21話 漣に会いたい(蒼真)
年末が近くなってきたある日。
バイトから帰宅して家の前に立った瞬間、足が止まった。胸の奥が、じわりと冷える。
漏れ聞こえる声で外からでも分かった。珍しく――父さんが帰ってきている。
――大丈夫、何も起きない日だってある。
息を止めて、ゆっくり鍵を回す。
靴を脱ぐ音を立てないように、つま先からそっと足を上げた。
リビングのドアの隙間から、すでに酒に酔ってる様子が見えた。
廊下まで酒の匂いが流れてきた。
今日も、だめか。
この男とオレ(泉水 蒼真)は、血が繋がっていない。
中学一年の時に両親が離婚して、母さんと再婚した男だ。
関わらないように自室へ――そう思った、その時。
母さんの怒声が聞こえた。口論になっている。
酒に酔った人間は力加減を知らない。母さんがどうなるかは、想像に難くない。
……面倒だけど止めなきゃ。
息を吸って、二人の間に入る。
「ふたりとも落ち着いて……!」
――次の瞬間。
視界が揺れた。
衝撃が遅れて届く。
右の頬に、じわじわと鈍い痛み。
理解するより先に、口の中に鉄の味が広がった。
「痛……」
口の中が切れたみたいだ。
「×△※〇×!!!」
男の怒鳴り声が頭の上から降ってくる。
何を言っているかは分からない。言葉として、入ってこない。
しばらくして男は、気が済んだのか部屋から出て行った。
それまでオレから目を逸らしていた母さんが、ようやく口を開く。
「蒼くん、あなたが出てくると余計ややこしくなるの!」
……あ、そうなんだ。
なんか悪いことしたな。
母さんは――悪くない。
母さんは大変だから。
そう思わないと、立っていられない。
***
夕食後。台所で食器を洗っていた時。
食卓に座っていた母さんが言った。
「蒼くん、最近大学はどうなの?」
いつも通り笑って返す。
「頑張ってるよ~! そういやこの前、実習でさ~…… 」
楽しかったこと、嬉しかったこと。明るい話だけを並べた。
返ってきた言葉は――。
「教育の仕事ってね、楽しいだけじゃできないのよ」
「まあ、そう……だね」
「頑張ってる“つもり”が一番危ないの。子どもの人生を預かるんだから、本気でやらないと」
少し間があって。
「……ちゃんと覚悟、あるの? もう採用試験まで一年もないでしょう?」
母さんに悪気はない。母さん自身も小学校の教師をしていたから。
分かってる。分かってるのに――。
「ちゃんとしてない」「軽い」って言われた気がして、地味に刺さった。
オレが何も言えず黙っていると、母さんはそれ以上は何も言わなかった。
水道の音だけが、響いていた。
***
部屋に入ってドアを閉める。カーテンも閉める。
それでも、なんだか落ち着かない。
ベッドに腰を下ろして、スマホを見つめた。溜まった通知。今は見る気になれない。
「俺って、ちゃんとしてないのかな。ちゃんとしてるつもり、なだけかもな」
誰かが廊下を歩く足音が聞こえた。
過去の記憶がフラッシュバックする。
あの男が突然部屋に入ってきてオレを殴った夜。今日みたいに酒に酔っていた夜。――それも一度ではなかった。
ひどいアルコール臭を、今でも鮮明に覚えている。
ドアノブが回る音が、聞こえた気がした。
動悸が早くなる。
……怖い。怖い。来ないで。怖い。
たすけて。誰か、たすけて。
そのとき、ふと浮かんだ 漣の顔。
少し迷って、短くメッセージを送る。
『今日、家きついかも』
ぼーっと画面を見ていたら、すぐに既読がついた。
数秒後、メッセージが届く。
『来る?』
それだけ。理由を詮索しない。
『行く』
それだけ返して、家を出た。
電車に飛び乗って向かう。五駅先。
***
――漣の家。
玄関を閉めた瞬間、音が消えた。
誰かの足音もない。怒鳴り声もない。静かで、落ち着く空間。
ふたりでソファに座って、漣はいつも通りスケッチブックに絵を描いてる。
オレは何もせず、膝を抱えてぼーっとした。
深く息を吐く。
いつもの調子を出そうとするけど、今日は無理だった。
「……オレさ、家でもどこでもずっと『元気な役』やってる気する」
漣は手を止めて、こっちを見る。黙って聞いてくれる。
無理に励まさない。余計なアドバイスもしない。ただただ聞いてくれる。
「別にイヤなわけじゃないんだけどさ……たまに、疲れる」
言い終わった瞬間、声が少し震えた。
目を伏せると涙が一粒、ぽろっと落ちる。慌てて笑う。
「やば、俺泣いてんじゃん。はずかし」
少し間をおいて、漣が小さく言う。
「……無理、しなくていい」
その言葉で一気に涙が溢れた。
今日家であったことを、勢いで全部打ち明けてしまった。
殴られたこと。母さんの小言。部屋に戻っても足音が怖くて――耐えられなくなって漣にメッセージしたこと。
「全部オレが悪いのかな……?! 自分なりに頑張ってるつもりだけど、ちゃんとできてないのかな……」
感情的に誰かに愚痴るのは、久しぶりだった。
「俺は……蒼真が頑張ってるの知ってる」
そう言ってくれた漣の目が、潤んでいるように見えた。
喉が熱くなる。また涙が止まらなくなった。
漣は冷たいタオルをくれて、頬を冷やしてくれた。
ブランケットをかけて寄り添ってくれた。背中をくっつけていてくれるだけで、落ち着く。
「いつまででも居ていいから」
その言葉に救われる。
弱いとこを見せられる友達、漣だけだな。
母さんが心配だったから終電前には帰ったけど、本当はずっと居たかった。
***
――次の日、大学。
朝の教室。いつも通り、笑顔で明るく。
「おはよー!」
奏汰たちに挨拶する。
「おはよ。……蒼真ってさー、ほんっと悩みなさそうだよな~」
「あるある! 寝不足とか!」
笑いが起きる。
でも、みんなの笑い声が遠い。ガラス越しみたいだ。
誰も、昨日の夜にオレが泣いてたなんて思わない。
時々、無意識に漣を探す。
漣が教育棟に居るわけないのに――。
……今日、漣来てるかな。
***
――昼、学食。
トレーを持ったまま見渡す。――いた。
食事中の漣をみつけて駆け寄る。
重くならないように。あくまでいつものノリ。
「れんー! 昨日ありがとな」
漣は一瞬だけ、オレを見る。
「……うん」
それだけ。でも冷たいとかじゃないって分かってる。
それが漣なりの距離感。
漣の隣に座る。
「ちょっと見て、この動画! おもしろいから!」
何か話していないと落ち着かなくて、たくさん喋った。
話を聞いてくれるだけで、救われた。
***
夜、ベッドでスマホを見る。
昨日の漣とのメッセージ履歴。
『来る?』
それをぼーっと見ていたら、漣からメッセージが届いた。
『今日は大丈夫そう?』
「うん!」のスタンプを送る。
漣からのメッセージを見て、少しだけ目が潤む。
オレの居場所は、ちゃんとあるんだって思えた。




