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ほくそ笑む大悪党 アルバロ・デ・モリーナ  作者: ひまえび
第6章――「波の鎖、南の潮」

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第4話(後編)――「木札の印、妾の席」

挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)


―――――――――――――――――

 登場人物〈男性〉


 ディエゴ〈28〉(遠征司令官、大尉) アルバロ〈27〉が遠征の際に名乗る仮名だ。アルバロは新大陸の皇帝を名乗り、新大陸からスペイン人勢力を追い出す意志を持つ。ただ、皇帝が前線へ出る格好は避けるため、現場では「ディエゴ」を名乗って軍を率いる。妻や妾、侍女、兵は真相を知らされておらず、ディエゴを高級将校だと受け取っているため、呼び方も態度もその前提で統一されている。


 登場人物〈女性〉


 サク・ニクテ〈22〉(正妻) コスメル島出身の先住民。コスメル島部隊5,000名の隊長。上陸地の井戸と倉を先に押さえ、配給と整列で隊の崩れを防ぐ。妊娠5か月で、腹の子の動きを隠さず前に立つ。


 マルタ・ロペス〈19〉(妾・新任) キューバ島の小教会にいた司祭の家で暮らしていた女性。寝具と衣類を預かり、針仕事で傷みを直してきた。祈祷文と聖歌を覚えており、人前でも声が崩れにくい。読み書きは得意ではないが、手順を守るのがうまい。前話での功績により、ディエゴの妾に抜擢された。


 ドニャ・ベアトリス〈30〉(スペイン人) セビリア出身。夫はサンチャゴ大聖堂に属する聖職者で、説教と告解の取りまとめに関わっていた。夫は旧来の権力筋と近く、城塞の内側の噂や名簿の流れにも通じていたが、争いの後に失脚し、姿を消した。ベアトリスは生き残りのためにディエゴへ好意を示し、名と事情を取引にする形で近づく。遠征には侍女として付いてきたが、口と香りで間合いを詰める癖があり、ディエゴは情報源として手元に置いた。


 イネス・アルバレス〈26〉(スペイン人) エストレマドゥーラ出身。夫はキューバ東部の砂糖農場の経営者で、圧搾機と倉、労働者の手配まで握っていた。夫は騒乱の夜に殺され、農場は人手と道具だけが残った。イネスは農場の内側を知り、誰が怠け、誰が盗み、誰が働いたかを具体で言える。ディエゴに好意を匂わせ、遠征では侍女として衣類や寝具の手配にも回るが、利で動く言い回しが抜けず、旧勢力との結びつきも疑われている。ディエゴは現場の証言を引き出すためにそばへ置いた。


 クララ・デ・アビラ〈20〉(侍女・新任) サントドミンゴの司祭館で同居していた女性。台所だけでなく家計簿と支払いの控えを任され、買い物の値と銅貨の数を間違えない。表に立って働いて稼いだ経験は乏しいが、帳面と鍵の扱いで屋敷を回してきた。


 レオノール・メンドーサ〈22〉(侍女・新任) イスパニョーラ島の司祭館で客間と寝具を預かっていた女性。割れ物や布の扱いが丁寧で、物の置き場を覚えるのが早い。先住民の女たちの言葉を少し知っており、水場や台所の伝言役に回れる。

―――――――――――――――――


 1521年4月30日、朝。サントドミンゴの総督邸は、夜の湿りを石壁に残したまま、海風だけが先に乾いていた。中庭の井戸は蓋がずれており、革桶を引く綱が濡れて黒く光っている。港のほうからは樽の転がる鈍い音が届き、砂糖を煮詰める甘い匂いが、塩気と混じって鼻の奥に残った。


 ドニャ・ベアトリス〈30〉は、台所の水甕を覗いた。表面に薄い膜が浮き、土の匂いに馬の汗の匂いが混じっている。甕の縁には、指でなぞるとざらつく白い粉が残った。灰ではない。石灰でもない。彼女は甕の底を木杓子で軽く叩き、音を聞いた。濁りが沈まない水だった。


 廊下へ出ると、兵の咳が聞こえた。乾いた咳ではない。喉の奥が湿って、息のたびに痰が絡む音だ。壁際には顔色の悪い若い兵が座り込み、腹を押さえて目を閉じている。革鎧の匂いに、吐瀉物を拭いた酢の匂いが混じり、空気がざらりとした。


 ベアトリスはレオノールに言った。「井戸へ行きなさい。桶と綱と、井戸の縁を見てきて。厩の水桶も同じよ」


 侍女が走る足音が遠ざかる。ベアトリスは中庭の端へ回り、厩の脇を見た。水桶の周りは泥になり、蹄の跡が深い。すぐ横に、捨てた藁と糞が山になっていた。昨夜の雨がそれを溶かし、細い流れになって石畳の割れ目へ染みている。臭いは強くないが、鼻の奥に残る種類の臭いだった。


