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隣の景色  作者: のゆ
22/26

21話 漣に会いたい(蒼真)

 年末が近くなってきたある日。


 バイトから帰宅して家の前に立った瞬間、足が止まった。胸の奥が、じわりと冷える。

 漏れ聞こえる声で外からでも分かった。珍しく――父さんが帰ってきている。


 ――大丈夫、何も起きない日だってある。

 

 息を止めて、ゆっくり鍵を回す。

 靴を脱ぐ音を立てないように、つま先からそっと足を上げた。

 

 リビングのドアの隙間から、すでに酒に酔ってる様子が見えた。

 廊下まで酒の匂いが流れてきた。

 今日も、だめか。

 

 この男とオレ(泉水 蒼真(いずみ そうま))は、血が繋がっていない。

 中学一年の時に両親が離婚して、母さんと再婚した男だ。


 関わらないように自室へ――そう思った、その時。

 

 母さんの怒声が聞こえた。口論になっている。

 酒に酔った人間は力加減を知らない。母さんがどうなるかは、想像に難くない。

 

 ……面倒だけど止めなきゃ。

 

 息を吸って、二人の間に入る。

 

「ふたりとも落ち着いて……!」

 

 ――次の瞬間。

 

 視界が揺れた。

 衝撃が遅れて届く。

 

 右の頬に、じわじわと鈍い痛み。

 理解するより先に、口の中に鉄の味が広がった。

 

「痛……」

 

 口の中が切れたみたいだ。

 

「×△※〇×!!!」

 

 男の怒鳴り声が頭の上から降ってくる。

 何を言っているかは分からない。言葉として、入ってこない。

 

 しばらくして男は、気が済んだのか部屋から出て行った。

 それまでオレから目を逸らしていた母さんが、ようやく口を開く。

 

(そう)くん、あなたが出てくると余計ややこしくなるの!」

 

 ……あ、そうなんだ。

 なんか悪いことしたな。

 

 母さんは――悪くない。

 母さんは大変だから。

 

 そう思わないと、立っていられない。

 

 ***

 

 夕食後。台所で食器を洗っていた時。

 

 食卓に座っていた母さんが言った。

 

「蒼くん、最近大学はどうなの?」

 

 いつも通り笑って返す。

 

「頑張ってるよ~! そういやこの前、実習でさ~…… 」

 

 楽しかったこと、嬉しかったこと。明るい話だけを並べた。

 返ってきた言葉は――。


「教育の仕事ってね、楽しいだけじゃできないのよ」


「まあ、そう……だね」

 

「頑張ってる“つもり”が一番危ないの。子どもの人生を預かるんだから、本気でやらないと」

 

 少し間があって。

 

「……ちゃんと覚悟、あるの? もう採用試験まで一年もないでしょう?」

 

 母さんに悪気はない。母さん自身も小学校の教師をしていたから。

 分かってる。分かってるのに――。

 

「ちゃんとしてない」「軽い」って言われた気がして、地味に刺さった。


 オレが何も言えず黙っていると、母さんはそれ以上は何も言わなかった。

 水道の音だけが、響いていた。


 ***


 部屋に入ってドアを閉める。カーテンも閉める。

 それでも、なんだか落ち着かない。

 

 ベッドに腰を下ろして、スマホを見つめた。溜まった通知。今は見る気になれない。


「俺って、ちゃんとしてないのかな。ちゃんとしてるつもり、なだけかもな」


 誰かが廊下を歩く足音が聞こえた。

 

 過去の記憶がフラッシュバックする。

 あの男が突然部屋に入ってきてオレを殴った夜。今日みたいに酒に酔っていた夜。――それも一度ではなかった。

 ひどいアルコール臭を、今でも鮮明に覚えている。

 

 ドアノブが回る音が、聞こえた気がした。

 動悸が早くなる。

 

 ……怖い。怖い。来ないで。怖い。

 たすけて。誰か、たすけて。

 

 そのとき、ふと浮かんだ (れん)の顔。

 

