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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第6章――「波の鎖、南の潮」

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第5話(後編)――「帆影の朝、サンフアンの水」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


―――――――――――――――――

 登場人物〈男性〉


 ディエゴ〈28〉(遠征司令官、大尉) アルバロ〈27〉が遠征の際に名乗る仮名だ。アルバロは新大陸の皇帝を名乗り、新大陸からスペイン人勢力を追い出す意志を持つ。ただ、皇帝が前線へ出る格好は避けるため、現場では「ディエゴ」を名乗って軍を率いる。妻や妾、侍女、兵は真相を知らされておらず、ディエゴを高級将校だと受け取っているため、呼び方も態度もその前提で統一されている。


 ロドリゴ・マルティネス〈33〉(書記) 旧総督府で書状と印を扱っていた。文面と印章、控えの整備に通じる。


 フアン・デ・モラレス〈34〉(港の親方) 桟橋、修理場、水と薪の配分、見張りの配置に強い。


 トマス・ベニテス〈30〉(倉と配給の管理役) 倉の出入りと配給の実務を握る。現場の目が利く。


 登場人物〈女性〉


 サク・ニクテ〈22〉(正妻) コスメル島出身の先住民。コスメル島部隊5,000名の隊長。上陸地の井戸と倉を先に押さえ、配給と整列で隊の崩れを防ぐ。妊娠中だが、腹の子の動きを隠さず前に立つ。


 マルタ・ロペス〈19〉(妾・新任) キューバ島の小教会にいた司祭の家で暮らしていた女性。寝具と衣類を預かり、針仕事で傷みを直してきた。祈祷文と聖歌を覚えており、人前でも声が崩れにくい。読み書きは得意ではないが、手順を守るのがうまい。過去の功績により、ディエゴの妾に抜擢された。


 ドニャ・ベアトリス〈30〉(妾・新任、スペイン人) セビリア出身。夫はサンチャゴ大聖堂に属する聖職者で、説教と告解の取りまとめに関わっていた。夫は旧来の権力筋と近く、城塞の内側の噂や名簿の流れにも通じていたが、争いの後に失脚し、姿を消した。ベアトリスは生き残りのためにディエゴへ好意を示し、名と事情を取引にする形で近づく。遠征には侍女として付いてきたが、口と香りで間合いを詰める癖があり、ディエゴは情報源として手元に置いた。第4話後編で功績を上げ、妾に抜擢された。


 イネス・アルバレス〈26〉(スペイン人) エストレマドゥーラ出身。夫はキューバ東部の砂糖農場の経営者で、圧搾機と倉、労働者の手配まで握っていた。夫は騒乱の夜に殺され、農場は人手と道具だけが残った。イネスは農場の内側を知り、誰が怠け、誰が盗み、誰が働いたかを具体で言える。ディエゴに好意を匂わせ、遠征では侍女として衣類や寝具の手配にも回るが、利で動く言い回しが抜けず、旧勢力との結びつきも疑われている。ディエゴは現場の証言を引き出すためにそばへ置いた。


 クララ・デ・アビラ〈20〉(侍女・新任) サントドミンゴの司祭館で同居していた女性。台所だけでなく家計簿と支払いの控えを任され、買い物の値と銅貨の数を間違えない。表に立って働いて稼いだ経験は乏しいが、帳面と鍵の扱いで屋敷を回してきた。


 レオノール・メンドーサ〈22〉(侍女・新任) イスパニョーラ島の司祭館で客間と寝具を預かっていた女性。割れ物や布の扱いが丁寧で、物の置き場を覚えるのが早い。先住民の女たちの言葉を少し知っており、水場や台所の伝言役に回れる。

―――――――――――――――――


 1521年5月17日、昼前。サントドミンゴ総督邸の窓から、港の帆柱がいくつも見えた。潮の匂いの中に、砂糖樽の糖蜜の甘さが混じり、どこかで鉄を打つ乾いた音が続いている。廊下を渡る風が、羊皮紙の端をそっと持ち上げた。


 ディエゴは机の上に、短い文を3通並べた。文は短いが、決め事は重い。羽根ペンの先が紙を掻き、墨の匂いが濃くなる。そばでロドリゴが赤い蝋を温め、火のそばに置いた小皿の上で、蝋がゆっくり光った。蝋が柔らかくなると、部屋の空気に松脂の甘い匂いが増えた。


