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旦那様、契約結婚が満了になったら恋愛結婚が始まるなんて聞いておりません

作者: 十帖

明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします!

 この二年、無事に契約結婚を務めあげられて安堵している。妻という役割を素晴らしく果たせたかというと疑問だけれど、契約相手である夫が顔をしかめるような失敗は一つもなかったはずだ。


 だから。そう、だから。


「旦那様、いえ、ユリウス様。離婚届にサインをお願いします」


 公爵家の談話室。革張りのソファでゆったりとくつろぐ旦那様―――ユリウス・ノーガー公爵に離婚届を差しだしたら、二つ返事でサインをしてくれると思っていた。


「ルナ、これは……」


「契約結婚の期間は二年でしたよね? 昨日で無事満了を迎えたので、離婚届を用意しました」


 私ことルナリア・トリスタンを『ルナ』と愛称で呼ぶユリウス様に、できるだけ心地よく聞こえるよう声色を意識して伝える。だって何故か、マホガニーの磨きあげられたローテーブルの上に離婚届を広げた瞬間、彼の眉間には深いしわが刻まれたから。


(もったいないわ……神が特別贔屓してお作りになったような美貌なのに)


 シャンデリアの明かりを受けて煌めくユリウス様の黒髪は、絹糸のごとく滑らかだ。

 霜の花のような睫毛に縁どられた切れ長の桃花眼は、今はローテーブルの上に載せられた離婚届を凝視している。顔を伏せているので分かりづらいが、ルビーを彷彿とさせる瞳も、筋の通った高い鼻梁も、今はへの字に曲げられている薄い唇も、至高の芸術品のように美しい。


 契約を結んだ雇用関係とはいえ、とんでもない美男と夫婦だったのだな、と改めて思った。でもそれも、今日で終わりだ。


 ユリウス様の向かいのソファに腰かけていた私は、ペールブロンドの長髪を揺らしながら居住まいを正す。ユリウス様からよく「小動物みたいで可愛いね」と言われる顔に緊張を走らせて返事を待っていると、彼はおもむろに顔を上げた。作り物めいた笑顔を貼りつけて。


「そうか。期限は昨日までだったね」


「はい」


「じゃあ君の言う通り、契約結婚は終わりにしよう」


「! では、ここにサインを――――」


 前かがみになって、離婚届の夫の署名欄を指さす。しかしその手は私より一回り大きな手に取られ、ユリウス様の整った口元に運ばれてしまった。


「え? あ……」


「じゃあこれからは、恋愛結婚を始めようか。私の可愛いルナ」


 チュッと軽やかなリップ音が鳴って、指先に口付けられる。こちらに向かって微笑むユリウス様は、それはもう蕩けるほど甘い囁き声で、爆弾を投下したのだった。


「……はい?」


 以前ユリウス様からピンクサファイアのようだと褒められた目を瞬いて、私は間抜けな声を上げる。それから、この契約結婚が始まったきっかけを思い返すのだった。




 人生というゲームで、配られたカードがよくなかった。


 男爵家の令嬢として生まれたまではよかったけれど、見栄っ張りで酒乱の父親と浪費家の母親のお陰で家計は常に火の車。貴族とは名ばかりで、社交パーティーに出ることもなく酒場のウェイトレスとして踊るようにフロアを駆けまわり、生ぬるいエールを運んでは賃金を得ていた。


 アルバイトが一つだけでは膨らんだ借金を返せないので、ある時は花屋、ある時は薬局の受付、ある時は娼館で経理までこなす日々。


 お陰で手は荒れるし、睡眠は取れないし、とてもひどい肌艶だったと思う。


 とはいえ、自身の境遇にはウンザリしていたものの、アルバイトを通して様々な環境で暮らす人々と出会うことは楽しかった。稼いだお金が両親にむしり取られて手元に一銭も残らなくたって、貧しいなりに充実した日々を送っていたのだ。アルバイト先の酒場で提供される塩分の高いまかない料理と道端の野草があれば、食いつなげたし。


 けれど、それも父親の一言で崩れ去る。


『ルナリア。ダートン侯爵が六番目の妻としてお前を御所望だ』


 好色だと噂のダートン侯爵は、当時十八の私より三十も年上の中年男性だった。以前何かの折に新聞で目にしたかの方は、腹に贅肉をでっぷり貯めこんでいたが、懐には金もたっぷり持ち合わせていたようで。


