第9話(前編)――「緑の山影、二人の名」
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登場人物〈男性〉
ディエゴ〈28〉(遠征司令官、大尉) アルバロ〈27〉が遠征の際に名乗る仮名だ。アルバロは新大陸の皇帝を名乗り、新大陸からスペイン人勢力を追い出す意志を持つ。ただ、皇帝が前線へ出る格好は避けるため、現場では「ディエゴ」を名乗って軍を率いる。妻や妾、侍女、兵は真相を知らされておらず、ディエゴを高級将校だと受け取っているため、呼び方も態度もその前提で統一されている。
ペドロ・サラサル〈29〉(雇い入れ・船大工) 板の反りと釘の打ち方を知る。小舟の修理と簡単な補修を任される。
ミゲル・デ・オルティス〈16〉(雇い入れ・荷役見習い) 母と共に港へ流れ着いた。成人後は部下に取り立てる方針で、当面は荷役に回される。
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登場人物〈女性〉
サク・ニクテ〈22〉(正妻) コスメル島出身の先住民。コスメル島部隊5,000名の隊長。上陸地の井戸と倉を先に押さえ、配給と整列で隊の崩れを防ぐ。妊娠中〈10月半ば出産予定〉だが、腹の子の動きを隠さず前に立つ。
マルタ・ロペス〈19〉(妾・新任) キューバ島の小教会にいた司祭の家で暮らしていた女性。寝具と衣類を預かり、針仕事で傷みを直してきた。祈祷文と聖歌を覚えており、人前でも声が崩れにくい。読み書きは得意ではないが、手順を守るのがうまい。過去の功績により、ディエゴの妾に抜擢された。
ドニャ・ベアトリス〈30〉(妾・新任、スペイン人) セビリア出身。夫はサンチャゴ大聖堂に属する聖職者で、説教と告解の取りまとめに関わっていた。夫は旧来の権力筋と近く、城塞の内側の噂や名簿の流れにも通じていたが、争いの後に失脚し、姿を消した。ベアトリスは生き残りのためにディエゴへ好意を示し、名と事情を取引にする形で近づく。遠征には侍女として付いてきたが、口と香りで間合いを詰める癖があり、ディエゴは情報源として手元に置いた。第4話後編で功績を上げ、妾に抜擢された。
イネス・アルバレス〈26〉(妾・スペイン人) エストレマドゥーラ出身。夫はキューバ東部の砂糖農場の経営者で、圧搾機と倉、労働者の手配まで握っていた。夫は騒乱の夜に殺され、農場は人手と道具だけが残った。イネスは農場の内側を知り、誰が怠け、誰が盗み、誰が働いたかを具体で言える。ディエゴに好意を匂わせ、遠征では侍女として衣類や寝具の手配にも回るが、利で動く言い回しが抜けず、旧勢力との結びつきも疑われている。ディエゴは現場の証言を引き出すためにそばへ置いた。
クララ・デ・アビラ〈20〉(妾・新任) サントドミンゴの司祭館で同居していた女性。台所だけでなく家計簿と支払いの控えを任され、買い物の値と銅貨の数を間違えない。表に立って働いて稼いだ経験は乏しいが、帳面と鍵の扱いで屋敷を回してきた。
レオノール・メンドーサ〈22〉(妾・新任) イスパニョーラ島の司祭館で客間と寝具を預かっていた女性。割れ物や布の扱いが丁寧で、物の置き場を覚えるのが早い。先住民の女たちの言葉を少し知っており、水場や台所の伝言役に回れる。今話では通訳役を務め、短い命令や確認なら通じる程度だ。
ドニャ・テレサ・デ・バルデス〈31〉(妾・新任) 処刑された旧支配者の妻。家の出納と帳面の付け方を知り、クララの補佐に回る。
ドニャ・アナ・デ・ラ・クルス〈28〉(妾・新任) 幼い娘を連れて忠誠を誓う。台所の段取りと保存の扱いを任される。娘ルシア〈6〉は母と同じ区画で寝起きする。
マリア・デ・オルティス〈38〉(妾・新任) 息子ミゲル〈16〉の母。針仕事と洗い物を請け負い、寝具と衣類の手入れを任される。ディエゴの夜伽にも応じ、サンファンにおける散策にも付き合い、互いに心を通じ合わせる。
フアナ・デ・ルナ〈21〉(妾・新任) 皿洗いが早く、細かな始末が丁寧だ。水場の手として雇われる。