 彼女はそのまま門を出て、広場の水場へ向かった。水を汲む女たちの列ができ、桶がぶつかる音が絶えない。口論も聞こえる。順番を飛ばした男が怒鳴り、女が引かない。汗と日焼け油の匂いの中で、子どもが泣いた。水が足りないのではない。水を信じられない顔を、皆がしていた。


 戻る途中、修道院の裏手で、溝が川へ落ちていく場所を見つけた。魚の骨や布切れが溜まり、薄い泡が動かない。そこから少し上流に、兵の洗い場がある。鎧の革を洗った水が、溝へ流れていた。汚れそのものより、汚れが集まる作りになっていた。


 ベアトリスは、総督邸の会議室へ入った。机の上には羊皮紙が広げられ、インクの匂いが濃い。ディエゴは帳面を閉じ、顔を上げた。


 ベアトリスは言った。「兵が倒れている原因は、食い物より水です。井戸の近くに厩があり、溝が井戸の下へ入っています。水甕にも膜が出ています。このままでは、戦う前に人がいなくなります」


 ディエゴは眉を動かしただけで、声を荒げなかった。彼は言った。「見たのか」


 ベアトリスは言った。「見ました。匂いも触りも、昨日と違います。溝の流れも見ました。雨の季節の前なのに、濁りが沈まない。汲み手が怖がっています」


 ディエゴは短く息を吐き、椅子を引いた。彼は言った。「なら、どう直す」


 ベアトリスは机の上の羊皮紙を借り、炭で簡単な図を描いた。井戸、厩、溝、水甕、広場。線は太く、迷いがない。彼女は言った。「厩を井戸から離します。すぐには移せないなら、水桶だけでも別に置きましょう。井戸の縁は石で高くして、雨水と泥が落ちないようにします。溝は井戸の外へ逃がして、石灰を撒きます。水甕は全部洗い直し、煮沸した湯で一度満たして捨てます。今夜から飲み水は、台所で沸かしたものだけにします。広場の水場には兵を立て、順番と量を決めます。札がなければ渡しません」


 ディエゴは言った。「札か」


 ベアトリスは言った。「封蝋の印で十分です。偽札を嫌がるなら、札は紙ではなく木札にします。油と汗の匂いが移るので、隠してもすぐ分かります。兵に渡す木札は、毎朝回収して配り直します。溜め込めません」


 ディエゴはその場で書記を呼び、工匠頭と厩番も呼ばせた。会議室へ人が集まるにつれ、汗の匂いが増えた。外からは、鍬が石を叩く音がすぐに聞こえ始めた。


 ◇ ◇ ◇


 昼前には、中庭の石畳が粉だらけになった。石灰の白い粉が舞い、喉が少し乾く。工匠は井戸の縁に石を積み、泥が落ちる隙間を粘土で塞いだ。厩の水桶は門の外へ移され、馬が鼻を鳴らして不満を示す。兵は綱を引きながら笑い、笑い声の合間に、まだ腹の痛みをこらえる呻きが混じった。


 台所では、銅鍋が休まず鳴った。湯が沸くたび、湯気が天井へ上がり、塩と脂の匂いが少し薄まる。水甕は庭へ並べられ、侍女と下働きが布でこすった。指先がふやけ、布がきゅっと鳴る。洗い終えた甕に湯を満たすと、土臭さが一度で消えた。水の匂いが変わると、空気まで軽くなるのが分かった。


 広場の水場には兵が2人立ち、木札を受け取ってから水を渡した。最初は怒鳴り声が上がったが、木札を持つ者が先に汲めると分かると、列が静かになった。桶が石に触れる音が規則正しく続き、泣いていた子どもが黙った。水を口に含んだ女が、眉をほどいた。味が変わったのではない。怖さが減った顔だった。


 5月1日の夜、医者のいる部屋で、寝台の数が空いた。汗で濡れた麻布が乾き、酢の匂いが薄まった。倒れていた若い兵が起き上がり、パンをかじった。噛む音が、部屋の隅まで届いた。


 ディエゴは中庭で立ち止まり、井戸の蓋を自分で押さえた。木がきしみ、ぴたりと合う。彼は言った。「明日も同じやり方で回せ。緩めるな」


 工匠頭がうなずく。兵が「はい」と返す。声が前より強かった。


 ◇ ◇ ◇


 その晩、食卓の灯りは蜜蝋で、匂いが甘く、煙が少ない。皿には塩漬け肉と豆の煮込みが並び、湯気がまっすぐ上がった。外からは遠い波の音が入り、開け放した窓の隙間で麻布の端が小さく揺れた。