 ディエゴは紙から目を上げた。「キューバへ出す。サンチャゴの責任者へ、今夜のうちに走者を立てろ。明日になれば噂が先に走る。こちらの決まりを、先に届かせる」


 ロドリゴは背筋を正して答えた。「承知いたしました、提督。書状は私が封をし、封の控えも残して、別の箱に収めます。走者には途中の宿と水場まで指示しておきます」


 ディエゴがうなずくと、ロドリゴは封の型を確かめた。古い印のままでは真似される。新しい型はまだ熱を持っていて、押す前から指先にじわりと温かさが伝わった。


 クララが帳面を抱えて一歩進み、机の端に置いた。紙の角がそろっている。彼女の指には、さっきまで控えを書いていた墨が残っていた。


 クララは言った。「提督、念のため伺います。こちらで決めた港の取り扱いを、キューバでも同じ形で回されますか。倉の鍵と帳面の持ち手を分けることや、夕刻に数を突き合わせる決まりも、最初から入れておいたほうがよろしいでしょうか」


 ディエゴは言った。「入れる。港だけ開いても、内側が崩れたら終わる。門が開いているのに倉の中が抜けていけば、商人は二度と戻らない。戻らない船が増えれば、港が先に痩せる」


 ディエゴはそう言い、手紙の文面を口に出して整えた。声に出すと、曖昧な言い回しが削れていく。


 「入れる船は、スペインとポルトガル以外だ。ただし誰でも通す話ではない。通すのは、許可証と印がそろい、荷の数と行き先が口で言って一致する船だけにする。品を動かす時は、必ず2人の署名をそろえる。倉の鍵と帳面は、同じ手に持たせない。夕刻に倉と帳面を突き合わせ、夜に消えた分は夜のうちに止める。明日の朝まで持ち越すな」


 クララは小さく息を呑み、すぐに言葉を返した。「承知いたしました、提督。署名の順番と、控えの置き場所も決めておきます。倉番が1人で紙を触れないように、帳面の担当も別に立てます」


 机の隅には、乾かしたタバコ葉の束が置かれていた。揉んだ葉の青臭さと苦さが、砂糖の甘い匂いを少しだけ押し返した。ディエゴはそれを指で弾き、言葉を足した。


 ディエゴは言った。「砂糖だけでは腹が減る。キューバはタバコがある。蜂蜜も皮も木材も、売れるものは売れ。港へ出せ。だが、勝手に抜くな。夜に小舟で樽が消えるようなことを一度でも許せば、港そのものが疑われる。疑われた港に、良い船は入ってこない」


 ロドリゴは頷いた。「提督、その点は港の門と倉の両方で手当ていたします。印の写しを板に貼り、門番が毎朝声に出して確認するよう命じます。倉は鍵を2つにし、鍵番と倉番を分けます」


 ディエゴは言った。「それでいい。商人にも先に伝えろ。荷が奪われた時は、次便で埋める。港の手数料は次で相殺する。こちらが先に損を引き受ける姿勢を見せれば、臆病な者ほど戻ってくる」


 ロドリゴは、慎重に言葉を選ぶように答えた。「承知いたしました、提督。損の埋め方と相殺のやり方を、文にして渡します。口約束に見えないように、署名の形もそろえます」


 ロドリゴが蝋を垂らした。赤い滴が紙に落ち、すぐに丸く広がって止まる。型を押すと、蝋が縁でわずかに盛り上がり、乾くまでの一息だけ部屋が静かになった。


 外では、海鳥の声が短く割れ、港から綱のきしむ音が返ってきた。使いの男が文を受け取り、胸の内側へ差し入れた。汗の塩気が一瞬だけ紙に移りそうになり、男は慌てて手を引っ込めた。ディエゴはそれを見て、顔を動かさず目で外へ行けと合図した。


 扉が閉まると、机の上に残ったのは、蝋の赤と、墨の黒と、潮の匂いだった。港を開くとは、門を広げることではない。門の前で、同じ言葉と同じ印を、毎日ぶれずに押し続けることだと、ディエゴは黙って確かめていた。


