初めましての
布団から出られない。恐る恐る掛け布団から指先を出したとき、世紀末かと思った。まるで私以外の生き物がみんな死んでしまったかのように冷たい空気があったのだ。でも、部屋の外からは家族の生活音が聞こえてくるからそんなことはない。それはそうと本当に起きられない。目は覚めてるどころか冴えている。ただただ出られない。このまま春まで寝通してやるとすら思う。
私は外界の冷気から逃げたまま、スマホをいじる。ちょうど通知が来て、アスミのストーリーには狂い咲きの桜が映されていた。そう、つい先週までは暖かかった。柔らかにそよぐ風が春一番だと、みんなで話した。なのに。いや、だから。だからこその今日だ。風邪を引いてしまいそう。
そうやってうだうだ文句を垂れていると、端末が震えた。
<駅のパン屋行かない?>
アスミから、お誘いのメッセージ。
こんなに寒いのに……どうにかして断りたい。
<ごめん、自転車パンクしてて>
風邪を引いたとでも言おうと思ったが、アスミはきっと私を心配してくれる。それは流石の私も心が痛いというものだ。
<じゃ、歩いていこう>
……あー、ミステイク。
<行けるなら一緒に行こうよ、2時にパンが焼き上がるんだってさ>
焼きたてのパン。焼きたて、焼きたての。
断り文句を考える余裕もない。だって、今日はまだ何も口にしていない。
焼きたての、パン。
<わかった、行こう>
食べたい。焼きたてのパン。
一念発起、掛け布団を蹴り上げて身支度に取り掛かった。ヒートテックに長袖、ダウン、裏起毛パンツと裏起毛靴下。履き慣れたスニーカーと、マフラーに手袋。イヤーマフは……いいや。スマホと財布を持って飛び出した。やっぱり寒い。生憎の曇天。道理で寒いわけだ。喉が凍てつきそうだし、自然と目に浮かぶ涙が瞼を過剰に冷却する。行くのやめようかななんて情けない気持ちも浮上したけれど、食べたい。焼きたてのパン。
駅まで500mのところで、アスミを見つけた。
あちらも私も見つけたようでこっちに駆け寄ってくる。
「今日は寒いね」
「うん」
見てみればアスミの首は真っ裸。ネックウォーマーもなければ上着の襟も及んでいない。必死に肩を上げて首を覆い隠そうとしている。見ているだけで身体中に鳥肌が立った。
「これ掛けなよ」
そう言って私はマフラーをアスミに掛ける。
「え、大丈夫だよ。ありがとね」
なんかイラッとした。今、温かい息を洩らした癖に。私のマフラーで息を整えた癖に。
「大丈夫な人はそうやって首を隠そうとしたりしないんだよ」
アスミの足が止まる。しまった、語気が強くなってしまったか。
「……確かにそうなのかも」
私が誤魔化すための話題を探している間に、そう言われた。
「うん、……そうだよ」
駅まであと300mもない。寒いけど、アスミの生首をそばに置くよりかは全然マシ。
駅に着き、構内のパン屋に入る。ガラスドアを隔てたそこは、異世界のように暖かかった。筋肉が弛緩していくのを感じる。じわりじわりと肉体の感覚が戻っていく。アスミもふぅと息を吐いて、穏やかな顔をした。作業場の方から、輝くパンがバスケットに載せられるのが見える。
「さ、選ぼうか。マフラーありがとうね」
そう言ってマフラーを私に掛け直して、トングとトレーを手にする。トングを軽くカチカチ鳴らした。
「なにそれ、威嚇?」
そう訊くと、まさかという顔をした後で
「言えてるかも。これから君たちは私に食べられるんだぞー!!ってね」
ニコニコしながら答えてくれた。寒さに耐えて来たのが報われた気がする。
さて、私も選ぼうか。
ざらめを被った季節限定のいちごパイ、岩塩輝くあんこ入りの塩パン、雪みたいな白パン、堂々とした佇まいのメロンパン、他にもたくさん。迷ってしまう。助けを求めるべくアスミのほうに目をやると、既に3つ載っていた。クロワッサンにあんぱん、きな粉ベーグル。それを見たら腹が決まった。