『お前を嫁がせたら、この家に沢山の金を入れてくださるそうだ。しっかり奉仕するんだぞ』


 両親は金と引き換えに、女を玩具のように扱うと悪名高い侯爵の元へ……しかも自分たちより年上の男性の元へ娘を嫁がせる気なのだと察して、私は絶望した。


 そこから……どうしたっけ、ああ、そう。両親から最悪な言葉を告げられたあの日は酒場でのアルバイトの日だったから、遅刻するわけにもいかず、とりあえず勤務先に向かったのだ。


 勤務中はいつもみたいに笑えなくて、俯く回数とため息ばかりが増えてしまって。いよいよカウンターに涙が落ちそうになったところで、客として訪れていたユリウス様に声をかけられた。


 どうして公爵ともあろう方が平民の多く集う酒場にと思うかもしれないけれど、実は以前、路地裏で倒れていたユリウス様を介抱した縁で、彼は時折、私のアルバイト先に顔を出すようになってくれたのだ。


 ユリウス様は二十代半ばでありながら、皇帝陛下からの信頼が厚く『陛下の懐刀』と有名な方だった。表向きは数々の事業を手がけるやり手の紳士だけれど、裏では皇帝陛下の指示の下、悪を一掃している……なんて、本当か分からない噂もある、ちょっと危険でミステリアスな雰囲気を持つお方。


 でも私にはいつだって、ニコニコと優しく話しかけてくれる気のいいお客様だった。だからだろうか。元気がないね、と声をかけられて、つい自分の現状を語ってしまったのだ。


 嗚咽で詰まりながら話す私の背を摩りながら、ユリウス様は静かに最後まで聞いてくれた。


『――そう、それは辛かったね。君はダートン侯爵の元に嫁ぎたくないんだね?』


『もちろん嫌です! でも……働いて得たお金はすべて両親に取られているので、逃げるにも無一文じゃ……』


『じゃあ、こうしないか?』


 私の目尻に溜まった涙を長い指でそっと拭いつつ、ユリウス様は穏やかに持ちかけた。


『私と契約結婚しよう。ルナ』


『へ……』


 驚いて涙が引っこむ。吃驚した理由は、この時初めて愛称で呼ばれたからじゃない。とんでもない提案をされたからだ。


『ダートン侯爵が君の両親に支払う予定だった五倍のお金を用意するから、君は私の妻になってくれないかな』


『五倍って……。というか、ま、待ってください、契約結婚って?』


『実はこう見えて、私は不特定多数の女性に言い寄られていてね』


 こう見えてというか、見るからにおモテになりますよね。という突っこみを、私はギリギリ飲みこんだ。ユリウス様が酒場に通うようになってから、圧倒的に女性客の数が増えたからだ。今も多くの女性が、少し離れた席から、彼の一挙手一投足をうっとりした目で眺めている。


『好意を寄せられるのはありがたいが、新しく始める事業が軌道に乗るまで、私は恋愛をする気がないんだ。だから……そうだな、二年。君には私の妻の振りをしてほしい』


『私に契約妻として、女避けの役目を担ってほしいということですか……?』


『さすがルナ。話が早くて助かるね。二年後、離婚しても君が生活に困らないよう給金も支払うよ。それを元手に好きに生きてみるのもいいんじゃないか?』


『でもそれじゃ、私に都合がよすぎませんか? お給金なんていただけません……!』


『私の妻になるってことは、公爵夫人になるってことだからね。その期間さすがに今のようにアルバイトはさせられないんだ。パーティーや公的行事に付き合ってもらうことになると思うから、その対価と思ってもらえればいいよ』


『ですが……』


 渋る私に、ユリウス様は少し意地悪そうに小首を傾げて『それともやっぱり、両親に言われるがまま好色な侯爵に嫁ぐ方がいい?』と尋ねてくる。その瞬間、私の心は決まった。


『よろしくお願いします……!』


 かくして、私とユリウス様の契約結婚は始まった。




 正直、ユリウス様の提案がなければ私は今頃、腎臓を片方売りとばしてでも実家から逃げるためのお金を工面していたと思う。


 現に契約結婚をスタートした当時は、ユリウス様に大した利得のない結婚が居たたまれなくて『臓器でも売って独り立ちの資金にするので、結婚を取りやめませんか』と申し出たりもした。