 ◇ ◇ ◇


 1521年5月24日、早朝。サントドミンゴの港は夜の湿りをまだ抱え、木の桟橋が靴底に冷たかった。潮の匂いに松脂と焦げた油の匂いが重なり、樽の鉄輪が石を打つ音が短い間を置いて返ってくる。東の空が白むにつれて、帆柱の影が薄くほどけ、海面の細かなうねりが銀色に光った。


 桟橋の入口には、新しい印の写しが板に貼られていた。門番は板を指でなぞり、通行人に目を配りながら許可証の文面を声に出して確かめている。倉の鍵は倉番の腰、帳面は別の男の腕の中だ。朝のうちから役割が割れているのが目に見えた。


 ロドリゴが近づき、低い声で報告した。「提督、控えは箱に収め、封の糸も替えてあります。走者は昨夜のうちに出し、キューバのサンチャゴへ向かわせました。途中の宿と水場にも、顔が利く者を1人ずつ立ててあります」


 ディエゴは一度うなずいた。「よし。港が勝手に回るまで、最初だけは目で見ておく。門番を呼べ」


 門番が駆け寄り、深く頭を下げた。「提督、おはようございます。許可証と印の照合は、この板の写しどおりに行っております。文面が少しでも違えば、船を止め、港役所へ回すようにしております」


 ディエゴは言った。「それでいい。止める時は怒鳴るな。怒鳴れば港が荒れて見える。淡々と止めろ。止めた理由を、相手の前で短く言え。『文と印が合わないのでお待ちください』と、それだけでいい」


 門番は息を整え、はっきり答えた。「承知いたしました、提督。理由は短く、声は荒らさず、同じ言葉で繰り返します」


 ディエゴは倉のほうへ視線を移した。倉番が鍵束を握り、帳面の男が別に立っている。クララが油布で包んだ帳面を抱え、濡れた風が紙へ入らぬよう胸に押し当てていた。


 クララは言った。「提督、積み込みの控えは、朝の分と昼の分で分けて記します。夕刻の突き合わせは、鍵番と帳面番と、私の3人で行います。どれか1つでも数が合わなければ、その場で荷を止めます」


 ディエゴは言った。「それでいい。止める時は、誰が悪いかを先に決めるな。数を合わせてから、手順の穴を見つけろ」


 ◇ ◇ ◇


 桟橋の端では、馬が鼻を鳴らし、濡れた干し草の匂いが強く立った。甲板へ上げる縄がきしみ、滑車が鳴る。兵は笑い声を漏らしながら樽を抱え、手の平を火薬樽に近づけないよう互いに肩で押し合っていた。潮風に混じる馬の汗の匂いが濃く、鼻の奥が少し重くなる。


 サク・ニクテは船縁に手を置き、腹の張りを隠さず立っていた。潮風が髪の間を抜け、頬に冷えを運ぶ。彼女は港を見下ろし、船腹へ積まれていく水樽の数を目で追った。


 サク・ニクテは言った。「提督、水が先です。上陸してから井戸を探す時間が長いと、列がほどけます。ほどけた列は、怒鳴っても戻りません。最初から水の数をそろえて下さいませ」


 ディエゴは笑って返した。「分かった。お前が数を数えるなら、俺は船に積ませる。お前の列は崩させない」


 マルタは寝具の包みを抱え、布の端が汚れぬよう胸に寄せていた。口の中で祈祷文を短く唱えてから、顔を上げる。目は揺れないが、指先は包みに少し力が入っている。


 マルタは言った。「提督、海が荒れた時は、私が歌を始めます。歌えば息が乱れにくく、怯えた者の肩も少し下がります。よろしければ、兵の歌い出しを決めておきましょうか」


 ディエゴは言った。「頼む。怖い時に黙ると、頭の中の音が大きくなる。声を出していれば、足元が戻る。お前の声は崩れないから、先に出してやってくれ」


 それを聞いた兵の1人が、わざとらしく眉を上げた。「提督は、まさか歌われませんよね」


 ディエゴは肩をすくめた。「俺は顔が曇る役でいい。俺まで歌い出したら、誰が舵を落ち着ける。だが、お前たちが歌っている間は、俺も余計な怒鳴り声を出さずに済む。だから遠慮なく歌え」