メロンパンとあんこ入り塩パン、さつまいもパイとグラタンパンだ。店員さんにお会計をしてもらう。150円、170円、200円、210円、合わせて730円。今日持ってきたのは700円で……しまった、30円足りない!?既に包装されてしまって今更やめますだなんて言えない。どうしよう……。
静かにパニックに陥っていると、先に会計を済ませたアスミが私の財布を覗く。何かを察したように10円玉3枚を追加した。
「帰りもマフラー貸してよね」
もちろんだとも。私の身のためにも。
アスミの協力を経て無事お会計は済んだ。
イートインスペースに2人向かい合うように座ってパンを食べる。焼きたてのパンはふかふかで美味しい。体の内側から温もりで満たされる。今日初めての食事がこれとは、寝籠りも悪くない。アスミは幸せそうな顔をしてあんぱんを頬張っている。口の端にあんこが付いてしまっているのを、果たして言うべきだろうか?迷っているうちにアスミが声を上げた。
「見て、晴れてきたよ」
「わ、ほんとだ」
すぐ側の大きな窓に光の筋ができる。その元を辿ろうとすると、何か見覚えのある景色。桜だ。
「ねぇ、もしかして、ストーリーのってこれ?」
「そうだよ。よく気づいたね」
「それって今日撮ったやつ?」
「う、うん。撮ってすぐ投稿した……どうしたの急に」
それなら。本当にそうなら。アスミは元々駅にいたってことになる。連絡が来たのはストーリーを見てから2分後、わざわざ私を呼んだ。わざわざ駅から離れて、今ちょうど来た雰囲気を演出したというのか。
「アスミ、どうして私のことを誘ってくれたのか教えて」
私はメロンパンを齧りながら言う。
アスミは飲み込んでから少し考えて、
「食べたかったからだよ、一緒に」
そして、少し悲しそうな顔をして、
「嫌なら断ってくれて良かったのに」
そういじけた。
「嫌じゃないよ」
口をついて出た。確かに寒かったけど、嫌なわけじゃない。むしろ、誘い出してくれて嬉しい。
「誘ってくれなきゃ私、ずっと布団の中だったかも。美味しいパンも食べれて幸せだよ」
「なに、お世辞?」
「違うって」
「ふふ」
何故こうもいじけた彼女は疑り深いのか……。
「ハルナ、食べ終わった?」
「うん、おなかいっぱい。美味しかった」
2人で合掌をして、ゴミを捨てた。
外に出るとまだ寒い。それでも差した日光は暖かく、今の私には暑いくらい。そうだ、マフラー。思い出してアスミに掛ける。
「代金負担してくれて助かったよ。後で何か奢る」
「ううん、気にしないで」
それは私が気になってしまう。借りはちゃんと返したい性分だ。迷いがちな私の、貴重な指針であるというのに。しどろもどろになった私を少し笑って、
「じゃあさ、手繋いでよ」
え?
「来た時よりはマシだけど、まだ寒いや。手がかじかんじゃうよ」
両手を擦って温める様を表しながら私に擦り寄る。
「いいの?そんなので」
「いいの。それがいいの」
私は彼女の左手を掬って、自分の右手に繋いだ。且つ、それをダウンのポケットに仕舞う。
「この方が暖かいでしょ」
左手の手袋をアスミに差し出して着けさせる。
「……ほんとだね。暖かいね」
おなかいっぱいの体で家路を辿る。お日様が私たちを照らしてくれているのも、狂い咲きの桜の居場所でさえも、家の中からじゃ分からなかった。焼きたてのパンの味だって、今日が始めてで。
「アスミ、誘ってくれてありがとう」
「私も、ハルナと来れてよかった。また2人で来ようね」
「うん。次も誘ってくれる?」
「もちろん!」
寝籠りが悪いと思い直したわけじゃない。ただ、アスミと一緒にいるのはそんなのよりずうっと価値のあるものだと気づいただけだ。
「あ、口の端にあんこついてる」
「えぇっ!?」
「拭ってあげようか」
彼女からの誘いなら、どんな気温にも適う心意気で外界に出られる。