『腎臓はもう一つあるし、塩分の高い料理は一生食べられなくなりますけど、どのみち塩を買う余裕もないので問題ありません。酒場のアルバイトも辞めましたし』


『うん。私はルナの平凡に見えてぶっ飛んでいるところも可愛くて好きだけど、臓器の売買は違法だからやめようね』


 私の提案は、ユリウス様に凄みのある笑顔で突っぱねられ、塩気の強いご馳走をお腹いっぱい食べさせてもらうという結果に終わった。それはもう沢山食べさせてくれたので、ユリウス様は私の腎臓が売り物にならないように仕向けているのではと懸念を抱いたくらいだ。


『ではせめて……私、全力で契約妻を全うします。ユリウス様のことを間違っても好きにならないよう気をつけますから、安心してください!』


『……そう』


 ユリウス様の返事に妙な間があったことにも気付かず、やる気を漲らせた私。そんなこんなで、彼と結婚してから二年の月日が経った。


 その間、私なりにユリウス様の妻として努力してきたつもりだ。


 契約結婚の条件は私に都合がよすぎるものだったので、せめて役に立とうと、アルバイト時代に培った知識を活かして公爵家の帳簿の管理や文書整理に勤しんだし、パーティーで恥をかかないようダンスの練習も頑張った。


 ユリウス様は女性に言い寄られてお困りの様子だったから、邪な気持ちを抱かないよう自身を律し、節度のある距離感を保つよう心がけもした。


 そして二年の間に、ユリウス様の新事業も大成功をおさめたと聞いている。だから今が、絶好の離婚チャンスだと思うのだけれど……。


「断られた……何故……?」


「美味しいね、ルナ。このデザートのケーキは、パティシエと一緒に君が作ってくれたんだって?」


「あ、はい! お口に合ったようで何よりです」


 結局離婚届にサインを貰えないまま、今日も今日とて広い食堂でユリウス様と仲良く夕食を取っている。


 まずいなぁ、と内心焦ってしまう。だってこのままじゃ……。


 一つだけ、私は嘘をついている。依頼主のユリウス様を間違っても好きにならないというのは偽りだ。私なりに努力し、無心でいるよう努めたけれど無理だった。


 言い訳になってしまうけれど、だってこんな素敵な方、好きにならない方が難しいと思う。


 契約結婚が始まってから――ううん、出会ってからずっと、ウイスキーのように芳醇で危険な色香を放つユリウス様は私に一等優しかった。


 落ちこんでいる時や悩んでいる時は必ず気付いてくれたし、私の手が荒れていることを知った彼はわざわざハンドクリームを渡すためだけに酒場に顔を出してくれたこともある。


 結婚してからは私が家族と食卓を囲んだことがないと知ると、多忙にもかかわらず、極力一緒に食事を取ってくれた。ユリウス様から貰ったお金で潤った両親を社交パーティーで見かけた時は、会話を交わさなくて済むよう背中に隠して守ってくれもした。


 そんな優しい方に惚れないなんて無理な話だ。でもユリウス様は煩わしい女性関係を避けるために契約結婚を持ちかけてくださったのだから、間違っても私の恋心が漏れてはいけない。


 だから心底惚れこんで抜け出せなくなる前に、契約結婚を終えたかった。幸いこの二年、彼のお陰で当面の暮らしに困らないほどのお金も貯められた。臓器も売らずに済みそうだし、しばらくは野草を食べて舌が痺れる目に遭う心配もないだろう。


 だから無事に契約満了を迎えた今は、一刻も早く新しい働き口を探して、生活が安定したらユリウス様にお金を少しずつお返ししようと思っている。


 なのに……。


「あーんして、ルナ。君は苺が好きだろう? あげるよ」


 ケーキの上に載った艶々の苺を私の口元に差しだすユリウス様は、昼間の離婚話などなかったかのように振る舞っている。いや、むしろ……。


(何か、これまでより距離が近くなっていませんか? ユリウス様)


 私はヒクリと口の端を引きつらせながら、促されるまま甘酸っぱい苺にかじりついた。




 距離が近くなったのは私の勘違いだって言えたらどんなによかっただろう。なんと湯浴みを終えたら、これまで使用していた私の寝室ではなく、代わりに夫婦の寝室なるものに案内された。