 ディエゴは席順を変えた。正妻サク・ニクテの隣に、ベアトリスを座らせた。妾の席は、もともと並ぶはずだった椅子が減っており、木の脚の陰が床に空白を作っている。


 サク・ニクテは黙っていた。指先が杯の縁を1度なぞり、止まる。マルタは笑みを崩さないが、陶器の皿を置く音が少しだけ強い。彼女の袖からは洗った石鹸の匂いが立ち、甘い蜜蝋の下に硬さを作った。


 ディエゴは皆の前で言った。「水の件は、ベアトリスが筋道を示した。俺は命令を出しただけだ。明日からも、広場の水場は同じ決まりで動かす」


 沈黙が1拍落ちてから、兵の代表が杯を上げた。乾いた笑いが起き、場が動いた。だが女たちの目は動かなかった。サク・ニクテの視線は皿の縁に落ちたままで、マルタの目だけが、ベアトリスの口元へ細く向いた。


 食後、ディエゴはベアトリスに言った。「今夜、こちらへ来い。話がある」


 ベアトリスは言った。「承知しました」


 部屋へ戻る廊下は、石が昼の熱を少し残し、裸足だと温い。遠くで波の音がした。ディエゴの部屋の扉が閉まると、外の気配が薄い布で遮られたように消えた。蜜蝋の匂いが濃く、洗った麻布の匂いが混じる。香油はベアトリスの髪から先に立ち、甘さの奥に樹脂の苦みが残った。


 ディエゴは言った。「お前は、家の中のことを見ている。目が利く。俺のそばに置く。妾として迎える。異論は俺が許さん」


 ベアトリスは1度だけ息を吸い、言った。「私は役に立ちます。役に立つことで、ここで生き残ります」


 ディエゴは短く笑い、彼女の髪に触れた。指の温度が真っ直ぐ伝わり、香油の匂いが揺れた。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝から、ベアトリスはディエゴのそばで帳面を見た。木札の回収数、湯を沸かす薪の量、甕の洗いの当番。数字は多くないが、抜けがあるとすぐ崩れる部分だった。彼女が指を置くと、書記が黙って書き直す。インクの湿りが紙に残り、羽根ペンの擦れが短く続いた。ディエゴはそれを咎めない。むしろ、目を細めて見ていた。


 その光景が、女たちの目を硬くした。


 サク・ニクテはレオノールに言った。「彼女は、ここを自分の家だと思っているのか?」


 レオノールは答えなかった。水甕の蓋を押さえ、布を直すだけだ。布が擦れる音が、妙に大きく聞こえた。


 マルタは笑って近づき、ベアトリスに言った。「あなたは器用ね。男の前で、上手に喋れるのね」


 ベアトリスは言った。「声を出さないと、腹を下して人が倒れます。倒れたら、次は子どもです。私はそれが嫌です」


 マルタの笑みが1瞬だけ止まった。甘い香油の匂いの下に、歯を食いしばる気配が混じった。


 そこへ、イネスが横から来た。彼女は盆を受け取った侍女の手元を見てから、低い声で言った。「今は、あなたが口を出す場面ではないでしょう。ここは総督邸です。勝手に決めごとを増やすと、つけは台所に回ります」


 ベアトリスは言った。「台所に回る前に、倒れる数を減らします。水を守る決まりは、増やすのではなく、揃えるだけです」


 マルタは、さらに近づいた。息に甘い酒の匂いが残り、甘さが鼻に刺さる。「妾は妾よ。座る場所を間違えないで。昨日までは侍女として入ってきた人でしょう」


 ベアトリスは言った。「座る場所は、ディエゴが決めます。私は仕事をします。あなたが嫌うなら、嫌ってください」


 その瞬間、空気が冷えたように感じた。中庭の噴水の水音だけが続き、鳥の声が遠のく。布靴の先が石に当たり、乾いた音がした。誰かが盆を持つ手を止め、金具が小さく鳴った。


 ディエゴが回廊から姿を見せた。彼は状況を1目で見た。女たちの距離、侍女の手の止まり方、声の高さ。彼は言った。「水の決まりを乱すな。家の中も同じだ。俺が決めたことに、余計な口を足すな」


 誰も返事をしなかった。だが、目だけが動いた。ベアトリスへ向ける目が、前より鋭い。


 ディエゴはベアトリスの肩に手を置き、言った。「来い。次の手当ての段取りを決める」


 手の温かさが、周囲の冷えを際立たせた。ベアトリスが歩き出すと、背中に刺さる視線が増えた。潮の匂いが強い風が吹き、回廊の布がはためく。誰かの小さな舌打ちが、石壁に吸われる前に、耳へ届いた。


 その日、井戸の水は澄んでいた。だが邸の中の空気は、前より濁っていた。ディエゴはそれを知ったうえで、ベアトリスを離さなかった。

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