迷子のチェックイン
東京都心の喧騒の中に、ひっそりと、けれど堂々とそびえ立つホテル・メイオウ東京。
そこには、まるで魔法使いのようなフロントクラークがいました。名前は、井田晴香。彼女が一度背筋を伸ばして微笑めば、どんなに疲れ果てた旅人も、まるでおとぎ話の主人公になったような心地になるのでした。
ある冬の夕暮れ、ロビーに一人の小さな男の子がやってきました。男の子は大きなダッフルコートを着て、抱えきれないほど大きな古びた百科事典を一冊、大切そうに抱えていました。
「いらっしゃいませ。ホテル・メイオウ東京へようこそ」
晴香は、少年の目の高さに合わせて膝をつきました。少年は少し震える声で言いました。
「あの、ここに『明日の思い出』を予約したいんです」
予約サイトにも、分厚い宿泊台帳にも、そんなプランはありません。けれど晴香は、瞬き一つせずに答えました。
「かしこまりました。お客様、左様なお部屋は一室だけ空きがございます。ですが、そのお部屋に泊まるには、ある特別な鍵が必要なのです」
晴香はカウンターの奥から、何もついていない、けれど磨き上げられた銀色の鍵を取り出しました。
「この鍵は、心にある『一番大切な忘れ物』を思い出した時にだけ、扉を開けることができます。お客様が抱えているその大きな本に、ヒントがあるのかもしれませんね」
少年は驚いた顔をして、百科事典を開きました。それは、亡くなったおじいさんの形見でした。中には、かつてこのホテルで家族と過ごした時の写真や、古いコースターが栞代わりに挟まっていました。少年は、仕事で忙しく笑わなくなったお父さんに、あの頃の楽しかった時間を思い出してほしくて、一人でここへ来たのでした。
晴香は少年の意図をすべて汲み取り、流れるような手捌きで電話を回しました。キッチンには、おじいさんが愛した特製のホットチョコレートを。ベルボーイには、お父さんが昔大好きだった中庭の見える部屋の準備を。
数時間後、血相を変えて駆け込んできた父親を、晴香は穏やかな、けれど有無を言わせぬ優雅さで制しました。
「お客様、お連れ様はあちらで、大切な『続き』をお待ちです」
案内された部屋の扉を開けると、そこにはキャンドルの灯りと、懐かしい香りの飲み物。そして、百科事典を広げて眠ってしまった息子がいました。
翌朝、チェックアウトの際、父親の顔からは昨日の険しさが消えていました。晴香はフロントで、昨日と同じように凛とした姿で立っていました。
「不思議ですね。ここに来ると、失くしたと思っていたものが、すぐそばにあったことに気づかされました」
晴香は深く、優雅にお辞儀をしました。
「それは、お客様がご自身で見つけられたものです。私共はただ、その扉の埃を払ったに過ぎません」
親子が去った後のロビーには、朝日が差し込み、磨き上げられた大理石がキラキラと輝いていました。
井田晴香は、手元に残された銀色の鍵をそっと仕舞いました。その鍵は、次に「心の忘れ物」を探しに来る誰かのために、いつもピカピカに磨かれているのでした。




