……一か月間ありがとな。本当にたのしかったし、家族や親友の――槙人ってやつなんだけど、それ以外の人と久しぶりに楽しい時間を過ごせたと思う」
そこで一度、言葉を切る。
羽澄の胸にいままで溜まっていた、不安も恐怖も、すべてが晴れていくような気がした。
「俺も変わりたい。こんな俺でいいなら、これからも関わってほしい。自分のこともお前のことも好きになれるように、いっぱいいいところ見つけていく。もっといろんな話をしたい」
涼夏は呆気にとられたように羽澄の話を聞いていた。
それでも段々とやさしい表情に変わっていき、
「あたしのこともっと知って!」
と今にも羽澄に抱きつかんばかりの勢いで迫り叫んだ。
「……もっと知りたい……涼夏のこと」
その言葉を聞いた途端、涼夏はいままで以上に華やいだとびきりの笑顔で、
「やっとあたしの名前、呼んでくれた」
とついに抱きついてきた。
「お、おいっ! 離れろって!!」
羽澄は慌て、涼夏を引きはがそうともがく。
それに合わせて、ゴンドラが危なげに揺れる。
「揺れてる揺れてる! 危ないだろ! 離れろって」
やっとのことで涼夏を引きはがし、向かいの席に座らせる。彼女はまだ、笑顔のままだった。
それを見て、羽澄も思わず照れたような笑みを浮かべる。
「そんなにうれしかったか?」
照れ隠しにそんなことを訊いてみる。
すると涼夏はなぜか怒ったような、拗ねたような顔をする。
「だっていままで一度も名前呼んでくれなかったんだもん!」
どうやら気にしていたらしい。かなり不満だったようだ。
羽澄は内心すこし焦り、ごめんごめん、と謝った。
「これからはちゃんと呼んでよね! じゃないと、羽澄のことも『ねえ』とか『おい』とかで呼ぶから」
すっかりいつもの調子を取り戻し、そんな風に脅してくる。
最後には口の両端を上げて、にやりとする。相変わらず、涼夏は忙しなく表情を変える。涼夏のわがままにももうすっかり慣れてしまった。
……多分、いい意味で。
「わかったよ。……涼夏」
自分の名前が呼ばれたことに、とても幸せそうに笑う涼夏。頬はほんのりと赤く染まっている。
羽澄はその顔をもっと見ていたいな、と素直に思っていた。