27話 不安と安心 (蒼真)
教育実習の事前指導は、思っていたよりずっと大変だった。
配布された資料の厚さにまず圧倒される。
黒板の前で教授が淡々と説明を続けている。
日誌の書き方、指導案の形式、評価基準――。
「実習は見学ではありません。現場の一員として扱われます」
教室の空気が、少しだけ重くなった。
両隣に座っている、彩花ちゃんと奏汰が小さくため息をつく。
資料をめくりながら、胸の奥がじわっと落ち着かなくなるのを感じていた。
実習、ちゃんとできるだろうか。
子どもと関わる責任を、本当に背負えるのか。
――絶対教師になるって決めたのに。
今回は、なぜかやけに不安が大きくなった。
「本日、事前指導の補助として来てくれた大学院生を紹介します」
教授の声で、オレを含め数名が顔を上げる。
教室の後ろの扉が静かに開いた。
入ってきた人を見た瞬間、教室の空気が少し変わった気がした。
ただ――目を引いた。
安心感がある柔らかい微笑み。背筋の伸びた品格がある姿勢。
長い黒髪がミステリアスで、落ち着いた雰囲気の人だった。
「TAの夜風 眞白です。分からないことや質問があれば、気軽に声をかけてくださいね」
穏やかな声だった。
無理に飾っていない、堅苦しくもない。聞いていて安心する声。
教室のあちこちから小さなざわめきが起きる。
隣に座っている彩花ちゃんが、指でトントンと机を小さく叩いてひそひそと言う。
「ねえ、蒼真くん。あの人、すごい素敵……じゃない……?」
オレは苦笑しながらも、その人から目が離せなかった。
教育実習の事前指導はまだまだ続いた。
実習中に想定されるトラブル例。
授業進行の崩れ。子どもの突発的な行動。
現実的な話が増えるほど、胸がざわついた。
教授が「質問はありますか」と言った。
気づけば、手を挙げていた。
「……はい、泉水くん」
教授に名前を呼ばれて、少しだけ緊張する。
「もし……実習で、失敗してしまったら……どうなりますか」
言ったあと、自分でも曖昧な質問だと思った。
失敗って何だろう。どこまでが成功で、どこからが失敗なんだろう。
教授は理路整然と答える。
「評価項目に基づいて指導が入ります」
夜風さんがこちらを見て口を開く。
「失敗は――絶対にしますよ。全員」
視線が合う。やわらかいけれど、まっすぐな目。
教室が少しざわつく。
「実習はできるかどうかを試す場所じゃなくて、どう向き合うかを学ぶ場所だと思っています。私もたくさん失敗しました」
少しだけ微笑む。
「もし不安に思っているなら、それは普通です。ちゃんと向き合おうとしてる証拠だから。心配なことがあれば、私でも教授でも良いので聞いてみてくださいね」
「ありがとうございます」
――胸の奥の何かが、少しほどけた。
言葉が、まっすぐ入ってくる。理屈じゃなく、経験から話してる声だった。
***
事前指導が終わり、学生たちが教室を出ていく。
自分も立ち上がろうとした時――。
「泉水くん……でしたっけ」
その声に振り向くと、夜風さんが立っていた。
「さっきの質問、少し気になって」
「え?」
「まだ心配なこと、たくさんありますよね」
言い当てられて、言葉が出ない。
「もしよかったら、資料の補足を少し説明しましょうか。もしよければ、皆さんも一緒に」
自然で優しい口調だった。
両隣にいる彩花ちゃんと奏汰が「お願いします!」と元気よく答える。
「……お願いします」
オレも気づいたらそう答えていた。
教室の隅の机を囲んで座る。
夜風さんは資料を開きながら、実習中の具体的な場面を丁寧に説明してくれたり、質問に対して親身になって答えてくれた。
指導案の修正例。子どもが集中しない時の対応。教師との連携。
話を聞く前は不安だったのに――不思議と怖くなくなった。
夜風さんは話している内に口調が柔らかくなっていき、さらに親しみやすい雰囲気になっていった。
オレも含め、みんな「眞白さん、眞白さん!」と何度も質問をした。
メモをとっている時に、眞白さんが言った。
「みんな、教師になることを真剣に考えてますね。質問の仕方で分かります」
思わず顔を上げた。
一瞬で胸が熱くなった。
真剣に考えているなんて、初めて言われたから。
「そういう人は、ちゃんと教師に向いてる。その調子で頑張ってくださいね」
胸がいっぱいで言葉が出なかった。ただ聞くことしかできない。
眞白さんは資料を閉じながら、穏やかに笑った。
「何かあったら、いつでも聞いてね」
オレたち三人と眞白さんは連絡先を交換した。
奏汰も彩花ちゃんも、眞白さんの完璧さの虜になっていた。
「あんな女神がこの大学に居たのかよ……」
「あぁ……眞白さま、ほんと優しい。たくさん質問しちゃったなぁ……」
……正直、オレも同感だった。
「なんか……すごい人だよね。丁寧にわかりやすく教えてくれて。実習、不安だったけど、だいぶ気持ち晴れたかも」
そう言うと、彩花ちゃんが輝いた目で、勢いよくこちらに向いた。
「ね! しかも女神のような美しさ! なのに親しみやすくて〜」
さっき、「向いてる」って言われたことが思った以上に嬉しかった。
――ちゃんと見てもらえた気がした。
――分かってもらえた気がした。
胸の奥に、静かな熱が残っていた。
あんなふうに、誰かを安心させられる人になりたいな……。
オレも誰かの支えになれるのかな。
***
あれから、眞白さんにメッセージで質問をしたり、実習について直接聞きに院生室へ行くようになった。
今日の質問が一通り終わったあと、眞白さんが言った。
「……泉水くんって、子どものことをよく考えてるね」
「え?」
「さっきの質問、本当に子どもたちのことを考えてる人しか出てこないと思う」
眞白さんと目が合う。
「そういう人は、いい教師になれると思うよ。向いてるから、心配しないで」
――向いてる。
その一言で、胸が高鳴った。
ほんとに向いてる?
オレが?
ずっと、足りない気がしてたのに。
母さんには何度も言われてきた。
「覚悟あるの?」って。
自分は、ちゃんとしてないんじゃないかって。
頑張ってるつもりなんじゃないかって。
ずっと不安だったから。
「……本当、ですか?」
気づけば、情けない声が出ていた。
「本当だよ」
迷いのない声。やわらかい微笑み。
眞白さんは続けた。
「向いてない人はそもそも不安にならないし、こんなに真剣に質問しないよ?」
胸の奥がじんわり熱くなる。
その言葉で、何かがほどけた。
……ああ。オレ、ちゃんとしてるのかもしれない。
頑張ってるつもり、じゃないのかもしれない。
目の奥が少し熱くなるのを、必死で堪える。
「ありがとうございます……」
声が震えないようにするので精一杯だった。
眞白さんは穏やかに微笑む。
「また聞きたいことがあれば、いつでも連絡して?」
院生室を出たあと、足取りが軽かった。
空気が違う、気がする。夕日が、少し眩しく見える。
――自分にもできるかもしれない。
その思いが、胸いっぱいに広がる。
歩きながら見上げた空は、やけに広く見えた。