 少し迷って、短くメッセージを送る。

 

 『今日、家きついかも』


 ぼーっと画面を見ていたら、すぐに既読がついた。

 数秒後、メッセージが届く。

 

 『来る?』

 

 それだけ。理由を詮索しない。

 

 『行く』

 

 それだけ返して、家を出た。

 電車に飛び乗って向かう。五駅先。


 ***


 ――漣の家。

 

 玄関を閉めた瞬間、音が消えた。

 誰かの足音もない。怒鳴り声もない。静かで、落ち着く空間。


 ふたりでソファに座って、漣はいつも通りスケッチブックに絵を描いてる。

 オレは何もせず、膝を抱えてぼーっとした。


 深く息を吐く。

 いつもの調子を出そうとするけど、今日は無理だった。


「……オレさ、家でもどこでもずっと『元気な役』やってる気する」

 

 漣は手を止めて、こっちを見る。黙って聞いてくれる。

 無理に励まさない。余計なアドバイスもしない。ただただ聞いてくれる。


「別にイヤなわけじゃないんだけどさ……たまに、疲れる」

 

 言い終わった瞬間、声が少し震えた。

 目を伏せると涙が一粒、ぽろっと落ちる。慌てて笑う。


「やば、俺泣いてんじゃん。はずかし」

 

 少し間をおいて、漣が小さく言う。


「……無理、しなくていい」

 

 その言葉で一気に涙が溢れた。


 今日家であったことを、勢いで全部打ち明けてしまった。

 殴られたこと。母さんの小言。部屋に戻っても足音が怖くて――耐えられなくなって漣にメッセージしたこと。

 

「全部オレが悪いのかな……?! 自分なりに頑張ってるつもりだけど、ちゃんとできてないのかな……」

 

 感情的に誰かに愚痴るのは、久しぶりだった。


「俺は……蒼真が頑張ってるの知ってる」

 

 そう言ってくれた漣の目が、潤んでいるように見えた。

 喉が熱くなる。また涙が止まらなくなった。


 漣は冷たいタオルをくれて、頬を冷やしてくれた。

 ブランケットをかけて寄り添ってくれた。背中をくっつけていてくれるだけで、落ち着く。

 

 「いつまででも居ていいから」


 その言葉に救われる。

 弱いとこを見せられる友達、漣だけだな。

 

 母さんが心配だったから終電前には帰ったけど、本当はずっと居たかった。


 ***

 

 ――次の日、大学。


 朝の教室。いつも通り、笑顔で明るく。

 

「おはよー!」


 奏汰(かなた)たちに挨拶する。


「おはよ。……蒼真ってさー、ほんっと悩みなさそうだよな~」

「あるある! 寝不足とか!」

 

 笑いが起きる。

 でも、みんなの笑い声が遠い。ガラス越しみたいだ。


 誰も、昨日の夜にオレが泣いてたなんて思わない。

 

 時々、無意識に漣を探す。

 漣が教育棟に居るわけないのに――。

 

 ……今日、漣来てるかな。


 ***


 ――昼、学食。


 トレーを持ったまま見渡す。――いた。

 

 食事中の漣をみつけて駆け寄る。

 重くならないように。あくまでいつものノリ。

 

「れんー! 昨日ありがとな」


 漣は一瞬だけ、オレを見る。

「……うん」

 それだけ。でも冷たいとかじゃないって分かってる。

 それが漣なりの距離感。


 漣の隣に座る。

 

「ちょっと見て、この動画! おもしろいから!」

 

 何か話していないと落ち着かなくて、たくさん喋った。

 話を聞いてくれるだけで、救われた。


 ***

 

 夜、ベッドでスマホを見る。

 昨日の漣とのメッセージ履歴。

 

 『来る?』


 それをぼーっと見ていたら、漣からメッセージが届いた。

 

 『今日は大丈夫そう?』

 

「うん!」のスタンプを送る。

 

 漣からのメッセージを見て、少しだけ目が潤む。

 オレの居場所は、ちゃんとあるんだって思えた。

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