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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第1章――「サントドミンゴ篇 砂糖と疫病と未亡人」

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第9話――「折れた膝と燃える目」

 翌朝、城壁の外にある訓練場には、兵士たちと町の人々が集まっていた。観客席の1角に、黒いヴェールをかぶったイサベルの姿もある。彼女は夫フアンの隣に座り、緊張した面持ちで下の砂地を見下ろしていた。


「怖いのか」


 フアンが問うと、イサベルは首を振った。


「怖いのではなく……落ち着かないだけです。どちらが勝っても、この先の海が変わるのでしょうから」


「変わるとも」


 フアンは、妻の手を握った。


「だが、どちらが勝っても、お前と子どもたちを守るのは同じである」


 砂地では、アルバロとエルナン・コルテスが向かい合っていた。


 コルテスは厚い胸板と腹を革鎧で固め、太い腕に剣を握っている。顔にはまだ若さの残る精悍さがあったが、その目は常に周囲を値踏みするように動いていた。


「お手柔らかに願いたいものだな、モリーナ殿」


「それはこちらの台詞です、コルテス殿」


 アルバロは、少し軽めの鎧を身につけていた。長い腕と脚が自由に動くよう、肩と膝のあたりの金具を緩めている。


「これはあくまで、神と総督殿と兄上の前で腕を比べるだけです。誰も死ぬ必要はありません」


「もっともだ。だが、男の名誉は時に血を求める」


 コルテスは、唇の端を上げた。


「メキシコの金と女を賭けるなら、多少の血は安いものだと思わんか」


「わたしは、よく磨かれた帳簿の方が好みです」


 アルバロは、剣を軽く振って砂を払った。


「黄金は数えないと意味がありませんから」


 総督とフアンが、立会人として場の中央に進み出る。


「両者、よいか」


 ベラスケスの声が訓練場に響いた。


「これは、第3次遠征隊の指揮を誰に任せるかを決めるための模擬の決闘である。殺し合いではない。致命の1撃を避け、3度の有効打を与えた方を勝ちとする」


 2人はうなずき、剣を構えた。


 静寂の中、風が砂をさらった。


「始めよ」


 フアンの声と同時に、鉄と鉄がぶつかる音が鳴り響いた。


 コルテスは最初から激しく斬り込んできた。力任せの1撃だが、重さと経験が乗った剣筋である。アルバロは足を半歩ずつ引き、肩と腰をひねってその鋭さをいなし続けた。


 1撃、2撃、3撃。


 甲冑の上で火花が散り、観客の間からどよめきが上がる。


「押されているように見えるな」


 ベラスケスがつぶやいた。


「そう見せているだけです」


 フアンは、弟の動きを目を凝らして追った。


 アルバロは、砂地のわずかな傾斜と、昨夜の雨で湿った場所を確かめるように足を運んでいた。どこで踏めば滑り、どこで踏めば踏ん張れるかを、剣を受け流すたびに確かめている。


 やがて、コルテスの呼吸が目に見えて荒くなってきた。額に汗がにじみ、肩の動きが大きくなる。


「どうした、帳簿男」


 コルテスが息を吐きながら吠えた。


「剣を振るより、数字を数える方が得意か」


「数字は裏切りませんからね」


 アルバロは、静かに笑った。


「でも、あなたの足元は、そろそろ裏切りそうです」


 その言葉と同時に、彼は1歩踏み込んだ。コルテスが反射的に下がろうとした瞬間、ぬかるんだ砂地に踵を取られる。


 重い体がわずかに傾いた。


 その隙に、アルバロの剣が低く走る。膝の横を狙った1撃が、鎧の隙間を正確に捉えた。


 乾いた音がして、コルテスの叫びが訓練場に響いた。


 男の体が砂地に倒れ込む。剣が手から離れ、砂を巻き上げた。


「1撃」


 フアンの声が、冷静に告げる。


「まだだ、立てる……!」


 コルテスは歯を食いしばり、立ち上がろうとした。だが、右足は自分のものではないように震えるだけで、力が入らない。


 膝の内側に、ありえない角度の膨らみが浮かんでいた。


 アルバロは、1歩だけ近づいた。剣先をわずかに下げたまま、倒れた男を見下ろす。


「ここで続ければ、神さまはお怒りになるでしょう」


「殺せ……臆病者と呼ばれたくないなら……!」


「臆病者が、こんな場に立ちませんよ」


 アルバロは、剣を鞘に戻した。


「コルテス殿。わたしたちはメキシコで戦うためにここに来たのです。ここであなたの命を奪ってしまっては、帳尻が合わない」


 ベラスケスが手を上げた。


「決闘はここまでだ。勝者、アルバロ・デ・モリーナ」


 歓声とざわめきが訓練場を満たした。


 観客席で、イサベルは両手を口に当てていた。弟が生きて立っていることに安堵しながらも、その勝利が何をもたらすのかを直感していた。


 砂地に横たわったコルテスの目が、血走ったまま観客席と立会人席をゆっくりと巡った。やがて、その視線がフアンの上で止まる。


 燃えるような憎悪が、ほんの一瞬だけ露わになった。


 フアンは、それを正面から受け止めた。立会人としての責務と、自分が選んだ側の重さを、胸の奥でかみしめながら。


 その日の夕刻、サンティアゴの町には、酒場ごとに噂が広がっていった。


「帳簿好きのモリーナの弟が、メキシコ遠征隊の隊長になるらしい」


「いや、まだ決まってはいない。だが、コルテスの脚では、しばらく船には乗れまい」


「総督殿も、決闘の結果を見ていたぞ。あれはもう決まったようなものだ」


 夜になるころには、港の船員たちでさえ、その噂を口にしていた。


 屋敷に戻ったアルバロは、兄とイサベルと短い夕食を共にした。イサベルはまだ顔色が優れなかったが、弟の腕に傷がないことを何度も確かめるように視線を送っていた。


「明日以降、総督殿と細かい話を詰めることになるだろう」とフアンが言った。


「お前が隊長となれば、メキシコへの海路のことも、1から考え直さねばならぬ」


「喜んでお手伝いします」


 アルバロは、杯を軽く掲げた。


「兄上の名と、モリーナの名に恥じない遠征にしましょう」


 イサベルは、その言葉にうなずいたが、微笑むことはしなかった。


「どうか、誰も無駄に死なない遠征にしてください」


「それは難しい注文です」


 アルバロは正直に答えた。


「でも、死んだ者の数だけは、きちんと数えます。兄上が嫌がるくらいに」


「嫌がりはせんよ」


 フアンは笑った。


「ただ、数えた者の名が、必要以上に増えないことを祈るだけだ」


 その夜、アルバロは自室の窓から港を眺めた。月の光が帆柱を白く浮かび上がらせ、遠くで犬が吠える声が聞こえた。


 兄が立会人を務めた決闘が、まだ終わっていないことを、彼は知らなかった。

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