エルビラ・グスマン〈18〉(妾・新任) 水瓶運びと倉の戸の扱いを覚えるのが早い。運搬と戸口の手として雇われる。ディエゴに忠実。
アナイラ〈36〉(族長の正妻、人質兼侍女) 族長の家を切り盛りしてきた女性。川口と集落の道を知る。
シリマ〈20〉(族長の妾、人質兼侍女) 若く、目が利く。森の足場と危ない谷を覚えている。
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1521年6月15日、午後。ドミニカ島の山影は、もう黒い影絵ではなかった。濃い緑が何枚も重なって見え、雲が山の肩に引っかかって、谷から湿った風が吹き出してくる。潮と藻の匂いの奥に、濡れた土と潰した葉の匂いが混じった。陸が近い匂いだった。
船団は帆を落とし、速度をきちんと殺した。縄が滑車を擦る乾いた音が続き、錨鎖が引かれるたびに、鉄が腹へ響く低い鳴り方をした。見張りは舷側へ身を乗り出し、海の色の変わり目を指で追った。浅瀬の薄緑が細く伸び、そこだけ波の形が違う。油断して突っ込めば、船底が石に当たる。
ディエゴは甲板の中央に立っていた。風で言葉が散らないように腹から声を出し、言い回しは崩さずに、同じ調子で命令を並べていく。船の上では怒鳴っても人は早く動かない。同じ言葉を揃えて繰り返したほうが、手が迷わず回ると分かっていた。
ディエゴは兵に告げた。「投錨は日が高いうちに終わらせたい。先に小舟を出して、浜と水場の様子を確かめてこい。槍は持て。ただし、こちらから最初に刺すな。向こうが武器を捨てて手を上げるなら、命まで取る必要はない」
「承知しました、提督閣下」と兵たちが返し、甲板が一斉に動いた。日差しは強い。濡れた帆布はすぐ乾き、乾けば塩が白く吹いて指先がざらつく。汗が背を流れ、舌がしょっぱくなる。水袋の水はぬるく、飲んでも喉の渇きが戻った。だからこそ淡水が要った。
錨が落ちた。海面が跳ね、鎖が走る。船腹が小さく震えて止まり、船団は島の西側、岬の陰の風裏へ身を入れた。沖はまだ白波が立っているのに、ここだけ波の角が丸い。ディエゴは浜へ寄せすぎないよう命じ、浜まで小舟で10分ほどの距離を保たせた。近すぎれば矢が届く。遠すぎれば小舟が苦労する。その間の、手が届く距離だった。
浜は黒っぽい砂と丸石が混じり、木々はぎっしり詰まっていた。白い砦も礼拝堂も見えない。煙も目立たない。人の気配は薄いが、ゼロではない。
小舟が浜へ向かうと、潮が浅くなり、櫂が砂を掻いた。水に足を入れた兵が顔をしかめる。ぬるいが、肌を締める塩が薄い。波の合間に、川の流れが冷たい筋として混ざっていた。川口が近い。
最初に現れたのは先住民の見張りだった。木の影から黒い瞳がいくつも覗く。弓を持つ者もいる。矢羽の色が濃く、羽が湿って重そうだ。彼らは距離を取り、声を出さない。鳥の声と虫の羽音だけが大きく聞こえ、こちらの足音が余計に目立った。
こちらが近づきすぎる前に、サク・ニクテの部隊が前へ出た。彼女は腹の子を隠さず、足元の石を確かめながら浜へ立つ。海風に髪が揺れ、肌に塩が光る。目つきは静かで、決める時は迷わない。
サク・ニクテは先住民へ向けて両手を開いた。武器を向けない合図だ。だが次の瞬間、森の奥から甲高い叫び声が上がり、矢が飛んだ。矢は砂へ突き刺さり、白い砂粒が跳ねた。
兵の何人かが反射で槍を構えた。緊張が腕へ走り、盾の縁が小さく鳴った。
短く済ませずに、やるべきことを揃えて言うのがサク・ニクテの癖だった。彼女は低い声で言い切った。「今は追い回すより、要所を押さえる時だ。井戸と川口を先に取る。森へ深く入りすぎるな。あの森は、追う者の足を奪う」
ディエゴも浜の様子を見て、すぐ判断した。抵抗があるなら、最初の動きで勢いを折る。ただし必要以上の殺し合いに引きずり込まれれば、こちらが消耗する。
ディエゴは盾隊へ命じた。「前へ出ろ。矢を放った者は、その場で止める。だが、逃げ道は残しておけ。手を上げる者まで追って斬るな。降る者が増えれば、こちらの手間が減る」