「いや……え?」


「ユリウス様がお待ちですよ、奥様」


「いえ、私もう奥様じゃなくてですね……」


 爽やかな笑みを浮かべる侍女に背中を押されて、今まで足を踏み入れたことのない寝室に通される。そのまま外から樫の扉を閉められてしまったら、もう前に進むしかない。


 私は状況が掴めないまま、織の細かい絨毯を踏みしめる。煌びやかな調度品に囲まれた部屋の奥には、キングサイズの――おまけに天蓋付きのベッドが鎮座していた。


 そしてヘッドボードに背を預けているのは、ラフなシャツに着替えた色気が駄々漏れのユリウス様で。


「ルナ、おいで。髪を乾かしてあげようね」


「……」


 大輪の薔薇が霞むほど美しい笑みを浮かべたユリウス様に、私は鳩が豆鉄砲を食ったような顔しかできない。


(おかしい。何故離婚を切りだしたはずなのに距離が縮まってしまうの。世の中の夫婦ってそういうものなの?)


「あの……? この二年、寝室は別だったと思うのですけど……」


 困惑しつつも、私はベッドに近付く。


 ユリウス様の蜂蜜のように甘い声には、魔力が宿っていると思う。つい言われたことに従わなくてはいけない気がしてしまうのだ。


 だから促されるまま彼の元に寄った私は、ベッドに座って柔らかいタオルで髪を拭いてもらってしまう。合間に旋毛にキスを落とされたように感じたけれど、タオルで隠れて見えなかったから、これは多分私の気のせい。……気のせいだよね?


「うん。契約結婚の間はね、確かに寝室は別だったよ」


 あ、よかった。流されたと思っていたけれど、ユリウス様が返事を寄越したってことは、私の声は聞こえていたみたいだ。


「でも満了を迎えたから、今日から恋愛結婚が始まっただろう?」


「はい。……はい?」


「だから今夜からは、同じベッドで寝ようと思って」


 私の髪からタオルを外したユリウス様は、額に唇を寄せる。この感触、やっぱりさっきの旋毛への口付けも勘違いじゃない。


(……じゃなくて!)


「え? どうしてですか? だって私たち、偽りの夫婦でしたよね!?」


「でも私は、ルナが好きだよ。私の自惚れじゃなければ、君も少なからず同じ気持ちだと思っていたけど」


(ひえっ!?)


 もしかして、私の気持ちってバレていたの!? というか……。


「私を好き!? ユリウス様が!?」


「うん」


「嘘でしょう!?」


「嘘じゃないよ、好きだよ」


 ユリウス様は、目を白黒させる私の頬を撫でてくる。その手つきが壊れ物を扱うみたいに繊細なせいか、まるで愛されていると口にされているかのようだと思った。


 いや、たったいま『好き』と言われたけれども、そんな、まさか。


(あ……あり得ない。だって、貧乏な男爵令嬢と誰もが羨む公爵様よ? 利害の一致した契約結婚だったから分不相応でも納得していたのであって、これが恋愛結婚となれば訳が違うわ)


 社交パーティーでも、多くのご令嬢たちから散々後ろ指をさされた。『何であんなちんちくりんが、ユリウス様の妻になれたの?』って。


 私だってそう思うのだから、洗練された上流階級のご令嬢たちはもっと納得がいかなかっただろう。


 そもそも……。


「私がユリウス様に好かれる要素なんて、一つもないんですけど……!?」


 私が大真面目に問うと、ユリウスさまは切れ長の目をキョトンと丸くする。その仕草は色気がたっぷりの彼らしくなくて、思わずギャップにキュンとしてしまった。が、私は一生懸命に己を律する。


「嬉しいな、ルナ。私が君を好きな理由が聞きたいんだ?」


「う……っ? いえ、あの……そ、そうですね?」


「いいよ。私は『陛下の懐刀』と呼ばれているから、貴族派の一部からは嫌われていてね。君と初めて出会った日も、護衛ごと刺客に襲撃されて、逃げた先が路地裏だったんだ。そこで君が、手当てをしてくれた」


「……まさか、それだけで……?」


「大した理由だと思うよ。血まみれの私は堅気には見えなかっただろうに、君は臆することなく近寄って手当てをしてくれた。何人もの人が通り過ぎる中、君だけは私を見捨てなかった」