 笑いが起き、甲板の空気が軽くなる。ドニャ・ベアトリスはその輪の外で香油の瓶の栓を確かめ、髪の襟足を整えた。匂いは強くしない。波と汗の中で、少しだけ残る程度にする。イネスは布包みの紐を結び直し、針と糸が揺れないよう指で押さえた。クララは帳面を油布で包み、海風が紙へ入らぬよう抱え込む。レオノールは先住民の女たちへ短い言葉で指示を回し、水桶の置き場と火の場所を確かめて歩いた。


 ◇ ◇ ◇


 沖へ出ると、波の色が深くなり、船の腹が水を押し分ける音が一定になる。帆が風をつかむたび布が張って鳴り、縄が手の中で生き物のように震えた。日が上がると甲板は乾き、塩が白く残る。鍋からは豆と干し肉の匂いが立ち、煙が海へ吸い込まれていく。湯気の向こうで、兵が椀を受け取り、熱さに指を振って笑った。


 夕方、ディエゴは女たちを集め、地図の上で指を滑らせた。指先には塩がつき、紙が少しだけざらつく。


 ディエゴは言った。「次はプエルト・リコだ。サンフアンで水と木を揃える。暗い内に降りれば、浅瀬が見えない。浅瀬は牙が見えないまま足首を折る。だから明るい時間に入り、錨を落としてから、落ち着いて水を汲む」


 レオノールは頷き、丁寧に返した。「承知いたしました、提督。夜の声は波と混じって距離が分かりません。明るいうちなら、崖も砂地も見分けがつきます。上陸の合図を、旗でそろえて頂ければ、先住民の女たちにも伝えます」


 ディエゴは言った。「旗をそろえる。合図がばらければ、足がばらける。お前は伝言役を頼む」


 ◇ ◇ ◇


 夜、船室は揺れが丸くなり、外の波音が低く続いた。灯りの蝋がとろりと垂れ、木の壁に薄い匂いを残す。ディエゴが腰を下ろすと、サク・ニクテが背に寄り、腹の子の動きを手のひらで示した。小さな鼓動が布越しに伝わる。ディエゴはその手を包み、指先に口づけを落とした。


 サク・ニクテは小さく笑って言った。「提督、こうして触れて下さると、子も落ち着きます。昼は風が強くて、腹の中まで揺れる気がします」


 ディエゴは言った。「揺れは止められないが、怖がらせないようにはできる。俺が近くにいる時は、余計な心配をするな」


 マルタが灯りを少し絞り、ベアトリスが水差しを静かに置いた。イネスは寝具の皺を伸ばし、布の端が肌に当たって痛くならぬよう整える。クララは帳面を胸の下へしまい、濡れの匂いが紙へ移らぬよう油布をきつく結び直した。レオノールが扉の外の気配を確かめ、足音が遠のいたのを見て戻る。部屋の空気には蝋の甘さと海の塩気と濡れた木の匂いが残り、女たちは互いの間合いを乱さず、同じ船の熱だけを静かに分け合った。


 ◇ ◇ ◇


 夜明け前、船首の向こうに黒い影が浮かび、やがて森の匂いが風に混じった。湿った葉の青さ、土の匂い、切り口の新しい木の匂いが、海の塩を押し返す。サンフアンの入り江は奥で水が静まり、波の音が急に小さくなる。岸の灯が消えかけ、鳥の声が先に響いた。


 錨が落ちると鎖が唸り、甲板が一度だけ震えた。桶を降ろす音、縄を投げる音、樽を転がす音が続く。水汲みの列ができ、桶が満ちるたび淡い冷たさが手首まで上がってきた。木材は森から運び出され、切り口の樹脂が朝日で光る。斧の音が一定に響き、樹皮の匂いが肌に張りついた。


 サク・ニクテは水樽を見て言った。「提督、これだけ揃えば、次の港で慌てなくて済みます。上陸してすぐに列を作れます」


 ディエゴは岸を見て言った。「ここで息を整える。水と木が揃えば、次で焦って手順を飛ばさずに済む。手順を飛ばさなければ、怪我も減る。怪我が減れば、笑い声が残る」


 マルタが小さく笑い、兵の1人が桶を掲げた。「提督、水は泣きません。私どもが泣きそうになったら、水を飲んで歌って、気持ちを戻します」


 笑い声が港に跳ね、朝の空気がさらに明るくなる。ディエゴは肩を回し、塩で荒れた指を握り直した。準備は整った。あとは港を1つずつ増やし、潮と風を確かめながら進むだけだ。

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