槍が前へ出た。盾が並び、砂が蹴られる。木陰から石が飛び、兜に当たって鈍い音がした。続けて棍棒を持った男が飛び出し、誰彼かまわず殴りに来る。槍の穂先が胸へ入った。息が詰まる音がして、潮の匂いに血の鉄臭さが混じった。倒れた身体が砂に沈み、波が足元を洗う。海が赤く染まるほどではないが、鼻は嘘をつけない。
抵抗した者が数人倒れると、森の気配が変わった。矢が止み、葉の揺れだけが残る。代わりに手を上げて出てくる者が現れた。首に貝の飾りを下げ、腕に古い傷の跡がある男だ。彼は槍を捨て、膝をついた。恐怖で唇が震え、それでも目だけは逸らさない。
通訳は十分ではない。だが今は、長い交渉より、短い合図が要る場面だった。レオノールが前へ出て、先住民の女たちから聞き覚えた言葉を、慎重に選びながら口にした。「武器を下ろせ。水を持つ。怖がるな」。言い切るたび、彼女の喉が乾いた音を立てた。
降伏は言葉より姿勢が先に来る。ディエゴは自分の手を下げ、兵にも槍先を下ろさせた。
部下が駆け寄って報告した。「提督閣下、あの者たちは従う様子です。武器を捨てています」
ディエゴは頷いた。「武器はすべて取り上げろ。ただし縛るのは最後だ。逃げないなら、無用に縄は要らない。水場まで案内させろ。逆らう者が出たら、その場で止める。だが、従う者まで疑って殴るな」
従う者には、まず水と食い物を見せた。干し肉を少し裂き、塩を落として渡す。水袋も回す。喉が鳴る音がはっきり聞こえ、彼らは疑いながらも口をつけた。水が欲しいのは、敵も味方も同じだ。従うなら働かせる。働くなら生かす。それが最も早い支配だった。
その日のうちに、もう1つの獲物が見つかった。森の斜面に粗い板で囲った小さな囲いがあり、そこから煙が細く上がっていた。煙は薪の匂いではなく、油と古い布が焦げた匂いを含んでいる。島の暮らしの匂いとは違う。
兵が囲いを固め、ディエゴが前へ出た。扉代わりの板を蹴ると、内側で何かが倒れる音がした。女が息を呑む音と、子どもの泣き声が重なる。
ディエゴは板を押し開け、ゆっくり入った。匂いが濃い。汗と黴と煙が混ざり、喉の奥が粘った。
ディエゴは男に向けて、穏やかな声で言った。「武器を捨てろ。抵抗しないなら、命は取らない。逃げようとするなら、その時は縛る。だが、今ここで家族を巻き込むつもりはない」
男が短剣を握り直し、震える手で構えた。背後で女が泣き止まない。子どもが咳き込み、痰の音がする。
ディエゴは一歩も詰めず、言葉だけを重ねた。「今、捨てろ。私は約束を守る。お前が刃を捨てれば、ここにいる女と子は傷つけない。私は、そのために言っている。ここで暴れれば、お前の腕が先に折れるだけだ」
男の肩が落ち、短剣が土に落ちた。乾いた音だ。次の瞬間、部下が前へ出て男の腕を取り、縄を掛けた。捕縛は速い。痛めつけはしない。逃げる隙だけは与えない。
続けて、もう1人が奥から出てきた。こちらも成人の男だ。目だけが怒っている。彼も同じように捕縛された。女たちは抱き合い、子どもを背へ回した。
ディエゴは女と子の前に膝をつき、目線を落とした。威圧しないためだ。兵にも近づきすぎないよう合図した。
ディエゴは女たちに告げた。「あなたたちは船へ移る。怖いのは分かる。だが、ここに残れば、次に誰が来るか分からない。私は、今ここにいる者を無駄に殺さない。子どもに手を出すこともしない。船に毛布と水と食い物がある。まずそれを渡す」
震える声で女の1人が尋ねた。「本当に……本当に、子どもは助かるのか」
ディエゴは目を逸らさずに答えた。「助かる。私がそう言った。だから安心しろとは言わない。だが、私の側にいれば、少なくとも今すぐ森に引きずり戻されることはない」
女子供は小舟へ移された。波打ち際で足を取られ、膝をつく者もいる。海水が傷へ染み、顔が歪む。
ディエゴはすぐに声を飛ばした。「触れる時は、必ず先に言葉で知らせろ。勝手に掴むな。転びそうなら、声をかけてから支えろ。怖がらせれば、こちらの手間が増えるだけだ」
「承知しました」と兵が返し、手を引いた。代わりに布を差し出し、足元へ敷いた。