 人を助けることなんて、当然ではないのか。そう言いたげな気持ちが私の顔に現れていたのか、ユリウス様は困ったように肩を竦めて笑った。


「どうしたら私が君を好きだって分かってくれるのかな。結構重たい愛を自覚しているんだけどね」


「……私とユリウス様では釣り合いませんから……」


「ああ、君は私にはもったいないほど一等星のように輝いているからね」


「いえ、逆ですよ、逆……!」


 突っ込みながらも、もしかしたらユリウス様には離婚したくない理由が他にあるのではないかという疑念が浮かんでしまった。例えば新事業が上手くいっていないから、安定するまでは引き続き、私に他の女性の虫よけになってほしいとか。


 帳簿を見る限り仕事が上手くいっていない印象は受けなかったけれど、公爵家の資産は莫大すぎて、損失が見えにくいのかも。


 ――まあ、とにかく私の目玉が飛び出るくらいお金持ちのユリウス様が、こんなちんちくりんな娘を契約結婚ならまだしも本気で好きになるとは信じられなかった。そんなに私の脳内はお花畑じゃない。


(ああ、でも、きついなぁ……)


 ユリウス様は何か理由があって私と結婚生活を続けたいのかもしれないけれど、私は彼に本気で惚れてしまっているから、恋心をこじらせて身動きが取れなくなる前に離れたい。


 そうとなったら善は急げだ。私はひそかに決意を固めた。




 そして明朝、割と行動力のある私は、ボストンバッグを手にひっそりと公爵邸を後にすることにした。


 散々お世話になった手前、挨拶もなく出ていくことは心苦しかったけれど、ユリウス様の様子を見るにとにかく物理的に距離を置いた方がいいと判断したが故の行動だった。


 とりあえずお礼と、勝手に去ることへのお詫びをしたためた手紙を残す。


(落ちついたら、必ずご恩はお返しいたしますから……!)


 できれば手紙と同じように、私の膨らみきった恋心もここに置いていきたい。そう上手くはいかないだろうから、しばらくはユリウス様のことを思い出して引きずってしまうに違いないけれど。


(大丈夫。忙しく働いていれば、きっと吹っ切れるわ)


 この時の私は、ユリウス様についてまるで理解していなかったのだと思う。彼の気質、そして本性がどんなものなのかを、一ミリも分かっていなかった。


 自分の恋心にケリをつけたいという一心だけで、行動してしまったのだ。私を囲うためなら、ユリウス様がどうなってしまうのかなんて考えもせぬまま。




 まずは列車に乗って帝都を離れるつもりだった私は、駅舎に辿りつく。しかしそこで、思いもよらぬ人物に腕を掴まれてしまった。


「……っルナリア!」


「お父様……お母様も? どうしてここに……っ」


 驚いたことに、私を引き留めたのは血走った目をした両親だった。くたびれた服を着た彼らは、最後に会った時より目が落ちくぼみ、食事もまともに取れていないのではと危惧するほどやつれていた。


(どうして……だって以前パーティーで見かけた時は、二人ともユリウス様から結納金をたんまりといただき、左団扇で暮らしていたはずなのに……)


 目の前の両親は、一つのパンを買うことさえ難しそうなほど困窮して見える。


「ずっと公爵邸の周辺を見張り、お前に会うチャンスを窺っていたんだ。ルナリア、助けてくれ」


 お父様は、膝を突いて私に追い縋った。


「悪魔だ! あの男、お前のためなら何でもする! 悪魔に魂を売ってるんだよ!」


「あの男……?」


 私がオウム返しすると、お母様は金切り声で叫んだ。


「ノーガー公爵に決まってるでしょう? あの男、カジノで私たちをはめたのよ!」


 ノーガー公爵とは、ユリウス様のことだ。けれど彼が両親をはめたとは、一体どういうことなのか。優しいユリウス様がそんなことをするとは思えず、私は怪訝そうに尋ねた。


「どういうことですか? カジノって……確かユリウス様が二年前から手をつけはじめた新事業ですよね」


 皇帝陛下からの信頼が厚いユリウス様は、主に上流階級の貴族や異国の使節団向けに金を落としてもらうための賭博施設を、帝国政府公認で開いたと聞いている。


「そうだ! あの男は『大事なルナのご両親だから特別にご招待します』と(うそぶ)いて、カジノで俺たちを丸裸にしやがったんだ!」


「お陰で結納金を全部溶かしたどころか、新たに借金まで抱えてしまったのよ……!」


「そんな……でも、勧められたからって、ギャンブルにお金を注ぎ込んだのはお父様たち自身でしょう?」


 私は困惑しつつも、正論を放つ。ただ、どうしてユリウス様が私の両親にカジノを勧めたのかは謎だった。


(金にがめつい両親がカジノにハマるなんて、火を見るより明らかなのに……)


 地に伏して喚き散らすお父様の手が、私の足首を掴む。通りかかる人々の視線が針のように刺さって痛い。一刻もこの場から去りたい私は、思いとは裏腹に、足の裏を縫いつけられたみたいに動けなかった。


 そんな時――……。


「ああ、ここにいたんだね、ルナ」


 深く澄み渡った夜の底を彷彿とさせる声が、背後からかかった。


 悪戯が見つかった子供のように、心臓がドキリと音を立てる。強張った肩に触れたのは、大きな手のひら。視線だけを斜め上に向けると、私の肩を抱いたユリウス様が柔和な笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。


「……ユリウス様!? ど、どうしてここに……」


「手紙を見てね。探したよ。ご両親と一緒だったんだね」


 探したという割には、ユリウス様の息は乱れていない。まるで最初から、私が逃げ出して駅に辿りつくことを予期していたかのごとく優雅な登場だった。


 その余裕に、私は心臓をヒヤリとした手で撫でられたような心地を覚える。契約結婚の間は、そんな感情を一度もユリウス様に感じたことはなかったのに。


 そして何より、逃げ出してしまった手前ばつが悪かった。


「あの、両親とはたまたま会っただけで……」


「貴方が娘に会わせてくれなかったから、ずっとルナリアが一人になるタイミングを待っていたんだ!」


 お父様は私の足首を掴んだまま、ずっと高い位置にあるユリウス様の顔を睨んだ。

 彫刻のように美しい顔に笑みを刻んだユリウス様は、穏やかに毒を吐く。


「ああ。だって、せっかく好きな子を囲うことに成功したのに、また彼女の周りに羽虫がたかったら嫌じゃないですか」


「まさか俺たちのことを羽虫と言ったのか!?」


「ええ、そうです。可愛いルナを道具のように扱う存在など私にとっては邪魔でしかない」


 そう言ったユリウス様は、お父様の肩に磨き上げられた革靴を乗せて蹴り飛ばした。


「どうやら借金取りから逃げているそうじゃないですか。カジノで失った金は、ルナに頼ることなく返してくださいね」


 思いがけない彼の行動に、私は目をむく。駅のホームにカブトムシのようにひっくり返った父親へ手を伸ばそうとしたけれど、ユリウス様に肩を抱かれているせいで身動きが取れずに終わった。


 お母様はお父様を抱き起こしながら、ユリウス様に向かって叫ぶ。


「貴方、最初から私たちをはめて破産に追いこむつもりだったのでしょう! ルナリアのために!」


 ユリウス様がカジノを両親に勧めたのは確かだろうけれど、まさかそんな。勝手にギャンブルにのめり込んで破滅したのはお父様とお母様の自己責任ではないかと思いながら、私は隣に立つユリウス様を見上げる。


 けれど美しい彼の横顔を見て、考えを改めた。私の両親を見下ろすユリウス様の表情は氷のように冷ややかだったからだ。


 まるで虫けらの羽音を聞かされているかのように不快感を露わにした表情なんて、結婚生活を送る中で一度も見たことはなかったのに。


「ユリウス、様……?」


 隣に並ぶ彼が本当に私のよく知るユリウス様なのか自信が持てなくなり、私は呼びかける。すると彼は、慈愛に満ちた目を私に向けて口火を切った。


「実はルナに契約結婚を持ちかけた時、新事業を立ち上げると言ったのはハッタリでね。あの時は何も考えていなかったんだ。ただルナが私の提案に頷いてくれるよう、それっぽい理由を並べただけ」


「え? どうして……」


 だったら私たちの契約結婚に、意味なんてなかったのではないか。それこそ、ユリウス様には何一つ得になることがなかったはずだ。


 私が驚倒していると、ユリウス様は優しい声色で理由を説明してくれた。


「ルナが泣いていたから。君をご両親の元から救い出したかったからだよ。ただ、口にした手前、嘘を真にしなければいけないだろう? だから本当に新事業に着手したんだ」


「それが、カジノですか?」


 事業を展開した理由が私だなんて、夢にも思わなかった。道を歩けば誰もが振り返るほど美しく権力も兼ね備えたユリウス様が、平凡な私のためにここまでしてくれるだなんて。


 公爵邸で聞かされた時は信じられなかった愛の告白が、真実だったのではないかと思えてくる。

 けれど、ここで引っかかったのは、しこりのような疑問だ。


「あの、ではどうして、カジノを両親に勧めたのですか……? 私はもう、お父様たちとは関わりたくなくて」


 ユリウス様のお陰で、両親の呪縛からは解き放たれた。だからもうお父様とお母様とは関わらずに生きて、存在さえ忘れてしまいたかったのに――……。


「ああ、だって」


 ユリウス様は、まるで世の中の道理を説くみたいに言った。


「可愛いルナをいたぶってくれたご両親には、お礼が必要だろう?」


 ユリウス様は私の肩に回していた手を、髪へと伸ばす。彼と過ごすうちに艶やかになった髪を撫でられた私は、何故か蜘蛛の糸に絡めとられるような感覚を味わった。


「せっかくなら彼らをいたぶれるような事業をと思ってカジノを作り、大金を使わせて破産に追いこんだんだ。……まさかこの期に及んで娘に追い縋る傲慢さを持ち合わせているとは思わなかったけれどね」


 事もなげに告げられた真実に、私は言葉を失う。二の句が継げないでいると、ユリウス様は、私が両親を怖がっていると勘違いしたのか包みこむように抱きしめてきた。


「……怖かっただろう。でも大丈夫だよ、ルナ。この人たちには消えてもらうから」


「え……?」


 当惑する私の視界の端を、ノーガー公爵家の私兵が横切り、お父様とお母様を引っ張っていく。まだ何事か喚いている両親が連れ去られるのを、私は呆然と見送った。


 いや、正確にはそうせざるを得なかった。私がこれ以上深追いするのを望まない圧を、ユリウス様から感じてしまったからだ。


 大好きなはずの彼に見つめられているだけで、蛇に睨まれた蛙のような気分になるなんて、今の今まで思いもしなかった。


(……もしかして……)


「一緒に私たちの家へ帰ろうか、ルナ。おや、震えているね。最低なご両親と会ったせいかな。大丈夫、彼らには地獄を見てもらうから、もう何も怖くないよ。心配しなくていい」


 饒舌なユリウス様は、私の唇に甘い口付けを贈る。それはまるでお姫様を長い眠りから目覚めさせる王子様のキスを彷彿とさせたが、生憎私は子供じみた自身の可愛らしい恋心から目を覚ました。


 気付いてしまったのだ。私が好きになった相手は、とんでもなく怖い男だと。


(私のことが好きだなんて、とんでもない。この方は……私のことを、愛しすぎている……!)


 すべてはユリウス様の手のひらの上。契約結婚をやり遂げ、勝手に淡い初恋を終わらせようとしていた私を、彼は逃す気なんてサラサラなかったに違いない。


 そうでなければ、落ちぶれた下級貴族の令嬢のために事業を立ち上げ、それで私の両親を破滅させるなんて回りくどく執念深い方法を取るはずがない。


 手紙を置いて公爵邸を飛び出した私を、こんなにも短時間で見つけ出せるはずもないのだ。


「愛しているよ、ルナ。そうだな、今度はどうしようか。君が間違ってもお金を工面するために臓器を売ったりしないよう、犯罪組織を一掃してしまうのもアリだね」


『陛下の懐刀』と呼ばれる方が口にすると、目標というよりただの今後の予定のように聞こえる。


 あんなに信じられなかった愛の告白も、今度ばかりは認めざるを得ない。だってその愛は、私が抱くものよりずっとずっと怖くて重いのだと、嫌でも思い知らされてしまったのだから。


ヒロインに(だけ)優しくてちょっと怖いヒーローを書くのが大好きです。


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― 新着の感想 ―
ホラーだったかな(´・ω・`;)?? 笑 深ーい愛情に絡め取られてて結果 ハピエン良かったデス♪ 臓器は大事(*`ω´)b ユリウスさま ルナちゃんの腎臓守ってね (人´ω`*).☆.。.:*・゜
ルナちゃん、厄介な人を助けてしまったばっかりに…。 まぁ、そんな人だと知らなかったとはいえ、好きになってしまったんですから、ハッピーエンドですよね?(笑)
ダートン侯爵? あっ……。 うん、察しよう。どういう末路とか、もはやルナに聴かせるまでもない。 どれだけの金をむしり取ったのかなぁ? まあ、さすがに陛下に献上したか。そんな汚らわしい侯爵の金は。 「…
感想一覧
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